欠格者の決壊 | ナノ

 あの日からずっと、毎日同じ夢を見る。いつかの俺が、あいつと笑っている。馴れ馴れしく、名前を呼んで。
 ずっとその隣で、笑っていたかった。
 黒い飛沫が俺を覆う。

『――ちゃん』

 もう、今では呼ぶことのなくなったその名前を。




「おっはよー!」
「………」
「ちょっとー、無視はひどくない? 挨拶は基本だよっ」
「及川うるせえ」
「岩泉か。おはよう」
「おう」


 またぎゃーぎゃーと騒ぎ出す声が聞こえる。朝っぱらからこの及川徹という男の騒ぐ声は、低血圧の俺にとって迷惑そのものでしかなかった。
 うるさくて思わず騒音のもとを見ると、ぴったりその口は止まる。俺としては見ただけだったのに、うるさいと口にする前に意思は伝わったらしい。
 よっぽど睨み付けるような目つきでもしてしまったのか、どちらにしろ及川が静かになるなら何でもよかった。


「…笑ったほうがかわいいのにー」
「あ?」
「怖い! だからそれだよ! 顔はいいんだからさー」
「別に顔なんてよくなくてもいい」
「そんなこと言っちゃだめだよ! なりたくてもなれない人がいるんだから!」
「おい、今なんでこっち見た」

 及川はしつこい。これは今日だけの話じゃなくて、いつもこんな感じで俺に絡んでくる。
 へらへらした笑顔で近寄ってくるくせに、自分のパーソナルスペースには絶対に入らせない。仮面のような笑顔を貼り付けて、徹底的に壁を作るのだ。
 別にどうでもよかったのに、無理して笑うようなその表情が気に食わずぶつけてしまったためにこの関係が成り立ってしまった。
 今も岩泉に殴られて、痛いよーと嘆く及川に駆け寄られた俺はただ一言返す。知るか、と。



「あっ、岩泉に及川じゃーん! それにお前も!」
「…ん、」
「相変わらず低血圧かー。ガム食う?」
「ミントはいやだ」
「目ぇ覚めるぞー。ほら、あげる」

 いらないと言っているのに押し付けてくるこいつとは、この青城に入った時からずっとクラスが同じという奇妙な腐れ縁だった。
 こいつが及川や岩泉含めるバレー部と関係があったためか、俺も目を付けられたのだと思っている。そうでなければ、俺なんかを気に掛けるはずがない。


「お、青根くんからメール」
「あー、伊達工の彼?」
「そうそう。やっぱり要の誕生日はみんなで祝うんだと」

 俺も誘われたけど、帰ったら祝えるしなー。
 そんな言葉を続けるこいつの隣で、僅かばかりに肩が揺れた。
 珍しい名前じゃないのに、いちいち反応してしまう自分がおかしくてしょうがない。あいつと同じかどうかだなんて、確証もないくせに。確かめる術も、ない。
 それなのに、名前ひとつでこんなに心を揺さぶられてしまう。
 もう、夢の中でしか会えない、知らない誰かに。



「…ね、聞いてる? ねえってば、おい」
「…っ、俺?」
「なーに、やっぱりまだ眠いの? 及川たちなら先行ったって」
「ああ…ごめん」

 指差された先を辿れば、前を並んで歩く見知った姿。
 こうやってあの時の誰かを思い出すたびに、夢の意識へと手を伸ばす。
 まだ捨てきれない、鮮やかな赤が入ったビー玉。会えるはずもないのに、みっともなくいつも持ち歩いて。
 好きになれなかったこの色を。ちょっとだけ好きにさせてくれた、あの誰かに。


「で、ごめん。何だっけ」
「ああ、伊達工に知り合いとかいたりする?」
「? いや、特には…」
「そっかー。ちなみにさー、ついでに変なこと聞くけど」
「ん?」
「赤いビー玉って、持ってたり、する?」



 その言葉が響いた瞬間、他の音が遠くに聞こえた。雑音も、人の声も、ぜんぶ。
 もしかして、もしかしたら。そう思わずにはいられないほど、衝撃的な一言だった。
 …もしも、本当だったら? 本当だったとして、今更俺に何ができるのか。傷付けてしまった、この俺に。


