剥げる仮面 | ナノ

 俺とはまったく縁のない子だと思った。いつも本を読んでいるか勉強しているかで、ひとりが好きなんだなあ、ぐらいの印象で。
 だから初めて目が合った時、興味がわいたのだ。少しだけ。


「あっ、及川くんだー! 部活はー?」
「休憩なんだよー。教室に忘れ物しちゃってさ〜」
「えーっ、ダメじゃん! 部活頑張ってね!」
「あはは、ありがとー」



 熱気のこもった体育館から出て廊下を歩きながら、たまたま遭遇した女の子たちに表情を作って手を振って別れる。彼女たちの気配が完全になくなってから、ふう、と息を吐いた。
 女の子たちはかわいいし好きだけど、俺はこの表情を瞬間的に作らなければいけないと知っている。表の俺は完璧だ。笑顔で優しくて、でも実際はちぐはぐでひとつでもボロが出たら終わり。後は一気に崩れてしまう。
 及川徹を作り上げろ。弱みを見せていいのはそれを許せる仲間だけだ。




「しっつれーしまー…」
「…ん、及川か」
「あっれー、委員長くんじゃん。どったの?」
「その呼び方をやめろ、及川徹」


 教室に着くと、そこにはひとりだけ残っていた。見覚えのあるその姿は、机に座ってやっぱりというか本を読んでいた。眼鏡越しに捉えられた目は、俺がからかうような喋り方をすれば表情が歪む。
 ごっめーん、と言いながら進んで行くと、本を閉じて溜め息を吐かれた。



「本、いいの?」
「読む気が失せた。読み返したかっただけだ」
「一回読んだのにまた読むの? そんなにいい話なの?」
「ハードカバーの本しか出ていなかったのが、文庫で出た。それだけだ」


 へえ、とだけ呟いてちらりと見る。まったく知らないその本は彼が持っているだけで、面白そうに思えた。
 でも一番は、その本を持つ手と指。セッターというポジション上、手は気になってしまう癖があるにしても彼のそれは綺麗だった。



「…用があったんじゃないのか?」
「あっ、そうだった。忘れ物しちゃってさー」
「それならさっさと済ませろ。部活があるんだろ」
「えっ、俺汗臭い?」
「別に臭くはない」


 ここは涼しい。彼の言う通り、ここはよく風が通っていた。半分ぐらい開かれた窓から風が入ってきて、白いカーテンが揺れている。
 机の中に入れっぱなしの忘れ物を手に取ってから、彼の座る前の席、誰のか知らない。椅子をちょっと借りて、身体ごと彼に向かうように座った。

「何をやっている」
「何でこんな時間までいるの?」
「質問をしたのは俺のほうだ」
「ああ、ごめん。気になってさ」
「お前には関係ない。とっとと部活に行け」
「えーっ、つれないなあ」



 いつも無表情で感情を表に出さないと思っていた俺の委員長くんに対する印象は、どうやら偏見だったらしい。
 よっぽど俺と話したくないのか、眉間に皺が深く刻まれる。うわー、嫌そうな顔。たぶんまともに喋ったのはこれが初めてなんだけど、男女問わずこんな表情を俺に向けるのは殆どいない。
 岩ちゃんは、表情より手が先に出るタイプだから。あ、蹴るから足かな?




「もう用は済んだだろ。それとも、まだ何かあるのか?」
「うーん、君と親睦を深めたいと思いまして」
「は?」
「委員長くんの俺に見せる顔酷くなーい?」
「だからその呼び方をやめろと―」
「じゃあ、俺のことフルネームで呼ぶのもやめてよ」


 俺のことそうやって呼ぶの君だけだし! 何なら徹ちゃんでもいいよ? と笑ってそう言えば、短く舌打ちした後に、及川、と紡がれた言葉。
 徹ちゃんはお気に召さなかったらしい。まあ、当たり前か。嫌そうな顔をしながら徹ちゃんって呼ばれるのもいいかもしれないけど。
 そう思っているこの時点で、俺は彼に興味がわいていたのだと思う。




「部活に行かなくていいのか」
「心配してくれるの? やっさしーね」
「別に心配はしていない。ただ、俺とこうして話している無駄な時間を過ごすぐらいなら」
「無駄じゃないよ」
「何?」
「君と過ごす時間が無駄か有意義か、俺が決めることでしょ?」


 別に、休憩時間に取りに来なくてもよかったのだ。でも俺は主将だし、誰よりも練習して最後まで居残る。
 あんまり遅くなると岩ちゃんに注意されて切り上げるけど、その頃には大抵校舎は暗くなっている。授業が終われば部活生は真っ先に向かい、それ以外は教室を出る。
 だから、今ここで彼に話し掛けたのは興味本位だった。偶然俺が忘れ物をして、偶然彼がここにいて。
 にっこり笑ってそう言えば、彼の瞳が少しばかり見開かれた気がした。




「えっ、何?」
「俺は今まで、及川は人を苛つかせる天才だと思ってたんだが」
「嬉しくない!」
「喜ばそうと思って言っていない」
「君って、嘘つけないタイプでしょ?」
「嘘をつく必要がないだろう」


