あまのじゃくベイビー | ナノ

 優しくて優しくて、優しさの塊のような男だから。きっと、あの困ったような笑顔を向けてくれるのも最後になるだろうと思っていたんだ。



「旭、うるさい」
「ご、ごめん…でも、ボタン開けすぎだよ」
「はあ? 暑いんだけど。そんなこともわからないなんてばっかじゃないの」
「せめて先生の目があるうちはさ。ね?」
「…チッ、」


 俺はとてつもなく、口が悪いと自分で理解している。普段はそうでもないけど、旭と喋る時だけは異常に口が悪い。
 まあ旭相手じゃしょうがないだろ、と笑顔で言ってのける澤村が言うぐらいには俺の旭への態度はクラスメイトであり友達だった―今となっては恋人へ向ける表情として、相応しくないものが多すぎる。
 旭の言う通り、暑さでだらしなくなった生活態度を見直そうというめんどくさい先生の動きからか、旭に留められたボタンをそのままに、目を光らせる先生のチェックをやり過ごした。思わず出た舌打ちは、暑さのせいなんかじゃない。




「あ、先生もう行ったよ」
「ボタン開けて」
「ひとつでいいの?」
「この暑さでひとつだけとか有り得ないでしょ。みっつ」


 はいはい、と笑った旭は律儀にも俺のボタンを開けてくれる。
 旭に言われてつい反抗してしまったけど、ふたつでも良かったかもしれない。いや、でもひとつだけはないわ。
 まるで飼い主とペットだな、なんてクラスメイトに言われても旭はへらへらと笑っているだけで。
 だから俺も、どんどん口の悪さに拍車が掛かるんじゃないか、とも思ってみたり。



「でも俺は、旭が保護者でお前が子供に見えるな」
「ああ、俺も同じこと思ってた」
「はあ? 旭なんかいなくても生きていけるし」
「ははは…」

 同じバレー部の澤村と菅原にこんなことを言われたって、ここで言い返さないあたりがへたれの旭らしいというか。
 俺は身長が低いのと童顔のせいもあって、絡まれることが少なくはなかった。口も悪いし。そんな時、俺の口が余計なことを喋ってしまう前に旭が止めるのは別にいいとして―外見で誤解されやすい旭が出ただけで、それまで俺に絡んでいた奴らがあっさり消えるのが気に喰わない。
 思い出したらむかついてきたので、旭を叩いた。びっくりした、と言いながら相変わらず旭は笑っていたけど。




「あれ、今日バイト休みだっけ?」
「急に休みになった。で、何」
「待っててくれるなら送って行くけど」
「何でわざわざ待たなきゃいけないんだよ。もう帰るし」
「あはは、だよね。気を付けて」
「いいからとっとと行けよバカ」

 ロングホームルームが終わり、相変わらずへらへらと笑う旭の背中を蹴りながら押し出す。もっとも、俺なんかが蹴ったところで旭の大きい背中はびくともしなかったけど。
 大体何が気を付けて、だ。男の俺がひとりで帰って気を付けることなんてあんのか。旭たちみたいに暗くなってから帰るわけじゃあるまいし、余計なお世話だ。
 毎回そう言うのに、ごめんと旭は笑うから。俺のほうが呆れて、言うのを止めてしまった。


「しっかし、お前って東峰に対してだけはほんと口悪いよなー」
「だってあいつ苛々するだろ」
「東峰にあんな口聞けるのお前ぐらいだって! あ、あとバレー部か」
「俺らだって、お前が東峰と話すの聞くまで怖い奴だと思ってたもん」
「マジマジ! 実際は優しいもんだから、びっくりしたよなー」
「優しいんじゃなくて、へたれなだけだろ」
「いやー、ほんとお前のそういうところ真似できねーわ!」



 俺と旭の話を聞いていたクラスメイトが、旭が姿を消してから俺に話しかけてきた内容はやっぱりというか旭のことで。
 外見のイメージから、旭は誤解されることが少なくなかった。
 ただでさえ身長高いんだからその鬱陶しい髪を切れ。男のくせに。せめて髭は剃れ。
 それが俺と旭の会話を聞いて、本当の旭―イメージがヤンキーだとすれば、実際は優しいということなのか。実際は優しいなんて良く言えばの話で、へたれ、へなちょこ、小心者のセットである。たぶん、旭をよく知るバレー部連中もそう言うに違いない。少なくとも同学年は。




