凌牙の住む地域の降水確率は見事に0パーセントを叩きだしていた次の日。蝉の鳴き声ばかりが煩い昼を少し過ぎた昨日より少し早い時刻、金色の栞を入れた通学鞄を手に凌牙は昨日青年が立っていたホームの方へいた。
さて青年は来るのだろうか、とついさっき利用した階段付近で暑さにじっと耐える。
誰かをここまで気にするなんて滅多に無いなと自嘲しながら、零れる汗を拭う。
仰ぎ見た空は嘲笑うかのような青さで街に暑さを降らせている。

階段を降りてくる人の気配を感じたのは、昨日の電車が発車してからだった。タン、タンと階段を降りる靴音に振り返れば、忘れもしない金色が視界に色を付ける。
見た目も目元も涼しげな雰囲気の昨日の青年がそこには居て、凌牙の姿を認識するとゆるりと見つめ返してきた。

「お前……昨日反対側のホームにいた、学生か」

「ああ。気付いてたんだな」

矢張り目が合った事は気の所為では無かったらしい。頷き肯定すると、こんな暑い中学校だなんてご苦労だな。と青年が凌牙の隣に立ち言葉を零す。

「今日は、違う。――コレ、あんたのだよな」

「! 拾ってくれたのか?」

金色の栞を見せると、灰色の瞳が僅かに輝く。当たりだったようだ。

「気紛れだ。裏側に彫ってある名前……カイトってあんたか?」

「そうだ。俺の名前なんだが……久しぶりに他人に呼んでもらえたな」

金色の栞を手にしながら、カイトは目許を緩め文字をそっとなぞる。カイトの横顔は、昨日と同じで微かな哀しみを含んでいた。
何が彼を哀しめるのか、口に出したい疑問は初対面という常識に阻まれ結局喉の奥に詰まったままだせはしない。

「カイト」

「なんだ」

「……。いや、久しぶりなら呼んでやろうと思って……、嫌だったなら悪い」

「普通口説くなら立場は逆じゃないか?……まあ、いいが。――そう言えば訊いていなかったな、お前の名前は?」

目を丸くさせたカイトがふ、と初めて笑みをみせた。嫌ではなかったようで、心地好い声音で名前を訊かれた凌牙の胸が不意打ちを食らい、跳ね上がる。

「……凌牙だ」

数秒目を泳がせ名前を言ってしまえば、隣でカイトが凌牙、と復唱した。気恥ずかしさと暑さで焼けたコンクリートの上に汗が滴る。
凌牙がこめかみの汗を拭うと、カイトの表情が一瞬曇った気がした。

「凌牙、ここしばらく雨は降っていないのか」

「は?カイト、知らないのかよ」

「生憎この街には来たばかりだったからな」

「へぇ。まあ、そうだぜ。梅雨が明けてからは殆ど降ってない。お陰で連日猛暑だ」

指折り数えてみても夕立があった日は随分と前だ。それからはずっと快晴。
暑くて仕方ない、と汗一つかかないカイトへ言えば、彼は真っ青な空をじっと見上げていた。

「なあ、カイト」

「ん?」

「街に来たばかりだとか言ってたけど、引っ越してきたのか?」

話題というより、違う場所から来た事に興味を惹かれ、そう問い掛ける。訊かれたカイトは考える素振りをしてからゆっくりと口を開いた。

「引っ越してきた訳ではないな、この街には数日間滞在するだけだ」

「……だったら、少ししたら出ていくんだな」

返ってきた返答に、凌牙の心中には羨ましさが滲んだ。学生の自分とは違い、彼はいつでも遠くへ行けるのだろう。
カイトは望んでいないことかもしれないが、凌牙にはどうしても羨ましく思えて仕方がない。

「そう、だな。――雨が降り続いたら、出なくてはならないだろうが」

「は?」

雨なんてまだ暫らくは降らないだろう、と凌牙が目を瞬かせる一方、カイトは意味ありげに空を見た。
途端、遠くに小さな稲光が走り、ややあって急速に成長した積乱雲から地を這うような雷が落ちる音がした。

「もうすぐ雨が降るだろう」

「なんで……」

「俺が雨雲を連れてきたからだ。俺がこの街に居るかぎり、雨雲もここに留まる」

眉を下げ、カイトは凌牙を見ている。その曇り空に似た双眸には哀しみに加え、落胆が見え隠れしていて。

「っ」

そして、凌牙はカイトの言葉が冗談ではない事や、彼が見せる表情の真意の一部を理解してしまった。
雨を連れてきてしまうカイトは、晴れ渡る空を行く先々で僅かしか見られないのだろう。暫くすれば鈍色の空からは雨が永遠と降り続き、そうなれば一ヶ所に留まることが出来ない。

