白色の糸
白色の糸を摘むと、奇妙な感覚に陥った。
何かが間違っている、あり得ない、と第六感が告げる。白い糸から連想する人物がいないのもあるが、何よりもこの糸に触れると不安と孤独感が心を苛む。
「おかしいだろ……」
「何がだい?」
「っ!?」
す、と凌牙の背後に影が射したかと思えば、唐突に声を掛けられた。驚いて振り向いた視線の先にいたのは、見知らぬ青年。
一般的な雰囲気の人間ならば良かったが、凌牙に声を掛けてきた青年の纏う雰囲気は明らかに異常だった。
両目はぎらりとまるで獲物を狙う獣の様で。獣、というよりも青年の服装から見ると巣を張り獲物を待つ……蜘蛛の様にも捉えられた。
突然現れた気配を睨み付ける凌牙とは反対に、青年は飄々とその場に立ち凌牙を見ている。
「テメェ……何者だ」
「ボクが判らない?……ああ、なる程、そうか」
「何独りで納得してんだ、答えろ」
青年の態度が異様に苛立ち、無意識に目を吊り上げてしまう。赤の他人に何をここまで苛立つのか、凌牙自身も理由が分からなく、内心困惑した。
その感情を知ってか知らずか、青年は鋭い眼をすっと細め喉を鳴らす。
「フフ、ボクの名前は、八雲興司。独りで納得してしまってすまなかったよ、凌牙」
「やぐも、きょうじ……っ?なんで、俺の名前を……っう!」
青年の、八雲の名を声に出した途端、頭の中を甲高い電子音とノイズにザリザリと掻き回される感覚になった。思わず片手をこめかみにあて、歯を食い縛る。
「フフ」
そんな凌牙の姿を、八雲は酷く愉しげに見つめていた。その眸はまるで獲物が巣に掛かった蜘蛛のようだ。
「凌牙。キミは間違えてしまったようだね」
「は、」
カツン、と八雲が凌牙のすぐ目の前に立つ。顔を上げれば、するりと彼に抱き締められてしまった位に近く。
はっとしたが、身体は動かなければ、思考を乱す雑音も消えなかった。見ず知らずの男に抱き締められるなど、拒否反応でもでるはずだが、どうしてだか八雲に対しそうした感覚にはならない。
とうとう思考が麻痺してきたのかどこか、懐かしい気持ちになる。
「凌牙。キミは、違う」
「え――?」
「凌牙であって、『凌牙』じゃない。ボクが求める『凌牙』はキミではないし、キミを待つ運命的な人物もボクではない」
静かに、諭すように八雲は語る。その言葉は、八雲自身にも言い聞かせているのだろうか。
「八雲……?」
「『凌牙』もそうやって可愛く呼んでくれたらいいんだけどな。……まぁ、仕方ないか。悪かったね凌牙」
「あ、」
する、と小指から白い糸が解かれた。解けない筈の糸を、八雲は最も簡単に抜き取ってしまった。
「この糸は、ボクとキミではない『凌牙』を絡める糸なんだ。キミには、あげられない」
朦朧となる意識の中、八雲の声だけが鼓膜を震わせていく。
「いつか、キミにも、感情を揺さ振られる人はきっと現れるさ」
「――っ」
声が遠くなる。その声の持ち主が誰なのかを忘れていく。
その事が、とても哀しく思えた。
白い糸は繋がっていなかった。