――どうしてこうなってしまうのか。
博士と喧嘩した。理由を訊かれても、そんなもの最初から無かった気がする。
会話から次第に言い合いになって――実際、意図せず博士の機嫌を損ねてしまうことは多い――珍しくあたしが折れなかったものだから喧嘩になった。それだけだ。
どうして、今回は直ぐに謝らなかったんだっけ。
ああ、そうだ。博士が、いくら言ってもあたしの気持ちを解ってくれないから。
頭がぐるぐるして気持ち悪い。博士が目に見えるものしか信じない人なのは解ってる。だから、あたしがどんなに博士のことを慕っていてもまともに取り合ってはもらえない。
まぁ、それはいい。そんなのはいつものことだ。
でも博士は、例えばあたしが自分以外の人に懐くのを良しとしない。博士からすれば、自分の所有物であるあたしが他人に好意――勿論恋愛感情ではない――を寄せるのはお気に召さないのだろう。
……それもいい。例え歪んだ形でも、嫉妬のように感じるそれは少し嬉しいと思うから。
でも、だけど。あたしが博士に向ける愛情に関しては否定的なクセに、その他の人物に向ける取り留めもない感情に対しては不機嫌になる……そんなのっておかしくない!?
そうだ、そうそう。そのようなことを口走った為に、今回の喧嘩騒動に至った訳だ。
「博士のばか! 分からず屋!」
我ながらヒステリックな声が辺りに響く。
此処は、吠登城最上階に当たる三階の踊り場だった。夜の静けさを切り裂くように、どんどんヒートアップしていく口論。
解ってる。馬鹿なのはあたしだ。そもそも不機嫌の件だって、博士が認める訳はないのに。
それでも一度堰を切り溢れた感情は、簡単には止まらなかった。
だって、だってあんまりだ。こんなに博士だけを想ってるのに、気持ちは一切伝わらないどころか、こんな些細なことで喧嘩になるなんて。
「へぇ。どの口がそんなこと言うのかな」
キミはボクのモノでしょ。冷たい声でそう言ってあたしの頬に触れる博士に、何だか無性に腹が立った。
だから、何度も、そう言ってるじゃん。どうして解ってくれないの。
「ッ触らないで! 解ってくれない博士なんて……嫌いだもん!」
気付けば、博士の手を振り払って叫んでいた。違う。こんなことが言いたい訳じゃない。
嫌いなんて嘘だよ。――こんなにも、好きなのに。
涙が溢れて、呼吸が苦しい。時々、解らなくなるのだ。博士があたしに、何を求めているのか。あたしは、ただ黙って言うことを聞くだけのペットにはなれないから。
「……も、やだ。全部やだ。もういい。もういいもん」
本当は、もういいなんてことはちっともなくて。だけど、何だか疲れてしまったんだ。
あとちょっと、パニックになってたのもあると思うけど。
「は、ちょ、美音、――!」
博士の声が、風に掻き消える。
立っているのすら辛くてとにかく逃げたくなったあたしは、踊り場の柵に手を掛けて、気付けば其処から飛び降りていた――。
――――
―――――……
美音と喧嘩した。この歳で喧嘩なんて言うと余計に馬鹿らしくなるからいけない。
いつもと違って反抗的な態度でごねる子猫をほんの少し叱るつもりだった……だけなのに、なーんでこんなことになってるんだか。
何にせよ人々の寝静まった時間帯でよかったと思いながら、落下中の美音を捕まえて地に降りる。腕の中の彼女は何とか意識を保っていたが、その分涙も止まっていない。
「な、んで、助けるのぉぉッ」
「なんでって……こっちが訊きたいよ。なんでこう無茶ばっかりするかな……」
事態を認識するなり泣き喚く美音は、助けられて嬉しいのか悲しいのか自分でも整理がつかないみたいだ。
頭上を見れば、高過ぎて天辺すら見えない城。ボクは柄にもなく眉を寄せ嘆息した。
「あの高さから落ちて……ボクが助けなかったら死んでたの判るでしょ?」
「ぅ、っ……半分死ぬつもりだったもん」
「へぇ……。じゃ、もう半分は?」
まったく。この少女の思考には毎度呆れて物が言えない。我が身を省みない度胸だけは認めるが、ここまでくると質が悪過ぎて笑えなかった。
「キミを空中でキャッチするのは二度目なんだけどね。毎回故意に落下するなんて狙ってるでしょ」
「ひっ、うっ、ごめ、なさっ」
「……ま。今回の件はキミの性格を考慮しなかったボクも悪いけど」
見た目に反して気が強いんだから。普通、頭に血が昇ったからといってあんな高さから飛び降りるだろうか?
あの場所に……というか精神的に追い詰めたのはボクだけど。近くにあったのが柵ではなくナイフだったとしても、彼女はその白い首に刃を突き立てたのだろうか。
「子猫ちゃんは面白いし身体の相性もイイしで気に入ってるんだから。勝手に死ぬなんて許さないよ」
そう。勝手に先立つなんて許さない。美音の命も身体も全部、飼い主であるボクの物だ。
そんな狂気を帯びた発言をどう取ったのか、美音はまた震えながら涙を流した。
「ぐす、ぅえッ……うーくん好きぃぃっ。嫌いなんて嘘だもんんんッ!!」
「……はいはい、ちゃんと解ってるよん」
嫌い。そういえばそんなことも言われた気がするけど、言われたボクより言った本人の方が傷付いててどうするんだか。ボクは苦笑して頭を撫でた。
「うーくんは……っ?」
「なに?」
潤んだ瞳が一対、不安げに此方を見つめている。
泣き過ぎて喋るのが辛いのだろう。一度唇を噛み締めてから、美音は懸命に言葉を紡ぎ始めた。
「うーくん、あたしのこと、ヒック、嫌いになった……? あたし、ぐすっ、うーくんに嫌われたら、ひぐっ、死んでやるぅうっ」
……ええ、何この子。自分で言って悲しくなったのか、美音はまたボロボロと滴を零す。
その様子は可愛いのだが、言っていることは限りなく物騒だった。
「……そこはせめて死んじゃう≠ナしょ。なにその自殺宣言」
「う、ヒック。死んじゃう……」
「……はぁ。俺、嫌いって概念無いから解んないけど、少なくともどうでもよかったら助けてないよ」
「……っ! うぇぇええん! うーくん好きぃぃいっ! ごめんなさいぃいッ」
「あーもー。わかったから。ゆっくり息吸って。過呼吸になるよ?」
どれだけ泣けば気が済むのか、幼子のように泣きじゃくる美音を胸に押し付ける形で抱え直した。涙と鼻水を気にしながらごめんねと好きを繰り返す少女は、年齢よりずっと幼く見える。
やっぱり子猫ちゃんは子猫ちゃんだね。そんなことを思いながら、呼吸を落ち着けるように背中を擦った。
暫くそうしていると、安心したのか美音からくぅくぅと寝息が漏れる。……うーん。ここ、屋外なんだけどねぇ。
まぁ、無防備に身体を預ける様は、ボクに全て委ねてると思えば悪い気はしないけど。……にしても。
「まったく……ボクを試すなんてキミくらいだよ」
試されて、それにノってあげるのも、一応は君が特別だから。そこのところを、賢いクセに我が身のこととなると疎い彼女はきちんと理解してるのだろうか。
泣き虫なキミ
(それから意外と面倒見のいいボク)
(……瞼、氷で冷やさなくちゃねぇ)
−−−−−−…
泣き虫だけど、烏哭さんの前でしか泣かない美音。空中キャッチの一回目は打倒大鴉!≠ノて。