それは、雲一つないよく晴れた晩だった。
頭上では、まるで全てを照らし出すかのように見事な満月が見下ろしている。
旅の途中、深い闇に閉ざされた森の奥。鬱蒼と茂る木々を抜けると、開けた空間に辿り着いた。
幻想的と称される絵画に有りがちな風景……とでも言おうか。その場所だけは闇も薄れて、月の魔力が満ちているようだった。
しかし、その有りがちな風景に一つだけ異質な存在を見つけ、僕の目は一点に釘付けになる。
僕の位置から見て、ちょうど満月の真下。月光の降り注ぐその場所に、白過ぎるソレは転がっていた。
月を模したような銀糸の髪に、いっそ青白いとさえいえる無垢な肌。そして、その肌との境界を曖昧にさせる純白のワンピース。
転がっている――正確には大の字で仰向けに倒れている――のは、女というにはまだ少しばかり幼い少女だった。
わざと音を立てながら近付いてみるも、動く気配は全くない。死んでいるのかとも思ったが、それにしては外傷も見受けられない。
とうとう月の真下、少女の傍らまで来てしまった僕は、何の気なしにその顔を覗き込んだ。
瞬間、バチリと絡み合う視線。某三蔵法師より僅かに明るい紫水晶のような瞳。
どうやらずっと目を開けていたらしい。暫し無言で見つめ合う。全ての音が、止んだ気がした。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
沈黙が痛いと感じたのは僕にとって初めての経験だった。というのもこの少女、こうして目が合っているにも関わらず瞬き一つしないのだ。
その、僕など見えていないとでもいう態度に更なる好奇心が掻き立てられる。結局僕から口を開いた。
「……えーと。……生きてるよね? 君。……何してるの?」
「………死体ごっこ」
声を掛けておいてなんだが、返事が返ってきたことに驚いた。
人形のように端正な顔立ちをしているため、口を利けなくとも不思議でないのだ。
「変わった趣味だね」
「そうかしら」
……会話が続かない。少女の声には抑揚がなく、透き通っているが無機質だった。そもそも会話をしようという意思が感じられない。
「どうしてこんな森の奥に?」
「……何故?」
諦めずに言葉を紡いでみるも、短い疑問詞で返される。
「君に興味が湧いたから、かな」
「私は貴方に興味がないわ」
また会話が途絶えてしまった。というか……。
「……君、毒舌って言われない?」
今まで生きてきて軽蔑の言葉を吐かれたことは数あれど、普通の会話を試みてバッサリ切られたのは初めてだ。
「さあ。人と話すことが無いから判らないわ」
「適度なコミュニケーションは大切だよ〜?」
「死体は口を利かないものよ」
いつもの調子で揶揄してみるも、尤もらしい言葉で弾かれた。
死体ごっこ=B唯一まともに返ってきた回答がソレだ。彼女はまだごっこ遊びの最中らしい。
「死人に口無し、か。……いつもそんなコトしてるワケ?」
「そうだけど……だったら何?」
やや彼女の声音が変わる。ほんの少し感情が混じったような、そんな声。
「生きているのに死体に成りきる理由は? どうせいつかは死ぬのにさ」
「……貴方は殿方のクセに浪漫が無いのね」
やっと会話らしくなってきたが、やはり基本的な面で彼女は他人への配慮が足りない。ま、それは僕も同じだけどね。
「死体ごっこの何処に浪漫があるのさ」
「あら。いつか訪れる終焉に想いを馳せるのよ。立派なロマンチシズムじゃない」
うっとりとして答える彼女は、当初より幾分人間に見えた。異質な部類の、ではあるが。
「……タナトフィリア、ってヤツかな」
死愛好――死に魅せられたこの少女は、まさにそれに当てはまる気がした。
「君は……どうしてここを死に場所≠ノ選んだの?」
月に支配された、この場所を。
例えば、死に想いを馳せる人間ですら、光に恋焦がれるのだろうか。
「……訪れたのは偶然よ。ただ……看取られるなら、月がいいかと思ったの」
その言葉を聞くと同時、ほぼ反射的に彼女の上に被さっていた。
「……何をなさるの?」
今までずっと寝そべっていた彼女は、僅かに眉を寄せただけで焦りも恐怖も見せなかった。
「別に。ただ乗ってみたくなっただけ」
「……随分と本能に忠実なのね。貴方、三蔵法師様でしょう?」
彼女の口からその言葉が出るとは思わなかった。知っていて興味がない≠ニ言う辺り特異だが、思った程世間知らずではないらしい。
「三蔵法師≠熕l間だよ」
跨った状態で見下ろせば、どこか寂しげな紫の瞳と目が合った。
「そう……。私は人形になりたかったわ」
まだ幼さの残る儚い少女に、先程より強い欲求を感じる。
嗚呼、この少女もまた死にたがり≠ネのだ。
「……ねえ。死体ごっこより愉しいコトしない?」
言いながらその白い首に顔を埋める。きつく吸って舐め上げれば、存外に甘い吐息が漏れた。
「……んっ、……坊主のクセに死姦がご趣味なの?」
「ああ、そーゆーのもいいかもね」
あくまでも死体を主張する少女を焦らしながら犯すのもいいかもしれない。
「……神聖なモノを汚すのがお好きなのね」
我ながら俗物的なことを考えていると、何とも他人事な言葉が返ってきた。やはりこの少女は何処かズレていると思う。
「神聖かどうかは判らないけど、白いモノを見ると汚したくなるよ」
この場合は君の肌かな、と答え胸元を少しだけはだけさせた。途端、現れた白磁のような柔肌に舌を這わせる。
「――夜」
「……え?」
微かに呟かれたその声は、それでも耳に届くには充分で。僕は顔を上げて彼女を見つめた。
「貴方、まるで夜みたい。暗闇によく似ているわ。白いものを汚したくなるのは……対照的なモノだから、侵したくなるんじゃないかしら」
先程と同じようにうっとりと語るその少女に、不意を突かれた自分に。何だか全てが可笑しくて笑ってしまう。
「……フ、あっはっはっはっ! ククッ、あー……イイね、君。ほんと面白いよ。……死体は喋らないんじゃなかったの?」
「……死体ごっこより愉しいコト、教えてくださるんでしょう?」
ひとしきり笑い終えて尋ねると、これまた意外な言葉が返ってきた。
「……ひょっとして、誘ってる?」
「今だけは、魔魅にでも成ろうかと思ったのだけど」
こうして見ると、女≠ノ見えるかもしれない。犯すというよりは、互いに淫らになれる相手に。
「……ねえ。名前、教えてよ」
発見するような形で出逢ったので忘れていたが、そういえばまだ互いの名前さえも知らなかった。
「梦月。……貴方のお名前は?」
「烏哭。烏が哭くと書いて烏哭」
出逢ってから一番マトモな会話を交わした気分だ。
「烏哭さま。素敵なお名前ね。どうか優しく喰らって頂戴」
「……いいよ。骨の髄まで愛してあげる」
月の光に看取られながら、闇に食まれて迎える終焉。
月夜のエデン――喪失の宴
(あのまま月に呑み込まれるのを夢見ていたのに)
(私を呑み込んだのは暗闇だった)