きれいじゃなくていいよ | ナノ

「どうして来んの」
「先輩が、心配なので」


 まただ。またこの後輩は、副主将だから、という俺の望む答えなど返してくれなかった。
 木兎に引き摺り込まれるような形で入ったけれど、後から入ってきた赤葦に自分のポジションを奪われて気付いてしまった。
 ああ、俺ってもういらないじゃん。赤葦のほうが木兎の扱いをよくわかってて、みんなをもっと動かせる。
 ここで努力しないのは、俺の弱さだ。幽霊部員と化した俺にできることと言ったら、木兎の目の見える場所にいて木兎の調子を上げてやれることだけ。
 だから、わかってる。そのために、こうやって俺を探していることを。
 皮肉を込めて、それはどうもお疲れ様、と言ってやっても目の前の後輩は顔色ひとつ変えない。自分が滑稽で笑えた。



「…その心配の、俺は何番目?」
「…どういう意味ですか?」
「心配ってのは、他に何人もいるんでしょ?」


 まるで俺がこの後輩の何番目かの愛人であるような台詞。
 少しだけ、赤葦の眉がぴくりと動く。戸惑っているように見えた。少しだけ。
 わずかな変化だけど、目に見えて動揺している、のかもしれない。どちらにせよ面白い。
 俺はゆっくり腕を赤葦の首にまわして囁いた。



「…なあ、偽善者は楽しい?」



 赤葦は微動だにもしない。俺はちょっとだけ腕をずらした。赤葦の首を軽く掴むような形をとってみる。
 このまま締め殺してやろうか、そんな馬鹿げた考えは赤葦のむかつくほど真っ直ぐな瞳で打ち消された。
 同時にそんな自分に腹が立った。



「偽善者と思われようが構いません。でも、あなたのそんな顔は見たくないです」
「滑稽ってか。はっ、笑えよ」
「違います。さびしくて、たまらないって。…そんな顔です」
「…は?」


 行き場を失ってだらんと垂れた俺の腕を掴んで赤葦は言った。
 そんな顔って、なんだ? 俺はどんな顔してる? さみしくてたまらない? なんで赤葦がそんな顔をしてる?
 そんな顔させてるのは―思考がぐるぐる廻って、嫌な汗が手に滲む。



「本当は泣きたくて堪らなかった」
「…違う、」
「心では、泣きたがってる」
「違う…っ、」



 すべてを見透かされたかのような物言いに、俺の心は激しく揺らいだ。いや、見透かされているのかもしれない。
 言う事を聞かない子供のように耳を塞いで頭を抱える。頭に感じた感触に跳ねてゆっくり顔を上げれば、俺と目線を合わせた赤葦がいた。
 そのままやんわりと、耳を塞ぐ俺の手に触れる。無理矢理引き剥がすような動作は感じられず、ただ、そっと。重ねるように。
 たったそれだけのことなのに、力が抜ける。そのまま退かした手を握ったまま、赤葦が俺の顔を覗き込んだ。


「俺は先輩に憧れてます。今もです」
「…嘘、だろ」
「本当です。少しでも近付きたくて、死ぬ気で練習しました」
「…お前の、ほうが、必要だ」
「…先輩は、自分がうちにとって不必要だと思ってるんですか?」


 だってそうだろ。俺はもともとセンスもないし、上手くもない。
 木兎の調子を上げてやれる。それだけの理由で、あそこに立っていたんだ。
 赤葦はもう、木兎の扱いもうまく心得ている。それが悔しくてたまらなかった。
 ずっと昔から木兎のそばにいたのに、一番わかっていると思っていたのは俺だけだった。
 いつか、木兎にいらないと言われる日が。もう、きっといらないのかもしれなかった。
 それを突き付けられるのが怖くて、逃げ出した。ただそれだけのこと。呆れて笑いも出ない、くだらない理由だ。




「木兎さんを強くしたのは、先輩じゃないですか」
「…え?」
「クロスからストレートに、って言い出したの。先輩でしょう?」



 赤葦の言葉を受け止めて理解するまで、少しの間。それほど忘れていた。
 まだ俺が正セッターで、木兎と一緒に立てていたあの頃。木兎はもともとクロスが得意だった。でもそれは、中学までの話だ。
 高校ともなれば、桁違いに強い奴がどんどん出てくる。木兎のスパイクは悉く止められ、思うように伸びなかった。
 だから、何の気なしに言ってみただけ。


『木兎さあ、ストレート磨いてみねえ?』
『俺がクロス得意なの知ってんだろー!』
『いや、だから一回試しにさ。ここんとこ調子悪いし』
『ぐっ、』
『ものは試しだって。俺を信じろよ、光太郎』


 俺は木兎の幼馴染みだけど、普段から木兎を下の名前で呼ぶことはなかった。それはここぞという時に下の名前で呼べば、木兎の調子が上がるからだ。
 冗談だろって笑っちゃいそうな理由。でも、それが通用してしまうのだ。
 もともと木兎はバカ正直なほどまっすぐだし、ストレートが使い物になれば必ず武器になると思った。根拠はないけど、長年の勘という頼りない奴だ。
 でもそれは、試合の時に表れた。



