緊張で固まった肩を腕を回すようにして解す。ぼきぼきと鈍い音をたてる両肩に、最近癖になってしまった溜め息が零れた。
この後は何事も起こるなよ……と祈らずにはいられなかった。

何故こんなにも俺が疲弊しているのか、話は朝までまき戻る。
朝一で高等部の昇降口に行く、という行為は最悪以外の何物でもなかった。天城カイトに借りた傘を返すだけなのだが、早めに登校していた高等部生には何故高等部に中等部生が?と首を傾げられ、それだけでも居心地が悪いと言うのに、今日は本当に運が悪いようだ。謝礼の言葉を綴ったメッセージカードを傘の持ち手に貼り、それを傘立てにそっと戻して昇降口を後にしようと振り返った先には憎たらしいくらいの笑みを向ける――マスターの言葉を借りるならスイートポテト、と揶揄される奴がいた。しかも早めの登校をしたらしい数人の女子の黄色い声を浴びながら。

「おや、凌牙。此処は高等部ですよ?」

ああそうだな、と吐き捨て内心中指を立ててしまうのは不可抗力だ。
鬱陶しげに睨み付けたが、そうした言動は奴……Wを喜ばせるだけだった。

「……もう用は済んだ。W、そこ退け」

「――まあ、そうツレねェ事言うなって。下駄箱にラブレターでも入れにきたのかよ?」

「は?お前、何寝言言ってやがる」

カラカラと笑い、そっと俺にだけ聞こえる声量でWは紳士面した声を外す。俺が嫌がる程、Wの機嫌は良くなる。咄嗟にWの手の甲をつねり、「馬鹿言うな」と言い捨て昇降口から逃げる。
背後から「またお昼にお会いしましょうね」と聞こえたが、昼を逃げ切った俺には関係無い言葉だった。

以上が本日の学校生活で起こった事柄だ。話は冒頭に戻らせてもらうが、俺はその学校という集団行動から漸く解放され、今からバイトのシフトに入る最中だったりする。
深いモスグリーンのロングスカートに乱れはないか、エプロンの紐は結ばれているか、――俺ははた目から神代凌牙には見えないか。今日は朝からWに出くわすというアクシデントに見舞われた為、ぼろが絶対に出ないようにと願いながら髪を結わえていつも以上に俺自身の姿を見渡し、そっと休憩室を後にする。

大丈夫、大丈夫だ。俺はこの時間だけは神代凌牙ではない。そう言い聞かせ、厨房にいるだろうマスターとクリスに会いに行く。


「ありがとうございました」

丁寧にお辞儀をして買い物帰りの主婦達を見送る。ちらりと壁に掛かった時計を見やれば閉店まであと一時間と少し。ラストオーダーまではあと十分程度。
今日は朝から色々あったが、バイトの最中は同校の学生や知り合いにも会わずマスターやクリスと和やかに営業が出来た。

あと少しだ頑張れ俺と気合いを入れた直後の事だった。カランカランと来店を告げるドアベルが鳴り、恐らく本日最後となる来店者を告げたのだ。反射的に笑顔になりぱっと入り口へと視線を向けると。

「い、らっしゃい、ませ」

不可抗力で口角がおかしな角度で引きつった。時が止まったようだなんて比喩があるが、本当に一瞬止まったんじゃないだろうか。

「どうも。悪いな、ラストオーダーギリギリだったからつい寄っちまった」

「い、いえ」

ああ、悪い。最悪だ。
何で最後の最後でお前が来店するんだ。イラッとする。
どうしてお前が来やがったんだ、W。

愚痴を心の中で並べつつ、俺は早く本日最終来店者のWから離れるべく厨房に席を外していたマスターを呼んだ。

「マスター、息子さんがいらっしゃいましたよ」

「トーマス!ミハエルは家かい?1人で来るなんて珍しいね。 クリスー、トーマスが来てくれたよー!」

「……いくら俺以外に客が居ないからって、はしゃぎ過ぎだろ父さん。なあ、そう思わないか?」

「……」

「おい?『神代』?」

「! え、あ、はい?」

唐突に話を振ってくるものだから思い切り声が裏返ってしまった。
ああ、なんて醜態だ!しかもWなんかの前でだと!
ぼっと頬から耳にかけて熱が生まれる。
不思議そうに俺を見てくる数センチ高い場所にある奴の目が憎たらしくて仕方ない。

「おや、君が照れるなんて珍しい」

「な、マスター!」

ふふ、と紅茶の湯気に似た掴み所の無いふわりとした笑みでの指摘に、一旦口を閉じて下さいと言う意味を込めた為、声が大きくなってしまった。とっととWをカウンター席にでもテーブル席にでも案内して、俺の失態を流さなければ自尊心がクッキーのように砕け散ってしまう。

「――、お客さま。マスターとお話をなさるのでしたら席はカウンターにいたしますか?」

「ああ、そうしてくれ」

「では、此方で。メニューはこれになります」

混乱半分、達観半分な脳内が接客だけは何とかこなしてくれる。
メニュー表を渡した際に「ありがとう」とWが言った気がするが、正直返事が浮かばず曖昧な笑みを作るだけで精一杯だった。


「――なあ、アンタ。待てよ」

マスターが持ち帰り用にとシフォンケーキを取りに厨房へ消えた時、俺は入れ替わりで栗のロールケーキをWへ運んでいた。
皿を置き速やかに他の仕事に移ろうと決心していた俺の手を、ふいにWが掴んで阻止される。何なんだコイツ。

「どうかなさいましたか、お客さま」

「……まあな」

逃げたい俺を矢張りWは逃がしてはくれなかった。

「ソレ、止めろ。俺の名前知ってンだろ、『神代』」

有無を言わせぬ声でWが赤い瞳で見つめてくる。黙っていれば確かにモテるだろう。そう確信出来る程悔しいくらいの精悍な顔つきだ。
今のような、微かな真剣さとコイツらしさを含んだ声で囁かれた時、女性なら簡単に落ちるだろう。生憎俺は同性なものだからこれといって女子の如くあれこれ思う事はないが。

「トーマス……さん」

それでも今の俺はマスターのお墨付きを貰った女装をする、他人から見たら一応外見は女性なのだ。
神代凌牙なら鼻で笑ってやる所を、ウェイトレスの俺は渾身の恥じらいある声と苦笑混じりの困ったような顔でぽつりと言ってやる。W風に言うのならファンサービスだ、俺に感謝して階段の段差に脛をぶつけて痛がれ。

「――っ」

「あ、あの。違い、ましたか?」

「あ、いや!合ってる。……だから、次からはそう呼んでくれないか」

「?」

何を言いだすんだ。トーマスと呼べというのか?俺が?Wを?
どうしてそんな結論に至ったか皆目見当がつかない。

一応頷きはしたが、それ以降Wは片手で口を隠すようにして黙り込んでしまった。そのためヤツが何を思ったのか判らずに、マスターと入れ替わるように俺は厨房へ戻ってしまった。そこに居たクリスに家族しかいないからあがって構わないと告げられ、シフォンケーキを幾つか持ち帰りとして貰い、その日のバイトは終了した。

クリスに「Wが気持ち悪いくらい変になりやがった」と着替えに戻る時に伝えたら、「多感な年頃なのだろう」と微笑まれた事も解せない。




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