短編

夜に溶ける


 あたしの好きなひとは、謎だらけ。
 いつも喪服みたいな黒い法衣を着ていて、最高僧なんていう凄い――あたしのような人間からしたらそれこそ雲の上の人みたいな――役職に就いてるくせに飲酒喫煙は当たり前。
 女も抱くけど教養はあって、誰より博識で隙が無い。いい歳して茶目っ気もたっぷりあるのに、かと思えば底知れない危うさも感じて――そう。まるで、深くて冷たい、夜みたいな人だなぁなんて。

「――梦月?」

 ぼんやりと、彼と彼の周りに揺蕩う紫煙を眺めていたら名前を呼ばれた。たくさん疲れることをしたから動くのも億劫なはずなのに、知らぬ間に袖を引いていたらしい。
 不思議そうにあたしを見る瞳はやはりどこまでも綺麗な黒で、今し方考えた夢見がちな思考もあながち間違いではないような気がする。

「あたし、烏哭さんと過ごす夜が好き」

 学の無いあたしにしてはすんなりと、しっくりくるような言葉を出せた。
 決してそんなに多くはない、彼の気が向いた時にのみ訪れる、孤独な夜。
 ふたりで居るのに淋しくて、激しくて、静かで、冷えている。そんな矛盾したおかしな時間に、あたしはすっかり囚われていた。

「なぁに、急に。もう一回シたくなっちゃった?」

 相変わらずの軽口で、輪郭をなぞる烏哭さん。煙草の匂いのする親指が厭らしく唇を撫でたところで、あたしはハッとして裾を放した。

「ち、違うよ! それはもう充分……」

 これ以上ナニかされたら死んでしまう。そう思い慌てて拒否を示すも、漆黒の彼はどこか腑に落ちないという風だ。

「ふーん? じゃ、何が足りないの?」
「え?」

 思ってもみない質問に、あたしは一瞬言い淀む。
 何が足りない?
 烏哭さんから何かを問われること自体稀だったけど、彼の内面を表すように随分複雑な問い掛けだ。
 烏哭さんとの関係に、足りないものなんて……そんなのは。

(愛情、とか?)

 咄嗟の二文字に、失笑が零れる。烏哭さんとあたしを繋ぐ言葉に、それほど不釣り合いなものもない。
 この謎に溢れた愛しいひとは、決して誰かを愛さない男だ。
 知識も地位も、容姿さえ。何もかも完璧で持っているはずなのに、時折何も無いような顔をする。
 そんなところに惹かれたのだ。この不健全な関係に、愛情なんて有る訳もない。……ああ。だから、足りないのかな。

「わかんない。わかんないけど、烏哭さんが足りない」

 縋るように、今度は胸元に手を置いた。声に出したらより鮮明に、飢餓にも近い欲求が押し寄せる。
 足りない。足りない。烏哭さんが足りない。
 たくさん抱かれて、絡まり合って。なのにこんなにも満たされないのは、ここに愛が無いからなのか。

「烏哭さん」
「……ん?」
「エッチじゃなくて、キスがほしいよ」

 冷めた目で、それでいて観察するようにあたしを映す烏哭さんに訴える。
 意識しているのか無意識なのか、烏哭さんはいつも口づけをしない。そんなものが無くても気持ち良い行為に、今まで気にした事などなかったけれど。
 それが狙っての事だったなら、あたしが求める足りないものは、全部がそこに有るような気がした。

「腰、砕けちゃうかもよ?」

 胸に添えた手はそのままに体重を掛ければ、少しだけ距離が縮まった。だけどその距離は物理的なもので、肝心の烏哭さんは余裕そうな笑みを浮かべたままだ。
 あたし以上にあたしを解ってるくせに、意地悪であたしを惑わせる。

「もう、砕けてるから大丈夫」

 ねぇ、早く。彼の前でしか使わない、色欲に染まった目で先をねだった。

「そんなに僕にキスされたいの?」

 犬のように待てをされたあたしを、烏哭さんがニヒルに嗤う。
 仕方ないなァ。声に続いて、漸く唇が合わさった。

「……ン、……烏哭、さん」

 啄むように、何回も。角度を変えて落とされる口付けに、応えるように首筋へ縋った。
 時折響くリップノイズと後頭部に回された大好きな手が、嫌でも鼓動を速くする。
 上唇を軽く食まれて、侵入した舌先が歯列をなぞった。そうして舌同士が絡まり合えば、宣告通り腰にクルような気持ち良さがあたしを襲う。
 ねぇ、好きよ、もっとして。思うのに全てが吐息に変わって、終わりのない快楽に霧散していく。
 こんな風に彼にキスされた人が、一体何人居るのだろう。
 彼にとってこうしてキスすることは、どの程度の意味を持つのだろう。
 解らないことがまた増えて、満たされた気持ちは再び夜を彷徨う。
 キスの中に全てがあるなんて、やっぱり理想に過ぎないのかも。だってこんなにも温かいのに、伝わるのは熱の無い情欲ばかりだ。

「――満足した?」

 やがて唾液を舐め取って、ゆっくりと烏哭さんの気配が離れた。
 何の感慨も含まない言葉に答える術を、酸欠状態のあたしは探しあぐねる。

「……また、烏哭さんのことがよくわからなくなった」

 知らぬ間に垂れていた涙を手の甲で拭って、漸く絞り出せたのはそんな言葉で。
 結局今回の逢瀬で得たことといえば、烏哭さんの唇の感触とそれから、彼が欲しいという叶わない欲求のみかもしれない。


夜に溶ける

(この冷たい夜という時間に)
(貴方の温もりを探しては溺れる)

−−−−−
親友から「惰性丸出しのキス」というワードを貰い、滾った勢いで書いてみたお話。サブタイトルは『烏哭さんが足りない』。


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