もしも教師ならば。 | ナノ

ノートは二人を知っている。


カリカリ。シャーペンの動く音がする。それとは別にキュッキュとホワイトボードに綺麗な文字が書かれていく音もして、私はただその手の先を追っていた。


土萌羊先生。私が一番好きな科目を教えてくれる、私が大好きな、先生。


時計を確認したら、残念な事にあと数分で授業は終わってしまうらしいけれど、私のシャーペンは動く事が無い。授業がつまらないという訳ではない、寧ろこの授業はどの科目よりも大好きなんだけど、どうしてか私のノートは真っ白のままだった。理由は簡単明白、一時間ずーっと土萌先生を見ていたせい。


羊先生の授業が終わればあともう一つ受ければ寮に帰れる。それでも授業に身が入らない。その理由はもう一つあって、先生に提出したノートが返却されていない事も大きい。そのノート自体はなんて事は無い、普通のノートだけど、私には何より大切なノートなの。いや、ノートの中身が、と言った方が正しいかな。それはきっと、そろそろわかる。



「じゃあ、今日の授業はここまでだよ。今日の日直はこのノートを配ってくれるかな」



そう言うと、土萌先生は持っていた教科書、教卓に置いていた先生用のまとめのノートを手にとって教壇から下り、そのまま教室を後にする。それと共に教室内は解放されたような雰囲気になるけれど、私はそんな雰囲気に混ざる事が出来なかった。その雰囲気とは違った意味で浮足立っているんじゃないかな、きっと。


日直が配ってくれるノートを、じっと待つ。そのノートが他の人に開かれませんように、それだけ祈って。真っ白なノートはとりあえず机の中に仕舞って、中身は後で誰かに見せてもらえればいい。そんな事より大事なのは、あのノートの束の中にある筈の私のノートだ。


大体は席順になってるから、提出期限を守っていれば自然と自分の分は前の人から回ってくる筈なのに、なのに。



「あ、名前。ノートの一番上に付淺あったよ、名前宛てに」
「え?あ、うん。ありがとう」



今日の日直に渡されたのは何故かノートでは無くて付淺。それも見覚えのある字で『放課後までに教科室』と簡潔な文章が書いてある。さっきまでずっと見ていた文字、大好きな先生が私の為に書いてくれた文字。それを見たら、放課後まで待てない、待ちたくなんか無い!そう思って、とりあえずそのままガタリと勢いよく椅子から立ち上がると、隣の席の人に「ごめん、保健室行ってくるって先生に伝えてくれるかな」と用件だけ言うとそのまま教室を後にする。後で言い訳は聞くから、許してね、隣の席の彼!






走りたい気持ちを抑えて教科室へ向かい、そこでトントンと素早く二回、一呼吸置いて一回ノックする。それは私が来た合図でもあるから、先生の声が聞える前にそのままドアを開けた。



「まだ、放課後じゃないけど?一応僕が呼び出したのは放課後の筈なんだけどな」
「でもね先生、放課後まで、って書いてあったよ」



そう、先生が書いてたのは放課後“まで”。つまり、それより前なら文句は無いでしょ。でもきっと私がこうするのを分かっていたのであろう。優しく微笑んでいる先生を見るとそう思う。


やっぱりと言うべきか、羊先生以外の先生達は皆授業を持っているみたいで此処にはいない。まぁそれを見越して先生はこんな付淺で私を呼び出したんだろうな。きっと私が放課後まで待てずに飛んでくるってわかってたんだろうから。



「先生、ノートは?」
「ん、家だよ」
「やっぱり」



教科室に入るなり先生の腕に引き寄せられて、先生が座っている足の上に座るような形に収まった。ぎゅっと閉じ込める様に抱き寄せられて、首筋に顔を埋められる。楽しそうな声が耳元で聞えるけれど、少し髪が首に掛かってくすぐったい、なんて言ったら笑うかな、先生。


さっきまで私が求めていた提出用のノートに挟まっているのは、いつも付淺。それは私達の立場の為に生まれる、先生と生徒のやりとりだけど、私達にとっては意味のある物。それを基準に会う、会えないがわかる大切な。でも今はそれより大事な人が私を抱きしめてくれているけれど。こうやって会えている時には必要のないものだ。それでも有るのと無いのでは大違い。それに、明日だってそのノートを使って宿題を出したのはこのノートを忘れた、いや、きっとわざと家に置いてきた張本人だ。



「毎度毎度、家まで取りに行かせるつもりですか?一教師が」
「それだけ名前と一緒にいたいってことだよ。家に入ってしまえば人目を気にしなくていいからね。僕は教師と生徒って立ち場さえなければ君と外でデートだってしたいし、抱き締めたい。名前は僕の恋人なんだー!って自慢して回りたいくらいなんだから」
「…もう、またそんな事言う」
「僕は本気だよ?名前が大人になったら色々な所も連れて行ってあげたいし、旅行だってしたい。パリも案内出来たらいいな」
「…それは行きたいかも。美味しいデザートの御店も行ける?」
「Mais oui!行くに決まってる!」



君を連れて行きたい所は沢山あるんだから、なんて言って先生は色々な場所の名前を挙げていくけれど、私は知らない場所ばかりで、それでも羊先生がこんな風に楽しそうに話してくれるのを見ると、それだけで幸せになる私は単純なのかな。


手に持った付淺を見ながら、少し考える。会いたいなら、素直にそう言えばいい。そういう考え方の羊先生には珍しいこの行動は、私を守るためでもあった。付淺に隠された意味を正しく理解すれば、会う場所や時間を指定できるし、こうやって会う事が出来るのだから。


お腹に回された手にそっと自分の掌を重ねて、大きさを確かめる。年の数だけ、なんて言ったらいい顔はしないだろうけど、私より大きな大人の手は、いつもいつも私を守ってくれている。



「なら、数年後は楽しみにしてますね、先生?」
「そうそう、名前が楽しめるように色々考えてるんだから、今は名前が出来る限りの事をしないと駄目だよ。少なくとも、今日の授業みたく上の空は禁止だからね」



さらりと言われた言葉に、私の体は一瞬強張る。授業中なのに、私を見ていてくれたところを嬉しくも恥ずかしいなって思うべきなのか、そんな所まで見ていたという事に驚くべきなのか、それだけ私が付抜けた顔をしていたという事なのか。


じっと羊先生の綺麗な瞳を覗き込んでみる。ドクン、ドクン、と胸は高鳴っているけれどこの際それは無視して、私の一歩、二歩先をずっと見て、優しく道しるべしてくれる、先生。




大人な彼の瞳には何が見えているんだろうか。






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