 何を言っているんだこいつは、とでも言いたげな視線を向けられて羨ましいなあと思った。
 この子はきっとひどく純粋で、仮面を被る必要なんてなくて。その言葉ひとつひとつに気遣いとかいうものが感じられなくても、思ったことをそのまま口に出せるのって実は結構すごいことだ。
 俺は及川徹という人間像を作り上げることで、まっすぐではなくなってしまった。虚勢を張らなければ息もできない。いくつかあるうちのひとつに過ぎない及川徹は、たまに本物がどれなのかわからなくなる。



「そういえば、お前は嘘つきだったな」
「えーっ? 俺嘘なんてつかないよー」
「その喋り方が嫌いなんだ」
「えっ?」
「女なら猫被り、とでも言うか。気持ち悪い笑顔とセットで気に喰わない」
「そん、」
「お前は、何をそんなに怯えている?」




 眼鏡の奥からじっと見つめてくる瞳に射抜かれるようで。こんな強い視線、今まで戦ってきた相手だってなかった。見透かされているようで、思わず目を逸らす。
 君に関係ないでしょ、と絞り出した声が震えてしまった気がして手が汗ばんだ。


「何をそんなに怖がっているのかは知らないし知りたくもないが」
「そこはお世辞でも知りたいって言ってよ」
「知って欲しいのか? 関係ない人間に?」                                                                                                                                 
「っ…」                                             
「…っふふ、」
「え?」
「ああ、悪い。面白くてつい」

 突然洩れた笑い声は、なんとびっくり彼のものだったらしい。口元に手を当てて、目を細めてくすくすと笑っている。
 すらりと長く骨ばった指や関節はやっぱり同性の俺でも見惚れてしまうほどで。
 それ以上に驚いたのは、何よりこの笑顔だ。俺が今までに見た彼と言えば無表情―よく言って真剣な表情、といったところか。俺相手に嫌そうに表情を歪めるのは想像できても、この笑顔は予想外だった。

                  


「いつものお前は苛つくから視界に入れないように心掛けていたんだがな」
「…泣いちゃうよ?」
「できるものならやってみろ。瞬きせずに見てやるさ」
「君っていい性格してるね…」
「でも、今のお前は見ていて楽しい」
「それって俺のこと笑ってるだけじゃ―」


 瞬間、強い風が吹いた。今日一番の強い風は、カーテンが顔にぶつかるほど。
 風がやんで見えた視界の先で、ふっと笑った彼に目を奪われる。




「今の及川は、嫌いじゃない」

 風が完全に消える寸前、いつもは髪で隠れた彼の表情がよく見える。笑顔には自信がある俺でさえも、どんなにかわいい女の子よりも。一番綺麗な笑顔だと思った。
 俺の顔に貼り付いていた分厚い何かが、一瞬にして剥がされるような感覚。
 俺の中の何かが、音を立てて、割れた。



「ねえ、その眼鏡って度入ってるの?」
「度の入っていない眼鏡なんか掛ける意味なんて―おい、」
「うっわー、美人さんじゃん!」
「美人というものは、本来なら女性に使うべき言葉だ。それにお前みたいな軽薄な人間に言われたところで嬉しくない」
「えー、俺好きになったら一途だよ?」              
「そういうことを軽々しく言うからだ。背後には気を付けろよ」
「物騒なこと言わないでよ〜」  


                                                                                                                                                                 

 つんつん、指で彼の顔を突けば嫌そうに顔が歪む。
 それが面白くてしばらく続けていたら、いい加減眼鏡を返せ、と手が伸びてくる。その伸ばされた手をかわして眼鏡を掛けてあげようとしたら、うまくいかずに顔にぶつかってしまった。うわあ、機嫌悪そう。
 眼鏡は結局あっさり取られて、自分で掛け直した彼が立ち上がる。




「帰るの? 待っててくれたら送るよ」
「何故お前と一緒に帰らなければならないんだ」
「じゃあ途中まで一緒に行こうよー」
「…物好きだな、お前も」


 どうやら許してくれるらしい。俺より小さい彼と並んで歩くためには、少し遅めに歩幅を合わせる必要があるのも今日彼と話さなければ気付けなかったことだ。新しい世界が開けた気がして、口元が緩みそうになり思わず止まったら、彼は構わず前を歩く。
 うん、そういう子だよね。知ってた。
 ふと手を伸ばしてみれば、彼の背中に届きそうなそれはギリギリのところで空振った。簡単に手に入るものなんて楽しくない。空振った手を拳に変えて、彼に追い付く頃にはもう靴に履き替えた後だった。




「じゃあ、俺は帰る。早く部活行けよ」
「うん。あ、ねえ」
「何だ?」
「俺、欲しいと思ったものは意地でも手に入れたいんだよね」
「…だから?」

 首を傾げた彼はきょとんとしている。あ、この顔初めて見た。かわいい。
 そう思っている俺は確かめずとも彼にはまっていることなんて一目瞭然で、でも目の前の彼は気付いてないんだろうと思えばますます好きになった。
 ここで既成事実を作ることもできたのかもしれないけど、乱暴なやり口は好きじゃない。
 もっとじっくり、時間を掛けて。追い詰めて、俺の中に閉じ込めてあげる。


「俺、諦めが悪いから。覚えてね」

 それだけ囁いて、また明日。彼の返事を待たないまま、先に歩を進めたのは俺だった。
 彼の表情は見ていないけれど、きっと不思議そうな顔をしているんだろう。それも含めて、やりがいがあるというものだ。
 足に羽が生えたように軽くて、前へ前へと駆け出した。





fin.

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