ごめんとすきのはざま | ナノ

 知っていた。これより先に踏み込んでしまえば、戻れないことを。知らなかったのは、恋に落ちることの苦しさだけだった。
 あまりにも幼稚なぼくの心は、なんでもないきみの仕草ひとつで痛みを伴う。


「赤葦ー!」
「今行きますから」

 木兎さんの掛け声に、きみが溜め息を吐きながら向かう。体格の違いはあれど、身長がさほど変わらないふたりはうちのチームになくてはならない存在だ。
 木兎さんにトスを上げる指先は繊細で、しっかりと響くその重みは木兎さんによるものだ。木兎さんのその毒気のない笑顔は、ぼくの心を見透かすようで苦手だった。



「なんだー、元気ないじゃん!」
「あっ、そんなことはない…ですけど」
「木兎ー、後輩いじめてんじゃねーぞー」
「んなっ!? いじめてねーし! …だよな?」
「はい、ありがとうございます」




 笑顔を作ってそう言えば、ほらー! と叫んだ木兎さんが先輩たちのもとへと混ざって行く。
 悪い人では、ないのだ。それはぼくだってわかっているし、ぼくはどう頑張っても木兎さんのようにはなれない。羨ましい、とすら思う。
 たとえぼくが木兎さんを真似たとして、木兎さんそのものになれることなんてない。
 わかっている。わかっているのに、よくない色を付けたぼくの心は深く黒ずんで止まることを知らない。



「まったくあの人は…」
「…っ、赤葦、お疲れ」
「ああ、うん。…そっちこそ、大丈夫なの」
「…?」
「木兎さんじゃないけどさ。調子悪そう」

 戻ってタオルで汗を拭くきみと、しっかり目が合って思わず目を逸らす。今のは、少し不自然だったかもしれない。目を逸らしたぼくには、きみが今どんな表情をしているのかわかるはずもなかった。
 それでも、きみの口から出てくるのはぼくを気遣ってくれるような言葉で。ぼくはきみに、心配されるような人間じゃないのに。
 罪悪感で、きみに見えないようにぎゅっと拳を作った。

「…暑いから、疲れちゃったのかな。大丈夫だよ」
「…ならいいけど。無理は―」
「赤葦ー!」
「行ってよ。ぼくのことはいいから」
「…じゃあ、また後で」


 少し納得のいかないような表情ではあったけれど、きみは小さく返事をしながらぼくに背中を向けて去っていった。
 きみの返事が聞こえないのか、再びきみを呼ぶ木兎さんの声がする。きみが木兎さんに向かって何か言っていたようだけれど、距離が開いて聞き取ることはできなかった。
 胸の奥がちくりと痛んで、そんなふたりに背中を向ける。
 汗を拭くふりをして、タオルを顔に押し付けた。この汗みたいに、ぼくの想いも流れてしまえばいいのに。



「…ごめん」

 タオルに被せた謝罪の言葉が、きみに伝わることはきっとないとしても。




「あー腹減ったー!」
「朝練終わったばっかじゃん」
「でーもさー! あっ、そういやお前!」
「えっ、はい」
「ちゃんと食えよ! 赤葦じゃないけど細過ぎ!」
「俺を引き合いに出すのやめて欲しいんですけど」


 朝練が終わり、歩いて校舎に向かう途中の道で木兎さんに腕を掴まれる。突然のことにびっくりしてしまったけれど、そのまま確かめるように軽く手を動かされて歩みが止まった。
 すぐ横から聞こえたきみの声に、木兎さんに腕を触られた時より肩が大きく跳ねた。

「木兎さん、腕。いい加減離してあげたらどうですか」
「お? 悪い! 痛かったか?」
「いえ、ぼくは大丈夫です」
「そっかー! でももっと飯食えよ!」


 満足したのか、少し乱雑にぼくの髪を撫でた木兎さんは先輩たちの輪に入っていく。
 悪気はないのだ。それが木兎さんらしさでもあり、きっとこうする以外の選択肢が木兎さんにないこともわかっている。
 だからぼくは軽く乱れた髪を手櫛で直して、いつも通り先輩たちの背中を追って歩く。はず、だった。



「…確かに、ちょっと細過ぎると思うけど」
「…ぼくは、赤葦、より身長も低いから」
「俺が言えたことじゃないけど。ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ。食べないと身体もたないし」

 だから心配しないで、と笑顔を作って歩き出す。もう何度も作ってきたぼくの笑顔は、他の人の前ではできてもきみの前でうまくいった自信は一度もない。
 きみの深い瞳に、すべてを見透かされることが怖いのだ。ぼくの、落ちることのないこのどす黒い感情も。
 そう、とだけこぼしたきみがすぐ横に並んだことで、そっと息を吐いた。




「なー赤葦ー…あれ?」
「後ろですけど」
「赤葦! これなんだけどさー!」
「俺が後ろにいることを踏まえてわかる日本語で説明して欲しいんですけど」



 きみがそう口に出しても、木兎さんにその選択肢がないことはきっとこの場にいる全員が気付いていることで。
 何ですか、と呆れ気味に言葉を発したきみが木兎さんのもとへと歩いて行く。一番後ろに立つのはぼくだけになった。
 かなわないな、と誰にも見えないように笑う。ぼくがきみの名前を精一杯出すその間に、木兎さんはいとも簡単にきみの名前を呼ぶ。ぼくの薄っぺらい笑顔なんかより、木兎さんの笑顔がまぶしいに決まっている。
 ぼくが、ぼくが、ぼくが。