「たまには東峰に優しくしてあげないと、愛想尽かされるぞー」
「俺から構ってるわけじゃないし、頼んだ覚えもないね」
「っぶは! それ東峰に言ってやんなよ、可哀想だから」
「あいつが今更こんなことで傷付くかよ」

 さすがに、わざわざ言ってやろうとは思わないけど。言ったところで、旭はきっとまた困った顔で笑うだけだ。
 このまま喋っていてもよかったけど、せっかく休みになったのだから買い物でもしてみようと思った。じゃあ俺帰るから、と手を振って教室を出る。下駄箱に着くと、冷たい風が入り込んで身体がぶるりと震えた。


「ちょっといいですか?」
「…すぐ済むなら、いいよ」




 校舎を出ようとしたその矢先、俺を真っ直ぐ見つめる男子にそう言われたのは靴を履いてからのことだった。
 ダメって言ったらどうするの、とも言いそうになったけど―俺は早く帰りたいわけだし、話が長引くのであれば用はない。喋り方からすると、下級生だろうか。口振りから察するに彼は俺のことをよく知っているようだったが、俺は彼のことをまったく知らない。
 すぐ済みますのでついてきてもらえますか、との彼の言葉に従った俺はどんな目に遭っても後悔できないと思った。



「…それで? 何の用かな」
「あなたは時間がないようですし、僕もまどろっこしいのは嫌なので単刀直入に言わせていただきます」
「そりゃどうも」
「東峰先輩を、解放してください」

 あまりに突拍子な言い分に、返事をするのを忘れてしまった。目の前の彼は相変わらず真顔なので、冗談を言ってるわけではないらしい。
 いやー、そりゃ話し掛けられた時点でまさか告白をする雰囲気でもなかったし、悪くて殴られるぐらいだと踏んでたんだけど。


「…どういう意味?」
「東峰先輩を、自由にしてくださいと言ったんです」
「俺がいつ、旭の自由を奪ったって?」
「あの頃から、ずっとです。今も」



 あの頃、とは。旭が挫けて、バレー部に行かなくなって、それから。俺と付き合い始めた日のことだろうか。
 いつもは頼りないくせに、エースは俺しかいないからしっかりしなくちゃね、と照れくさそうに笑っていた。
 高い壁に何度も打ちのめされた旭はすごい落ち込みようで、流されるまま付き合った。そこに同情があったのは認める。
 でもバレー部に戻った旭とも付き合っているし、そもそも嫌なら向こうから離れてるはずだ。旭の自由を奪う権利なんて、誰にもない。



「あなたが、東峰先輩の支えになっていたのは認めます。感謝もしています」
「別に、君に感謝される筋合いはないけど」
「でも、もう東峰先輩は戻った。あなたは必要ないんです」
「随分と、人を物みたいに言うんだね」
「…それを、あなたが言うんですか?」

 ずっと真剣な表情を貫き通していた、彼の表情が崩れた瞬間だった。嫌そうに歪めたその表情から察するに、俺は彼を怒らせてしまったらしい。
 ていうか、俺も勝手に呼び出されて見ず知らずの人間にこんなこと言われてんだから怒って当然なんだろうけど―旭のことなんかで怒るなんて、めんどくさいので口を閉じた俺偉い。



「東峰先輩を物みたいに使うくせに」
「俺が旭を物扱いするところでも見たのかな」
「あなたの東峰先輩に対するそれは、見るに耐えないんですよ」
「…じゃあ見なきゃいいんじゃない?」
「そうやって、東峰先輩をいつまでも縛り付けるんですか」
「縛り付けた記憶もないけど」
「いい加減にしてください!」




