「烏哭の馬鹿! クソ野郎!!」
「おっと」
深夜二時。ただいま、と玄関のドアを開けると、ヒドイ罵声に出迎えられた。
鋭い殺気に半歩避ければ、首筋ギリギリを銀色が遮る。銀色――本来は調理器具であるはずの包丁を僕に向かって振り下ろした女は、整った顔を真っ赤に歪め、こちらを睨み上げていた。
最近僕が居着いた家の主――梦月。これはまぁ、彼女の性格というか、習性のようなものだった。
「き、今日という今日は、殺してやる……!!」
怒りを露わに震える身体。興奮気味に僕を見る涙目の瞳。ギリリと噛み締められた、小さな唇。
それらを可愛いと認識する僕も、それはそれでどうかと思うのだけど。
「やだなぁ、ちょっと、落ち着いて……」
流石にドアを開けっ放しでの押し問答は宜しくないので、やんわりと彼女の肩――反対の手では手首――を掴んで玄関の奥へと後退させる。
戸締りを済ませてはい終了。なァんてすんなりいく筈もなく、寧ろそれすら気に障ったのか、梦月は堰を切ったように叫び始めた。
「こんな時間までどこ行ってたのよ!! どうせまた他の女と遊んでたんでしょ!!」
緩く添えただけの手を振り払い、再度凶器が振りかぶられる。
ここで断っておきたいのは、僕と彼女が恋仲ではないということだ。
「もう浮気しないって言ったじゃない!! なのになんで! なんで知らない女の匂いがするの?!」
轟々の非難を浴びながら、はて、と内心で首を傾げる。
先ず付き合っていないのだから浮気も何もないとは思うが、確かに二つ返事でそのようなことを、承諾した覚えがあるような気もする。
何せ彼女のヒステリーは今に始まったことではないので、どんな言葉で宥め賺したかなんていちいち記憶していない。……まぁ、最終的な慰め方は、いつもおんなじだけど、ねぇ?
「ハイハイ、ストップ、落ち着いてって。危ないでしょ? 女の子がそんなもの振り回しちゃあ」
聞き役に徹するだけなのも飽きた。そう思いやんわりと窘めながら、今度は強めに手首を掴む。
よほど興奮しているのか、梦月は抵抗するように身体を捩る。瞳からはとうとう涙が零れ、フローリングにポタポタと雨を降らせた。
「やだ、離して! きらい! 烏哭なんて大っ嫌い!!」
痛切な声が、廊下に響く。それは、彼女曰く見知らぬ香水の所為か、はたまたこんな時間に帰ったからか。僕のことを大好きで仕方ない梦月は、いつだって悲しそうに真逆を唱える。
そんな姿が憐れで可愛くて、ついついこめかみへ口付けを落とした。数刻前に抱いた子よりも、柔らかい香りが鼻腔を擽る。
この芳香が忘れられずに、僕はいつも此処へと帰るのかもしれない。
「う、やだ、嫌いだもん……約束破る烏哭なんてきらい、だもん」
「そーお? 残念だなぁ、僕はこんなにも君のことアイシテルのに」
「うそ! 嘘ばっかり、言わないで……!」
一人では立てないとでもいうように、僕の胸に縋り付き、それでも梦月は拒絶を紡ぐ。
小柄な容姿も相俟って、泣きじゃくる姿は子供みたいだ。
不安定な人間性が崩れゆく様は、滑稽で確かに愛おしかった。
「いつもいつも、あたしに判るように浮気して……今度こそ、許さないんだから」
初めより、だいぶ弱々しく睨まれる。涙に濡れた双眸は、どこまでも僕しか映していない。
「だから、死んでよ……っ」
言葉とは裏腹に、包丁が落ちた。自由になった両腕が、僕の背へと回される。
「うんうん。君のそういうとこはちゃんと好きだよ」
猪突猛進で、直情的。純粋で、それ故に酷く脆い。
その華奢な白い手で、感情のままに何人殺めてきたのか。例えば彼女なら返り血も、さぞかし僕より映えるのだろう。
「――でもさ、殺しても君のモノにはならないよ?」
静かに耳元へ送り込んだ言葉に、腕の中の梦月は息を呑む。動揺が手に取るように伝わってきて、僕はひっそりと口角を上げた。
虐めるつもりはないのだけれど、やっぱり可愛いなァなんて思ってしまう。僕みたいな男に目を付けられて、指名手配中の殺人鬼も大変だ。
「……ッ、なんで、どうしてそんなこと言うの、烏哭」
「だって、本当の事じゃない? 殺して手に入るものなんて、所詮は美化された思い出に過ぎない」
殺して、本当に手に入ると思っているなら、世の中はそんなに甘くない。
勝手に永遠に昇華したところで、それはただの自己満足だ。
「悪いけど、僕はこの先、一生君のものになる気はないよ」
後頭部に手を回し、滑らかな黒髪を優しく撫でる。
深く考えるのは苦手な頭で、必死に思考してるのだろう。小刻みに震える痩せた身体を、労わるように引き寄せて笑った。
「だけど、君のことを気に入ってる。それもまた事実だから、こうして構ってあげてるの」
嘘ではない。梦月より面倒くさい子なんて、探してもなかなか居ないだろう。
にも関わらずこうして遊びたくなるのは、僕なりに情が湧いてるからだ。
「そうやって剥き出しの感情で迫ってくれる子なんてそうそう居ないし? それがこーんな美人とくれば、男冥利に尽きるよねぇ」
うっかりの激情で人を殺せるクセに、人並みの幸せを望んでるところも。
血に塗れても狂わずにいられるクセに、僕を待つ孤独には耐えられないと嘆く矛盾も。
健気で愚かしくて可愛くて、終いにはもっと泣かせたくなる。
愛情に苛まれ壊れていく彼女を、最期まで看取ってやりたくなるのだ。
「……あたしは、烏哭の一番にはなれないの?」
もはや威勢も何もありはしない、か細い声が耳に届いた。
「うーん? 凶暴って意味では一番かな?」
「そういうんじゃなくてッ」
「……梦月」
名を呼べば、また息を呑み固まった。すっかり殺意を萎めた彼女は、従順な獣のようにも見える。
今度は額へと唇を落として、 甘い香りにつられるように、そっと睦言を囁いた。
「一番とか二番とか、そういう順位付けに意味なんてあるの? 君はこれからもそのままで、その想いに焦がれてればいいじゃない」
真っ黒に焼け焦げる、その日まで。
そうしたら、きっと望む先へ連れていってあげるよ。
恋人は殺人鬼
(尤も、小鬼みたいなもんだし)
(恋人という表現も違うのだけど)
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女冥利にも尽きる話。数年前の自分からネタを貰って書きました。