何も手が着けられない。
課題を解こうとペンを持っても眼前の問題に目が行かず、予兆なくあの日の出来事がフラッシュバックしてしまう。そうすると最近感じなくなっていたはずの、血の気が引いていき息が詰まるという感覚がキリキリと凌牙を襲う。それはまるで真綿で静かに首を絞められていくような恐怖で。

陥ってしまえば、両目をきつく瞑り落ち着くのをじっと耐えるしかない。
以前は頻繁にあった事だから乗り切れる術は分かってはいるが――ひんやりとした指先が、呼吸に詰まる喉元が。前よりずっと辛く感じた。

「こわい」

無意識に口から感情が零れる。Wに会ってしまった事も、カイトを突き放してしまった事も、どうしようもなく怖い。
またWに感情をぐちゃぐちゃと掻き回されてしまうのか。突き放して、カイトに失望されたのではないか――気持ちばかり昏々と沈んでしまっている。

ベッドの上で嫌な感覚が収まるのをひたすら耐え、何度も深く息を吸った。
ぼんやりとした頭の隅では、真っ直ぐに凌牙を見つめてくる灰色の眼がぐるりと回っている。そして何処か冷静に起こった事を呆然と理解している己がいるのだ。

「……あ、」

か細い、自分の声だと気付くのにタイムラグが生じる程の擦れた音が喉奥から落ちる。
カイトの事を思い起こす度にあの日から癖になってしまったらしく、凌牙の指先は己の唇へと触れてしまう。慌てて指先を離したが、彼の熱は全く引いてくれない。
Wに引き寄せられた時とは少し違う体温の熱さに、触れては思い出し、胸が苦しくなった。

――本当は、その違いの正体に気付いているのかもしれない。Wの時のようにどこかが折れて関係が曲がってしまうのが怖いのも、カイトへの思いに目隠しをしているのも。……臆病な自分が必死に隠そうとしているのだ。

きっとWの時のように、カイトとの関係も拗れてしまえば、凌牙は今度こそ立ち直れない。……自分がそんなに強くはない事など、とっくに知っている。
だから、差し出されたカイトの手を取ってしまったのだ。自分は決して強くはないから。Wとの関係の修復の仕方が解らず、周りが怖く感じ塞ぎ込んだ凌牙へ向けてくれた意志の強い光に、手を伸ばしてしまった。


そうして一人淡々と時間を消費してしまえば、いつの間にか陽の光は西日になってきていた。開いた窓からは、湿気を纏う微かに冷たい風がカーテンを揺らしている。
もうすぐ雨が降るのだろう。ゆっくりとベッドから立ち上がり、窓際へ向かう。さあっ、と一段と強く吹き、雨の匂いを引き連れた風に凌牙の髪が遊ばれる。


「っ!」

風で一瞬見えなくなった視界が戻ると眼下には最近見ることがなかった、あの日から一度も顔を会わせていない彼の姿。

「――カイ、ト?」

がらがらと。
凌牙の世界に線を引いていた見えない壁が崩れていく音がした気がした。

壁に遮られ見えなくなっていた臆病な凌牙がそっと口を開く。

『カイトと話がしたい』


思ったのはただそれだけだった。この期を逃してはきっと後悔してしまう、そう直感すれば、凌牙は急いで玄関へと駆け降りた。





 

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