 冷静な態度を心掛けていたけど、それが癪に触ったらしい。いきなり怒鳴った彼は、拳を握り締めてぶるぶると震わせている。相当本気で怒っているのがわかるのと同時に、これだけの原因は何となく察した。
 場合によっては言い争いに発展することもあるから、思ったことをすぐ口に出しちゃいけないと口を酸っぱくして言われてたのに、そんなことはすっかり抜け落ちていたのだ。今の俺は。


「君ってもしかして、旭のこと、好きなの?」
「―ッ! あ、なたは…! どこまで人をバカにしたら…!」
「バカにしてるつもりはないんだけど、気に障ったなら悪い」

 でも図星だろ、と言いたいぐらいに彼の顔は赤く染まっていた。かっと顔を赤くしたと思ったら、俺の胸倉を思いっきり掴んできたのだ。おとなしそうに見えて、実はやると強いのかもしれない。俺のほうが身長高いから苦しいなんてことはないけど、シャツ伸びちゃうし。
 やんわりと彼の手を解こうとすれば、手が触れた瞬間に払われた。彼は俺をまだ睨み付けていて、俺はそんな彼を横目にシャツの皺を直した。



「…東峰先輩が、同情と恋愛を履き違えてるだけだと思わないんですか?」
「言ってる意味が―」
「あなた自身が、東峰先輩に同情したと思っていましたか? 勘違いも甚だしい」

 ―本当に可哀想なのは、コートに立つ資格も勇気もなくしたあなた自身じゃないんですか?―


 響いたそれは、頭を金槌で打たれたような衝撃だった。
 疼いた脚は、今ではもう何ともない。でも、あの時。俺が怪我したことによって、旭ひとりに責任を負わせてしまった。だから、せめてもの、罪滅ぼしのつもりだった。
 俺の脚が動けば、俺が跳べれば、俺がまだコートに立てていたなら。旭は俺の隣にいなくても、笑っていたかもしれなかった?




「…俺のこと、知ってたんだ?」
「知ってましたよ。あなたはいつも、東峰先輩の隣にいましたから」
「そうか…」
「東峰先輩の隣に立つ勇気がないのなら、もう付き纏わないでください」



 東峰先輩は優しすぎるから、あなたにとっても心地良かったことでしょう。でも、もう東峰先輩は戦ってるんです。ただ、逃げ回ってるだけのあなたとは違う。劣等感を抱いて、そんな東峰先輩に八つ当たりするような人なんていらないんですよ。
 何様のつもりだと言いたくなるような言い分は、残念なことにすべて図星だった。何も言わない俺に言いたいことはぶちまけたのか、俺のことなんてお構いなしに横切る。




「…本当に東峰先輩のことが好きなら、東峰先輩の幸せを願ってくれるはずだと信じてますから」

 去り際に、それだけ言い残して。足音が遠ざかっていく。足音が消えてから、力が抜けるようにしゃがみ込んだ。
 制服のズボンを捲ってそっと触れた傷跡は、わずかな熱を持つだけで痛くも痒くもない。今の俺だって、これと同じはずなのに。


『うぁ…っ…』
『―ー!』
『大丈夫か! しっかりしろ!』
『っはは…あー…やっちまっ…た…』
『何、言ってんだよ…! 動くな!』
『わり…後、頼んだぜ…エース…』




 鈍く痛みが伝わる感覚。脚を押さえて横たわる俺に、叫ぶ旭たち。
 声でけえ、と思っても口には出せずに笑っただけで終わった。痛くて、熱くて、苦しくて。
 コートから姿を消して、自分の不甲斐なさに泣いた。ひとりで。静かに、声を殺して。


『ごめん…っ』

 あの時言えなかった言葉を、今口にするべきなのかもしれない。




「旭」
「あれ? もう来てたんだ、早いな。こっちにいるの珍しいね」
「今日、昼ふたりだけで食べたいんだけど」
「? うん、いいよ」
「ん。じゃあ、またあとでな」

 体育館に足を踏み入れる勇気はなかった。見ただけでわかる、一際高い後ろ姿。声を掛けると、旭に混じって他の奴らの目線も集中する。
 ああ、新しく入った一年生たちか。個性派揃いだな、澤村は大変だろう。
 どこか他人行儀な自分の言い方に、背を向けて笑った。