「…し、らない」
「そっか。急にこんなこと聞いてごめんな!」

 声は、震えなかった。そのまま普通の世間話に戻ったのを見て、そっと胸を撫で下ろす。
 そうだ。今更何かわかったって、俺に残された道は、ないんだから。
 それならずっと、知らないままでいい。
 ポケットに入ったそれをぎゅっと握って、笑顔を向けた。




「ね、今日はデートしようよ」
「…は?」

 放課後。部活に向かう及川たちと別れ、靴に履き替えてから外に出た瞬間。隣に並ぶこいつも、てっきりまっすぐ帰るものだと思っていた。
 だってこんなことを言われたのは、はじめてだったから。
 思わず口から出たそれが間抜けに響いたのか、少し笑って俺の手を取る。
 行こう、と俺の返事も聞く前にぐいぐいと引っ張って歩く。身長だけなら俺のほうが高いのに、手を離してはくれなかった。


「ちょっ…自分で歩ける!」
「いいからいいから、はーい」
「せめてっ、手を、離せよ…!」
「やーだ。デートって言ったじゃん」

 まだ人が少ないとは言え、一応人目に付く場所だ。試しに引っ張ってみたものの、まったく離してくれる気配がない。
 この細い身体のどこにそんな力が入ってんだ…!
 これ以上抵抗しても無駄に違いない。諦めて手から力を抜いたらちょっとだけ力が緩んだものの、その手が解かれることはない。
 こいつがあまりにも堂々と歩くので、気恥ずかしさはどこかへ消えた。



「どこ行くの」
「うーん、鉄壁」
「は?」
「あれ、知らない? 伊達の鉄壁、って」

 そう呼ばれてんだよー、伊達工。
 何でもないように言ってのけるこいつに、頭が付いて行かない。
 ちょっと待て、お前の口からよく出るその名前が、いる場所は。
 考える前に理解するのは容易いことで、立ち止まる。手をぐっと強く引けば、あれだけ離してもらえなかった手をあっさりと解放された。


「なん、で、」
「…俺の、幼馴染みの話は知ってるよね? その名前も」
「…しら、ない」
「じゃあ、教えてあげる。か、な、め」

 要って言うんだ、俺の幼馴染み。
 ゆっくりと紡がれたその名前は、じわじわと侵食する。
 なんで、なんで、なんで。
 声に出せば出すほどその声は震えて、気を抜けば膝から崩れ落ちてしまいそうだった。



「忘れられない人がね、いるんだって」
「…な、」
「きれいな赤い髪をした、男の子を」
「、ん」
「赤いビー玉を、あげたんだって。…ねえ」


 いっつも大事そうに、触ってるよね。右のポケット。
 指差されてそう言われて、言い訳を並べられるほど今の俺は冷静にはなれなかった。
 見せろと言われたら、終わりだ。それに、もう俺の反応できっとわかっている。
 だったら、なんで。どうして。俺のことなんか。
 俺は許されないことを、したのに。




「やだ、会えない」
「大丈夫だよ」
「俺は、おまえの、幼馴染みをっ、」
「…うん、」
「かなめちゃん、を…!」

 …生まれつき赤い髪のせいで、友達ができなかった。
 気持ち悪い。一緒に遊んじゃだめ。
 ひそひそと響く大人たちの声はしっかりと俺にも届いて、見えない棘が次々に刺さった。
 みんなとちがうから、だめなんだ。俺が、いけないんだ。だからさびしいなんて、思っちゃいけないんだ。
 そう思って立ち上がった先で、きれいな黒髪の男の子が笑いかけてくれた。


「…嬉しかった。俺、友達、いなかった、から」
「うん、」
「でも、怪我、させちゃったんだ」

 はじめてできた友達の名前は、下しか知らなかった。俺はその子をかなめちゃんと呼んだ。かなめちゃんが俺をどう呼んだかは、記憶にない。
 怪我自体は大したことないと、後から父さんが言ってくれたのを覚えている。
 遊んでる最中に、バランスを崩した俺を彼が庇ってくれた。そのせいで、転んでしまったのだ。
 大きな擦り傷を作ったその場所から、じわりじわりと俺の色が滲み出るのがたまらなく怖かった。怖く、なってしまった。