「…あか、あ、し」

 小声で呼んだきみの名前は、木兎さんの大きな声によって掻き消される。
 構わない。どうか、振り返らないで。届かないで。ぼくを見ないで。
 もうきみをまっすぐ見つめることができないぼくなんか、きみの隣に立つ資格なんか本当はきっとない。ぼくより大きなきみの背中に、手を伸ばしたくなって。上げかけたその手を、しまいこんでそっと隠した。そうすることでしか、今のぼくは涙をおさえられないから。




「ごめん、ちょっと用事あるから先行ってて」
「用事あるなら別にわざわざ一緒じゃなくても、」
「大丈夫、すぐ済む。…それに、ひとりよりふたりがいいでしょ」
「…うん、わかった」

 じゃあまたあとで、と言ったきみが去って行く。
 昼休み、ごはんを一緒に食べることが日課になっていたぼくときみは真っ先に裏庭に向かう。屋上と違って人は少ないし、木陰があって夏は涼しい。運が良ければ猫に会える。それも本来なら、の話だったのはきみが用事のため行ってしまったからだ。
 一緒じゃなくてもいいとかわいげのないことを言っても、ちゃんと食べるかどうか見届けなきゃいけないから、とこぼすきみを見て世話焼きだなと木葉さんが笑っていたのは記憶に新しい。



「…不謹慎だなあ」

 正直なところ、ぼくはこの時間がうれしかった。しあわせだった。この時だけは、すべてを忘れてきみとわかりあえる錯覚に陥る。
 もともと少食なぼくは、主に木兎さんに関しての愚痴をこぼすきみに相槌を打ちながら過ごす。たとえ話の中心が、ぼくでなくても構わなかった。
 きみと過ごすこの時間は、永遠に与えられたものではない。きみにいいひとができたら、なくなってしまうだろう。
 それでもきみは毎日ぼくを誘うから、ぼくの小さなしあわせだった。


「…箸、入ってない」

 弁当の包みを開けてみると、箸が入っていなかった。今日はお兄ちゃんが作ったから、うっかり入れ忘れたのかもしれない。
 購買に行けば、割り箸がもらえるかもしれない。そうしよう。もう一度包みをランチバッグに入れて、ぼくはその場を離れた。



「…なんです!」
「っ…?」

 裏庭は、人気の少ない場所だ。それはあくまで比較的、の話でまったくいないわけではない。だから、聞こえてきた女子の声に思わず歩みを止めた。
 ぼく自身は経験もないし、その現場に立ち会ったことも今までになかった。でも、気付いてしまったのだ。ああ、ここで誰かが告白をしているのだと。
 立ち聞きなんてできないし、ここは遠回りになってしまうけれど別の道を行こう。まずはこの場を、ばれないように離れなくては。
 そう思ったぼくの足を止めたのは、次に飛び込んできた女子の言葉だった。




「赤葦先輩のことが、すきです…!」

 時が止まった、気がした。女子の口からこぼれたのは、間違いなく、ぼくの心を掻き乱すきみの名前で。珍しい名前で、他に同じ名前のひとはいない。
 それはきみを、ぼくがよくきみを知っているからこそ、変わりようのない事実だった。
 いけない。だめだ。やめなきゃ。その信号はうまく身体に伝わらず、そろりと覗き込む。見慣れたその後ろ姿に、猛烈な吐き気が走った。



「…っ!」

 できる限り音を立てず、その場を離れた。口元をおさえ、一番近くのトイレに駆け込む。
 俯いていた女子の顔は、かわいらしく赤面していた。
 朝から何も食べていなかったのに、身体の中から何かがせり上がってくる。思わずおさえていた手を離せば、ぼくの汚いものが音を立てて吐き出されていく。



「う、え…っ」

 なんで。どうして。ぼくは、きみは、あの子は。
 名前も知らない彼女は頬を染めて、誰がどう見たってかわいくて。
 わかって、いたのに。ぼくがすきなきみを、ぼく以外の誰かがすきになる可能性なんて。


「がっ、は、う、ぅ…っ」

 くるしい。きもちわるい。どうしてぼくは、きみを、きみが、ぼくに。
 吐き出してしまうことのできない感情は、ぼくの汚いものと一緒に落ちてはくれない。とっくに酸っぱくなった唇がぶるぶると震えた。


「あ、っは…ああ…っ!」

 きみがすき。知られたくない。気付かないで。好きでいさせて。嫌われたい。きもちわるい。
 ともだちになれなくて、ごめん。きみをきらいになれないぼくなんて。ゆるさないで。


「ごめ、ん…なさ…」

 すき。きみがすき。きみとわらっていたかった。ごめん。きみをすきになって、ごめん。きみに愛されたいと願ってしまって、ごめん。きたなくてごめん。きみのしあわせに、ぼくはいらない。



「…っ、す、き、」

 ごめん、すき、すきなんだ、ごめん。ごめんとすきを繰り返しても、きみへの罪悪感が消えないんだ。
 きみの前で、もう笑えない。きみと一緒に、過ごせない。ごめん。勝手でごめん。
 きみにうらまれたっていい。きみを傷つけることに、なったとしても。




「ご、め…す、き、だ」

 ごめんねとすきのあいだをきみにつたえるすべが、みつからないんだ。





fin.

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