「ごめん、お待たせ!」
「んな待ってない。悪くないのに謝ってんじゃねえよ」
「あはは…今日、なんか優しい?」
「…なんで?」
「うーん…勘?」
「そうか」



 それならお前の勘、いい線行ってるかもな。
 旭を呼び出した屋上で、俺は冷たいコンクリートに腰を下ろして淡々と言った。旭はよく意味がわかっていないのか、不思議そうな顔で俺を見つめている。
 ああ、その間抜け面に何回俺は文句を言ってきたんだろうな。だから、今日ぐらいは黙ってやるよ。だって、

「今日で、最後だからな」
「え…?」



 俺の言葉は、僅かに目を見開いた旭の耳にしっかり届いたらしい。
 座れよ、と言っても旭は棒立ちになったままで。俺は座ったままなのにただでさえ身長の高い旭を見上げると首が痛いから、旭から視線を逸らして前を見た。


「別れよう」
 
 隣で音がしたと思ったら、それは旭が持ってたパンを落とした音だった。
 ああ、こんな時まで俺の好きなパン買ってきやがって。やっぱりお前、どうしようもなく優しい奴だな。今日までは食ってもいいかな。ダメか。明日からって言ってるといつまで経ってもできないんだもんな。



「…なんて言ったの? 冗談?」
「つまらない冗談言うつもりで呼び出したと思うのか」
「俺、何か悪いことした?」
「旭は何も悪くない」
「じゃあ! なんで…っ、」

 こんな風に必死になる旭は、バレー以来かもしれない。いつの間にか膝を付いていた旭に腕を掴まれながら、俺は漠然とそんなことを思っていた。
 そうだよ。悪いのは俺なんだよ。旭みたいに、あの場所に戻る勇気がなかった。




「もう、嫌なんだよ」
「え…?」
「俺の世話を、もうしなくていいんだ。楽になるだろ」
「どういう、」
「お前はバレー部で、俺はそうじゃない。それだけだ」

 普通の人には、きっと伝わらない。でも、俺たちには、俺と旭の間には。これだけできっと充分で。
 震えるほど握った拳に、きっと唇は強く噛み締められているのだろう。自分のことでもないくせに、なんでお前がそんな悔しそうなんだか。



「俺はもう、バレーが好きじゃなくなった」
「…それが、別れる理由に繋がるの?」
「だから、今のお前を見てると…キラキラ輝いてて、大嫌いだ」

 あの時、俺が怪我をしたのは誰のせいでもない。俺の不注意だ。
 でも、俺が怪我をしたから。旭に頼るしかなくて。それで菅原にもつらい思いをさせて、旭がいなくなって。
 人数はギリギリだし、練習は最初吐きそうになるほどきつくて。でも自分が先輩になったことが嬉しくて、毎日バカみたいに遅くまでバレーやって。
 力いっぱい跳んで、ネットの向こうにボールを叩き付けるあの感触が忘れられない。
 でも、もう怖くて跳べない。惨めになる。



「お前といると、つらい」

 脚はとっくに治った。バレーもやるなとは言われなかった。また旭と、旭たちと、笑ってできるんだと思ってた。それなのに、俺の時間だけがあの時から止まったままで。
 俺の逃げ道に、お前を巻き込むわけにはいかないんだよ、旭。もともと俺がいなくたって、大丈夫。だって、うちが誇るエースなんだからな、お前は。

「だからこれが、最後だ。別れてほしい」

 本当の本当に、最後だと決めて。頭を下げて、お願いだ、と。
 旭は優しいから、きっと俺の願いを聞いてくれる。そうして、きっと可愛い女子とでも付き合うんだろう。お似合いだ。
 旭は誤解されやすいけど、優しくていい奴だから。俺が、本気で好きになった、いい男だ。