「要は、怒ってないと思うよ」
「それでも、無理、だ」
「うーん。…ちょっとごめん」
「っ!? なん…」
「はは、おでこ真っ赤ー」

 額に痛みが走ったと思えば、こっちに向かって人差し指を向けたまま微笑まれる。
 …もしかしなくても、所謂デコピンというものをされたのだろうか、これは。
 僅かに熱をもったそこに手を当て、瞬きを繰り返したのは無意識だった。


「今日さ、要の誕生日なんだよね」
「う、ん?」
「で、要の好物がごはんですよなの。ごはんですよだよ? 色気ないでしょ」
「…は?」
「こっちとしても、それなにやり甲斐のある誕生日プレゼントあげたいんだよ」

 だから、俺からの誕生日プレゼントになってよ。
 囁かれたその言葉に、また握られた手。今度は優しく、そっと包み込むように。優しすぎるその感触に泣きそうになる。
 行こう。
 今度こそ紡がれたその言葉に、俺は縦に頷いた。




「こんにちはー、青根くん!」
「…!」
「あ、要呼んでくれるー? もう部活始まっちゃったかな」
「! …、」
「あ、大丈夫?じゃあ悪いけどよろしくー」

 伊達工業に辿り着くなりどんどん進んで行く背中を追うのが精一杯で、体育館の目の前に来れば眉毛がない大きい子が出てきた。
 その子と会話…というより、意思の疎通ができているあたり仲は良いのだろう。
 黙って見ていた俺の気持ちを感じ取ったのか、最近友達になったんだよー、と話し掛けてくれた。



「ちょ、青根? どうし…」
「っ…!」
「誕生日プレゼントをお届けに参りましたー」
「! お前…この子…」
「あ、俺見学させてもらうからー」

 あとはごゆっくりー。
 そんな呑気な言葉と共に送り出され、ぽつんとその場に残される。
 えーっと。
 響いたその言葉にびくりと震えてから、ゆっくり顔を上げれば困ったように笑うその人。
 …ああ、大きくなっても変わらない。俺の知る、かなめちゃん、だ。


「えっと、なんかごめんな」
「だい、じょうぶ」
「そっか、久しぶり。覚えてる? わけ、ないか―」
「かなめ、ちゃん」
「えっ…」
「覚えてる、よ」


 忘れない。忘れられない。忘れられるわけが、ない。
 ああ、はやく謝らなきゃ。いや、こっちが先かもしれない。誕生日、おめでとうって。
 言いたいことはたくさんあるはずなのに、いざ目の前にしたら言葉はひとつも出せなくて。
 視界が歪む。目から熱いものが流れるのがわかって、焦る彼の声が聞こえた。




「ちょ、えっ! ご、ごめ、」
「っ、ごめ、だい、じょうぶ、から」
「…嫌だったら、ごめん」
「っ、」
「嫌じゃ、ない?」

 そっと触れた緩やかな熱は、優しい指先。ぼろぼろと流れて止まることを知らない俺の涙を、その指で拭ってくれる。
 問い掛けにこくりと頷けば、よかった、と微笑む表情が向けられた。
 その手をやんわりと掴み、押し、それから離した。
 もう大丈夫だ、という意味を込めて。
 自分の手でぐっと目元に残った水分を拭って、クリアになった視界で前を見る。
 きっと目は赤くて、泣いてしまった顔はみっともない。それでも、灼き付けたい視界があった。



「誕生日、おめ、でとう」
「…うん、ありがとう。ずっと会いたかった」
「俺、も」
「俺、茂庭って言うんだ。茂庭要」
「…茂庭、くん」
「かなめちゃん、でいいよ。君の名前は?」
「…うん。俺、俺の名前はね―」


 ああ、あの頃に戻ったみたいだ。
 ゆっくりと、自分の名前を紡ぐ。
 俺はあの頃、なんと呼ばれていたのだろうか。俺のことを、なんて呼んでくれたのだろうか。
 そんなことがどうでもよくなるほどに、俺の名前が彼の口によって紡がれることが、しあわせだった。





fin.

Happy birthday to Kaname !
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