★1 | ナノ

 できることなら、空気になりたい。
 そう願う自分の心とは裏腹に、身長はぐんぐん伸びて屈まなければ入れない教室の扉も、その身長だけで注目されるその視線が嫌でいつも下を見るようにした。
 いくつかの視線は突き刺さっても、ぼくが目を合わすことがなければ見ることはないから。そうやって、ずっとひっそり生きてきた。はず、だった。



「なー、バレー部入んねえ?」

 どうして今、ぼくは顔も知らない先輩に部活勧誘を受けているのだろう。事の発端は、数分前に遡る。


「おーい、研磨ー…って、いねーのか」

 その先輩が、二年の教室をおとずれることは少なくなかった。隣の席の孤爪くん、の知り合いらしいその先輩と孤爪くんとの関係はわからなかったけれど、孤爪くんとはクラスが同じというだけで特別親しい間柄ではない。
 そもそも、そんな間柄のひとはぼくの周りにはいなかった。ずっと息を潜めるように、ひとりで生きてきたのだ。
 この先輩が来たのは初めてじゃなくて、そのたびにぼくは机に顔を伏せて寝たふりをする。
 どうか、気付かないで。ぼくはここにいないものとして。
 そう思っていたのに、声が消えたと思って顔を上げたら―その先輩が、顔を上げたぼくをじっと見た。目が、合って、しまった。




「おい、お前…」
「!? っは、い」
「ちょっと付き合えよ」

 ぼくの席に近付いた、その先輩がぼくの腕を掴んだ。教室の空気が、少しだけぼくとその先輩に集中するように騒がしくなる。
 そのまま先輩に手を引かれて去ることになったぼくには、その後の教室がどうなったかなんてわからないことだった。
 ただ、これから起こるであろう何かに。怯えることしかできなかったから。


「お前、研磨の友達?」
「こ、づめくん、とは、ともだち、じゃ、ないっ…で、す」
「へー。しかし身長あんな、いくつ? 190は確実にあるだろ」


 身長があまり変わらない、先輩に連れて来られたのはあまり人気のない場所だった。というか、ぼくとこの先輩以外誰もいない。
 やっぱり、大きいくせに俯いたりして気持ち悪いとか言われるのだろうか。お金を要求されるかもしれない。目障りだからって、殴られたりとか。
 少しとはいえぼくのほうが目の前の先輩より身長が高くとも、力では圧倒的に先輩のほうが勝っている。不安を抱えながらおそるおそる先輩を見上げると、何故か身長の話を切り出されてますます先輩の意図がわからなくなったその時だった。



「お前、バレー部入んねえ?」

 目の前の先輩に、勧誘をされているのだとわかったのは。


「っな、なん、な、んで、ですか…」
「そりゃ、この身長で誘わない手はねえだろ」
「っ…」
「おい、ちょっと顔上げろ」
「…は、っ!?」
「お、俺より身長あんじゃん。リエーフといい勝負ぐらいか?」



 言われた通りにゆっくり顔を上げると、至近距離まで迫っていた先輩の顔がそこにあって思わず息をのんだ。じっとその黒い瞳に覗き込まれ、これまで近い距離で他人と関わることのなかったぼくの心臓は、ばくばくと嫌に早まる。耐えるように後ろでぎゅっと握った拳が、小刻みに震えた。
 はやく、おわって、どうか。逃げようのない視線に、目をぎゅっと瞑る。




「…クロ? 何やってるの?」

 突然、ここにぼくと先輩以外の声が響いた。初めて聞く、声じゃ、ない。何回も聞いたことのある、この声は。
 声の主に気付いた先輩が、ゆっくりと振り返ることでぼくから視線が逸れる。身体ごと離れた先輩の大きな背中に、その姿は隠れて見えない。そろりと先輩から離れて、彼の姿を初めて捉えた。


「おー、研磨。どこ行ってた?」
「トイレ…。クロは、こんなところで何やってんの」
「ていうか、お前なんで早く言わねーんだよ。こんだけ身長高い奴いたら言えよ」
「クロ、教室来るの初めてじゃないでしょ。気付いてると思ってたけど」
「なら研磨が誘えよ」
「なんで…」



 きらきら。まぶしいその頭から紡がれるその言葉は、おだやかで。根元がちょっと黒いのは、わざとなのだろうか。初めて見たわけじゃないのに、ぼくがこんなにまっすぐ他人の姿を目に焼き付けることなんて。なかったから、今までに。金と黒のコントラストはとてもきれいに見えて、目を奪われて。
 くろ、と呼ばれた先輩と話していた孤爪くんの口が止まり、くるりとこちらを振り返る。それに続くように先輩もこっちを見て、さあっと血の気が引いた。


「お前、バレー部入ってくれよ」
「ぼ、ぼく、運動、できな、っい、です」
「そんなん鍛えてるうちについてくるって。見たところ、いい身体してるし」
「で、も、あの、め、いわ、くっ、が」
「迷惑どころか大助かりだって。おい、研磨からも何か言ってやれよ」



 ぼくの肩を掴むその手はがっしりと力強く、同じ男でもやっぱり違うものなのだと思い知らされる。
 先輩には力を込めている意識なんて、きっとない。痛いほどではないけれど、前のめりになってぼくを見つめる威圧感に胸がちょっとだけ落ち着かない。これで、孤爪くんにも何か言われたら。もうぼくの逃げる場所なんて、ないに決まってる。
 思わず孤爪くんを見上げて、その小さな口から紡がれる言葉を待つしかできないぼくは臆病者だ。




「…それぐらいにしてあげたら」

 でも、孤爪くんの口から出たのは意外な言葉だった。
 えっと、確か孤爪くんもバレー部で、この先輩が言ってることも間違ってなくて、それなのに。助けてくれ、た?


「はあ? なんでだよ」
「なんでも。あとクロ、離してあげたら」
「ああ、悪い」
「っ、し、しつれ、しま、すっ…!」


 呆然と孤爪くんを見つめていたら、ふっと肩が軽くなって先輩の手はどけられている。ふたりの視線が一気にぼくへと集中するのがわかって、かあっと顔が熱くなった。
 しどろもどろになってしまった言葉は、ふたりには伝わらなかったかもしれない。それでも、ぼくには逃げることしかできなかった。



「珍しいな、お前が止めるなんて」
「別に。…あんまり強引だと、かわいそうでしょ」
「へえ?」
「その顔気持ち悪いからやめて。…それに、目が」
「目?」
「…怯えた目、してた、から」



 つやつやの黒を靡かせて走って行ったおおきなウサギには、きらきらのネコが興味なさそうにスマートフォンの画面を弄ることは、知り得ません。だって、あちらの彼にはもうそんな余裕もなかったのです。見えない何かに追われるように、ただひたすらに振り切って。それでも、こちらの彼は言いました。


「昔の俺みたい」

 それは誰に向ける言葉でもなく。ひとりごとのようにつぶやいたこれもまた、耳に入ることなどなかったのです。





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