「ごめん、できない」

降ってきた言葉に、思わず顔を上げた。


「俺は、別れたくない。別れないよ」
「なん…」
「そっちこそ、俺をなんだと思ってるの」

 冗談は感じられない言い方に、思わず唇を噛んだ。
 溜め息を吐いた旭が、この際だから言わせてもらうけど、と口を開く。

「俺が同情なんかしてると思ったら、大間違いだからね」
「―っ」
「同情で付き合うほど、俺は優しくないよ」

 確かに、それがきっかけだったのは認める。怪我したお前を見て、心臓が止まりそうになったよ。不安でしょうがなくて、コートから消えてそのままいなくなっちゃうんじゃないかって。
 でも、俺が壁にぶち当たったのは、俺のせいだ。俺自身の力不足だ。
 お前のせいだなんて、誰ひとり思っちゃいないよ。



「それに、俺はずっと好きだったよ」
「は…?」
「俺がバレーに復帰できた理由さ、知ってる?」
「説得されたんじゃ―」
「それもあるよ。でも、一番はこの言葉を信じてたから」

 俺がお前を好きになって、お前はきっと俺のことなんてまったく気にしてなかったけど。それでも、高い壁に阻まれても。忘れてたなら、今ここで、言うよ。これは俺にとって、お前へ向ける言葉でもあるからさ。
 そう言った旭が、すうっと大きく息を吸い込んだ。




「俺、お前のプレー大好きだ!」

 さっきまで静かだったのに、風の音が聞こえた。でも、力いっぱい叫んだであろう旭の声が風に掻き消されることはなくて。
 ってね、と笑った旭がこっちを見る。俺のことも好きって言ってくれてるみたいで、嬉しかったんだ。とか。
 そんなの、好きに決まってんだろ。ていうか、


「そんな昔のこと覚えてるとか、バカじゃね…」
「バカかな」
「バカだよ。おまえは、ばか、だ」
「…うん。バカでいいよ」

 膝に顔を埋めるしかなかった。
 言った本人も忘れるぐらい前のことだぞ、どんな記憶力してんだよ、もっと他のことに生かせよ。
 悪態を付けなかったのは、声が震えるのがわかったから。コンクリートに染みを作った熱い水は、確かに俺の目から流れていた。



「それに、まだバレーが好きなんでしょ」
「…根拠は」
「嫌いになるなら、お守りなんて持ってないから」

 それ、いつもポケットに入れてたよね。俺には見せないようにしてたみたいだけど。
 そう旭に言われるままにポケットから出したそれは、バレー部に入った時にみんなで買ったものだ。お揃いで。このチームで勝つために、と。
 バレーを嫌いになれない証拠は、ここにしっかりと残っていた。
 俺のはもうボロボロだけどさ、と旭が取り出したそれは確かに破れていたりして綺麗とは言えない。




「…すごい、一年がいるんだ。頭がオレンジ色の子、わかる?」
「あの小さい、」
「そう。日向って言うんだけどね、すごく跳ぶんだ。足も速いし」
「…そうか」
「最強の、囮なんだって」
「囮…?」
「だから、安心して跳べるんだよ。俺も、お前も」


 頼り甲斐のあるエースが、もうひとりぐらいいたっていいでしょ?
 そう手を差し出す旭に、濡れた目元を拭って手を重ねた。



「まだ昼休みだろうが、早とちり」

 そう、憎まれ口を叩きながら。




「澤村」
「…世間話をしに来た、ってわけじゃないみたいだな」
「澤村に…っつーか、バレー部に、な」
「なんだ?」
「悪かった」

 放課後、体育館に行けば俺の知る顔は既に集まっていて。いつも無表情に近い清水が少し驚いた顔を見せたあたり、俺の登場は予想外だったらしい。
 菅原が、泣きそうな表情をしているように見えた。少しだけ。


「勝手に怪我して、勝手に辞めて。今更、許してくれなんて言わない」
「別に俺は怒っちゃいないけど」
「それでも、だよ。戻りたいなんて言うつもりはない」
「…それで?」
「もう一度だけ、跳ばせてくれないか」

 シューズの滑る音、落ちる汗、響く掛け声。懐かしいこの空間に、まだ俺の心臓は早まっていない。
 ダメって言うと思ったのか? と笑った澤村がくるりと背を向ける。準備をしろ、という合図だ。
 俺は制服のままなので、上着を脱いでズボンの裾を捲った。


