もしも執事ならば。 | ナノ

アイマイ


 世の中には略奪愛なるものが存在するそうですが、果たしてそれは本当に幸せなのでしょうか。甚だ疑問でございます。
 私に特別な教養がない為に理解できないのでしょうか。それともこのような閉鎖的な環境にいる為でしょうか。ああ、決して不満を持っている訳ではございません。むしろ恵まれているとさえ感じております。ただ、疑問に感じただけなのでございます。
 他人の気持ちを考えずに自己の為に動いた結果、愛する人を自分のものにできたとしても、それは本当に幸せだと言えるのでしょうか。

「お前は哲学者か何かになりたいのか?」

 眼鏡越しに呆れた視線を感じて、私はつんと顔を背けた。
 だからこの男には言いたくなかったのだ。私の悩ましい気持ちなど、彼には微塵も理解できないだろう。
 とあるお屋敷でメイドとして働く私には、ここ最近悩みがある。その悩みが生まれたのはこの屋敷の主人の一人娘であるお嬢様がお読みになっていた小説が原因なのだけれど、とにもかくにも、その悩み事の所為で私は周囲から明らかに元気がなくなったように見えてしまうらしい。なんたる失態。
 なんとか表面でも普段通り繕おうとしたが失敗し、昨日遂に旦那様に最近何かあったのかと尋ねられ、素直に白状した末の独白が冒頭です。この屋敷で働いていたメイドの娘の私は生まれた時からここにいて、失礼だけれど実の父や兄のように慕っている旦那様なら答えをくれるかもしれないと思いもしたのだが、彼は困ったように笑って人それぞれだからと言うだけだった。確かにそうだ。
 納得した私は今日から気を取り直してまた励むつもりだったのだが、ようやく一日が終わってみれば好ましくない状況に陥っている。お嬢様の執事である犬飼に、昨日の旦那様と同じ質問をかけられたのだ。渋々昨日と同じ独白を聞かせれば、予想通り呆れた顔をする。寝付けないからと庭を散歩しようなんて考えなければよかった。

「犬飼様には一切関係ございません。ご迷惑をおかけしたのならお詫びいたしますが、あなたにだけはそのようなものをかけた記憶もございませんし」

「はあ? 何怒ってんだよ。嫌みったらしく『犬飼様』とか呼ぶの、ほんと気持ち悪いからやめろって。こないだまで呼び捨てだったのに」

「敬称をつけてお呼びするのは当然でございます。ただのメイドの私とお嬢様の執事のあなたでは、同じ仕える人間でも全く違うのですから」

 世の中は全て身分だ。いくら親しい付き合いがあったとしても、もう大人なのだから身分に相応しい振る舞いをしなければならない。いや、それでは御幣がある。もう私と彼は親しくもなんともない。
 早く居心地の悪いこの場から逃げたくて、短く挨拶をして踵を返す。けれど、大きな手に腕を掴まれて足が止まってしまった。袖越しにあたたかい体温を感じて、僅かに熱が走る。
 離して。そう訴えようと唇を開き、しかしそれを封じるように彼の声が耳朶を揺らした。

「お前、略奪愛したいのか?」

 びくりと肩が震えたのを、彼に見られてしまっただろうか。どうしてこういう時に限って明るい月夜なのだろう。闇に紛れて消えてしまいたい。
 何も答えない私に業を煮やしたのか、犬飼はぐっと私の腕を引いて向かい合わせる。一瞬だけ見えた彼の顔は、夜空に浮かぶ月光の陰になってよく見えなかった。それでも彼が纏う空気が普段と全然違っていて、こういう時、私はいつも酷いと思う。

「答えろよ。旦那様でも狙ってるのか?」

「っな、に、それ。どうしてそうなるの!? 犬飼には私が財産目当てに旦那様に近づくような女に見えるの!?」

「そんな女だとは思ってねえけど、お前旦那様大好きだからさ。旦那様じゃないなら料理長か? ああ、庭師のあいつとも仲いいよな」

 屋敷で働く男達の名前を彼が次々に挙げていき、その度にじくじくと胸が痛んだ。私と関わりのある男を全て挙げてみせるのに、自分の名前はちらとも出さない。
 この男は普段飄々としているのに、こういう時は酷薄としている。私の胸に刃物をざくざく突きたてているくせに、何も知らない顔をして私の前にいるのが堪らなく憎くて、悔しい。
 私の目に溜まっていく涙だって月明かりでちゃんと見えているくせに、彼は決して私を見ようとはしない。

「誰にしろ、やめとけ略奪愛なんか。周りの目よりも、お前が一番……」

「うるさいっ! あんたなんか関係ないんだから放っておいて!」

 力一杯叫んだ私に驚いたのか、少しだけ腕を掴む手が緩む。彼の手も邪な考えも振り払って、今度こそ逃げ出した。
 そうだ。彼の言うとおりだ。私は略奪愛をしたい。可愛くて優しい大好きなお嬢様から、犬飼を奪ってしまいたい。彼の気持ちなんか無視して、誰もいない遠い所に奪い去ってしまいたい。
 だけど、わかってるのよ。彼は私に見向きなんてしない。私といたって彼は幸せになれない。私と同じように、愛する人の傍に彼もいたいのだから。
 私は幸せになりたいけれど、彼を不幸にする事だってできないのよ。

「……お前が一番、傷つくくせに」

 奪う力も覚悟もない私は、彼から目をそらして気持ちを深く海の底に沈めるしかないでしょう?


愛埋
彼がどんな表情をしているかなんて知らずに




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