『…明日、出られないんですか』
『ちょっと足やっちゃって。一週間ぐらいで動けそうだけど、今日は無理だな』
『試合は―』
『だから、お前に任せるよ。赤葦』

 気合いが入りすぎていたのかもしれない。運悪く足を捻ってしまった俺は、多少無理をすれば試合に出られないこともなかったが、監督に止められた。
 お前はうちの大事なセッターなんだからな、と言われて。
 嬉しかった。でも、俺を信じて練習してきた木兎を裏切る形にはなりたくない。
 利用した、と言っても過言ではない形で俺は赤葦を頼った。


『…無理です』
『あれ? 赤葦ならわかりましたって言ってくれると思った』
『…俺は、まだ一回も公式試合に出たことありません。もし、足を引っ張ったら、木兎さんを―』
『俺、赤葦のこと誤解してたかも』



 後輩らしいかわいいところあるんだな、と赤葦の頭を撫でた。ふわふわの、ちょっと癖のある髪。
 この時は、俺のほうが身長が高かったから。まだ。赤葦はいつも無表情に近い顔で、冷静だった。
 俺が頭を撫でている間も、俺の手をはねのけることはなかったけれど眉間に皺が寄っていて。耳が少し赤くなったのを見て、確信した。
 ああ、照れてるだけなのか。
 少し熱を持ったその耳にそっと触れれば、びくりと跳ねた赤葦は今度こそ俺の手を払って耳を押さえた。

『赤葦なら、大丈夫だって』
『何を根拠に…』
『だって、お前が一番俺のこと見てたもんな』
『…っ』
『だから、何も心配いらねえよ。お前はもう、あそこに立つだけの力を持ってる』

 赤葦は木兎みたいに単純じゃない。そうわかっていても、俺の言い分は変わらなかった。
 俺の言ってることに嘘はなかったし、平然として見える赤葦がこうも珍しく怖じ気づくのは普段の俺と木兎が露骨すぎるのかもな、なんて漠然と思った。
 赤葦に通じるとも思えないけど、ものは試しだ。
 赤葦の瞳をまっすぐ見て、しっかりと口にする。



『俺を信じて。…京治』

 これが、最初で最後、俺が赤葦の下の名前を呼んだ時だった。




「…思い出しました?」
「…ああ、すっかり忘れてたけど」
「今の俺は、先輩によってできてるんです」
「…皮肉だったら、一発殴ってやりたいところだな」




 でもお前の顔を見たら、そうじゃないことぐらいわかるよ。
 笑ったつもりで向けた表情が、うまく笑えていたかどうかはわからなかった。
 結局あの日、赤葦の手によって吸い込まれるように木兎の手へ向かって行くボール。
 相手は今まで何度も木兎を止めた選手だった。木兎が磨いたストレートは、今まで木兎のスパイクを止めたその選手にまったく触らせずに打ち抜く。
 湧き上がる歓声の中、あの赤葦も拳を握って吼えていた。
 それが嬉しくて、俺も足の痛みを忘れてつい立ち上がって吼えた。
 あとで怒られたことも含め、よく覚えている。



「木兎さんだけじゃありません。俺にとっても、…いいえ。みんなが先輩を必要としてます」
「…赤葦、」
「譲るつもりはありません」
「…当たり前だろ。そんなことしたらぶっ飛ばすぞ」

 でしょうね、と赤葦が笑う。
 試合の時に意表をついて対戦相手に見せるような含みを持たせた笑みではなく、子供が歯を見せて笑うように。
 こんな笑い方もできるのか、と。
 内心驚いてぱちぱちとまばたきする俺なんか余所に、赤葦は言葉を紡ぐ。



「また、おまじないをかけてほしいんです」
「…おまじない?」
「先輩に、下の名前を呼んでもらうと元気が出るんです」
「…お前、それ―」
「…だから、もし。俺が先輩に負けたら、先輩の名前を呼んであげますから」


 今度は悪戯に笑って。ほんと、たいした後輩だよ。
 そうか、俺は戻れるかもしれないのか。あの場所に。戻って、いいのか。逃げ続けた俺が、みんなに受け入れてもらえるのか。
 久し振りに顔を出した俺に、視線が一気に集中する。静まるその空間で、木兎は俺を見てくれるだろうか。
 その瞬間を想像すると怖くて、視界が揺れた。



「だから、今だけは。…泣いてもいいんですよ」


 たぶん、俺の顔は今酷く歪んでる。やさしすぎる声は俺を歪ませるには充分で。
 俺が唯一輝けた場所を奪った、汚いと思っていた赤葦の前では、綺麗なままで居たかったのに。
 こんな不細工な面、見せて堪るか。ああ、でも我慢してる方が酷い、のか? でも、だからって。


「俺しか見てませんから。…ね」


 ぽんぽんと優しく頭を叩かれ、手を引かれた俺はちょうど赤葦の胸あたりにすっぽりおさまる。
 規則正しいリズムを奏でる心音が温かい。ぽつり、俺の汚い涙が落ちた。





fin.

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