「菅原、悪いけどトス頼む」
「…バカ。謝らなくても上げるよ」
「…ありがとう」
「そう言うのは、決めてから言えよ」

 そうだな、と目を伏せて笑う。あの頃に戻ったみたいで、少し胸が熱くなった。
 続々と集まってきた部員らしき人影は、ギャラリーみたいに俺たちを見る。
 そりゃそうか、部外者がいるんだもんな。
 その中に見知った後輩を見つけて、その名を呼んだ。



「西谷、悪いけどこっち入ってもらえるか」
「…当たり前っすよ!」
「あと、そこの、えーと…日向くん?だっけ」
「ふぁいっ!?」
「澤村のほうに入ってもらっていいかな。あとは身長ある子が…」
「ああ、なら月島。こっち来てくれ」


 これでメンバーは揃った。西谷に入ってもらったけど、向こうには澤村がいる。俺は日向くんと月島くんのプレーを見たことがないから、どんなものかわからない。
 コートに入ってみると、その広さにぶるりと身体が震える。
 目を輝かせる日向くんとは対照的にめんどくさそうな顔をする月島くんに、一回だけだから、と頭を下げてくれたのは澤村だった。

「大丈夫っすよ、先輩! 思いっきり跳んでください!」
「西谷…」
「先輩がもう怪我しないように、俺先輩のことも拾ってみせますから!」
「…それは怪我に繋がるから危ないだろ」


 でもありがとな、心強いよ。
 そう笑って、位置についた。瞳を閉じて、深く深呼吸する。
 一回きりだ。これが最後だ。そう思え。
 笛が鳴って、すっと瞳を開いた。
 威力に欠けるものの良いコースである月島くんのサーブを、西谷がしっかり拾ってくれる。さすが西谷だな、と言いたいようなレシーブだった。菅原が上げてくれたトスに、狙いを定めて助走をつける。しっかりついてくる月島くんたちは、高い壁だ。
 きっと俺が乗り越えなくてはならない、ようやく、スタートラインの。


「ぶち抜け!」

 コートの外から、旭の声が聞こえた。上げかけた右手を振り下ろし、左手でボールを叩き付ける。驚いたような表情の月島くんが、咄嗟にブロックの方向を変えるように修正してきた。
 いい判断だ。でも、ごめんな。

「実は、左利きなんだよ」



 高い壁の隙間を縫って、ボールが通る。床に叩き付けられたボールは、そのまま転がった。長く忘れていた、頂の景色が心地良かった。
 まだ跳んでいたい。離れたくない。トスが欲しい。ああ、俺はやっぱりバレーが好きだ。
 しっかり両足で着地して、喜ぶ西谷と菅原に頭を下げた。

「ありがとう。最高に気持ちよかった」
「今のだけで満足なのか?」
「え?」
「もっと跳んでいたいって、思ったんじゃないの?」

 意地悪そうに菅原が歯を見せて笑って、そうですよ! と西谷が加勢するように俺に近付いてきた。
 あの時に比べてジャンプは低いし、威力も落ちた。
 本当に気持ち良さそうな顔して跳ぶお前に、そんなの関係ないだろ?
 そんなことを菅原に言われたもんだから、そうかもな、と俺も笑った。



「決意は固まったか?」
「澤村…でも、俺は―」
「清水、あれ持ってきてくれないか」

 澤村の言葉に頷いた清水が、抱えて持ってきたものはバレー部のジャージだった。手渡す清水の表情は少しだけ緩んでいた気がして、開いてみて、と言われるままにジャージを広げてはっとした。


「これ、俺の…なんで…」
「清水に感謝しろよ。ずっと取っておいてくれたんだ」
「…俺、帰ってきても、いいの?」
「当たり前だろ、何言ってんだバカ」

 澤村にぐしゃぐしゃと頭を撫でられ、痛いよ、と笑う。
 ああ、戻れるんだ。またこいつらと、進化して強くなったこのチームと一緒に、コートに立って戦えるんだ。
 そう思うのとほぼ同時に目からぼたぼたと流れ出たそれに、みんながぎょっとした顔をする。
 ああ、そういえばみんなの前で泣いたのって初めてかも。



「だ、大丈夫っすか? はっ! まさか脚が痛むとか…!」
「ちょっ、ちょっと待ってタオル、じゃ痛いか! えっと、だ、誰かティッシュ」
「おっおれ持ってきまっぎゃっ!?」
「日向ボゲェ! 何してる!?」
「お前らなあ…」
「…っ、ははっ」


 俺が泣いただけで慌てるみんなが面白くて、つい笑いがこぼれる。体育館に響いていた俺だけの笑い声は次第に増えて、みんな笑っていた。
 清水に手渡されたティッシュで目元を拭いながら、笑いすぎた心を落ち着けるために深く息を吐く。



「今日からまたよろしくお願いします」
「…おう!」

 頭を下げた先で澤村が、俺の手を痛いぐらいに握った。




「旭、今日も購買だろ」
「? うん、そうだけど」
「なら早く来い。買わなくていいから」
「えっ、どういう、ちょっ待っ」

 慌てる旭の手を取って、そのままずんずん歩いて行く。慌てたような旭も、歩幅の違いかすぐに追い付く。辿り着いたのは屋上で、旭の表情に少しだけ緊張が走った気がした。


「別れ話はもうしないから安心しろよ」
「…! そうか」
「昨日は悪かったし。これ」
「弁当…? もしかして、作ってきてくれたの?」
「自分のついでだけどな」

 助けられたし、と旭に突き出した弁当箱は俺のものより一回り大きい。中身は変わらないけど。
 そんで、ありがとな。と言えば旭はびっくりしたように瞳を見開いた。照れくさくて、旭から目線を逸らす。手にそっと旭の手が重なって、思わずびくりと身体が跳ねた。



「な、んだよ」
「ありがとう。すごく嬉しい」
「…早く食べろよ。腹減った」
「うん、でもその前にちょっとごめん」
「ちょ、何しっ」
「怪我したのって、ここだよね?」
「それがどうし、っう、」


 ズボンを捲る旭に何事かと思えば、露わになった怪我の場所に唇が押し当てられてぎょっとする。そのまま軽く音を立てて吸われ、思わず変な声が出た。
 あさひ、と口に出した声は震えていたかもしれない。
 わざとらしいほどに音を立ててそこに熱を残した旭は、口を離して捲ったズボンを戻した。




「…何してんだよ、汚いだろ」
「汚くなんてないよ。おまじないになればいいなって」
「へたれのくせに」
「うっ」
「ま、そんなところも好きなんだけどな」
「えっ…」


 びっくりしたような旭の表情を見るのは、今日で何回目だろうか。
 そりゃ、好きだから別れなかったに決まってんだろ。ああでも、俺から好きなんて言ったの初めてかもしれない。
 旭も言うほうではなかったし、態度で示すほうだった。俺が態度で示せていたかと言えば、限りなくノーに近い。



「旭、すきだよ」
「…うん、俺もだ」
「お前も言えよ」
「好きだよ。大好きだ」
「もっかい」
「お前が嫌って言っても、離さない」

 それはさすがにちょっとしつこい、と笑うのと同時に旭のにおいに包まれる。ああ、抱き締められてんのか。
 苦しい、と口に出せばごめんと謝った旭は少し力を緩めても、その腕を解くことはなかった。
 ああ、俺腹減ったんだけどなあ。ていうか、せっかく作ったんだから早く旭にも弁当食べて欲しいんだけど。




「ごめん。もうちょっと、このままで」
「…ちょっとだけ、な」

 その気持ちはきっと、俺も変わらないから。腕を旭の背中に回して、もっと密着するように力を込めた。少し身体を跳ねさせた旭に笑って、旭の胸の中でゆっくり目を閉じる。
 ちょっとの間で解放してくれないと、眠っちゃうかもな。そうしたら、旭に目覚めのキスでも要求してみようか。顔を赤くして慌てたなら、俺のほうから仕掛けてやろう。
 そんなことを思って、緩やかな黒に意識を委ねた。





fin.

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