「……貯蓄だけはいくらでもあるし短期のバイトも出来たから宿泊費や交通費は何とかなっている。だが、一ヶ所に住める事だけは出来ないままだ」

「俺に、どうしてそんな大事な話をしてくれるんだよ」

「空言だと疑わないんだな。 面白くはないが暇潰しの話題にはなるだろう。栞と、俺の名前を呼んでくれた礼だ」

何故カイトが雨を降らせる体質に成ったのか、彼自身も知らないらしい。高校に上がった頃から突然、がカイトの答えだった。
その頃から彼一人、孤独な旅を始めたそうだ。

「この栞はまだ俺がこうならなかった時に住んでいたフランスで、親しかった兄のような人に貰ったものだった」

「何て彫ってあるんだ?」

「また会えるという意味の詩だ。俺が雨雲を連れてしまうようになってからは様々な国を巡るが、栞をくれたあの人には会いに行っていないがな」

さあ、っと湿気を含んだ風が通り抜ける。カイトがその風にため息を紛らわせたのを凌牙はそっと見ないフリをした。
彼が遠い場所を見ている目をしたのは、平穏だったその時を思い出しているからだろうか。兄のような人に会いたいと思うからだろうか。……きっと両方なのだろう。

「……、独りは、辛いか」

「もう慣れた。この身を幾度も呪いはしたが」

「慣れる事は出来ても、寂しいだとか……孤独に思う事は消えないの、か?」

「ああ……。そうだな」

目を閉じ、思い出すような口調でカイトは否定をしなかった。
誰の傍にも寄り添えず、いつかとも判らない体質が無くなるまで世界を転々とする。凌牙にはカイトがそうした負の感情に押し潰されかけて見えた。

空が段々と風を絡めた黒い雨雲に塗り替えられていく。太陽を隠し、青色を隠す。
重たい曇天からは次第にぱつぱつと雨粒がこぼれ落ちてきた。
線路の鉄を濡らしていく様を観察しながら凌牙は自宅にある自身の預金通帳の残高を思い出していた。ずっと貯めていたそれには高校生にしては多めの金額が記載されている。

「カイト」

「ん?」

凌牙の頭のなかには高校の進路を記す書類があって。
名前だけを書いたそれを、凌牙は思い切り縦に引き裂いた。

音が掻き消される程の豪雨が街へ、駅へ、二人の周囲へ打ち付けていく。
凌牙は少しだけ背伸びをしてカイトの耳元に口を近付ける。馬鹿な事を許されない事をしようとしている、と自覚はあった。


「俺も――連れていって」

カイトが、目を見開く。彼の震えた口が馬鹿を言うな、と音を出さずに動いた。
目に見えて困惑するカイトへ凌牙は今まで思ってきた事を言葉に出す。
どこか遠くへ行きたいと強く思っていると。それは一時の感情の揺れではなく、既に戻れない程育ってしまった願いだと。


凌牙が心の裡を言葉にしている間、カイトは何も言わずに聞いていた。口を固く結び、眉根を寄せ目を閉じる。

「……、駄目元で言ってる。ふざけるなって言いたいよな。でも……俺は、カイトに付いて行きたい。」

瞼を伏せ、きっぱりと凌牙は言い切る。
勝手なことを言うなという怒りは、「付いて行きたい」と言った凌牙の切願に揺らいで怒りになりきれなかった。

「――。どうして俺に付いてきたいんだ?安定した今の生活を、捨てることになるんだぞ」

「カイトを、放っておきたくなかった。それに、俺は見たことのない場所へ行けたらとずっと考えて生きてきた。……苦しいんだ、今のまま生きるのが」

自分勝手だろ、と笑う凌牙の眸は今にも泣きだしそうに見える。
誰にも理解されなかった心情をお互い曝け出した後、それを重ね合わせてしまえば皮肉にも違和感なく重なって見えた。
カイトが静かに息を吐くとびくりと凌牙の肩が震えた。その姿を確りと見据え、凌牙、と名前を呼ぶ。

「……付いてくるならば、見る景色の大半は雨だぞ。それに一ヶ所に長く留まる事も出来ないし、日本以外にも飛ぶ事だってよくある」

「カイト、……?」

「俺を孤独にしないと誓うなら、これからの生活費は出してやる。二日後この街を出る」

「!」

はっと目を丸くさせた凌牙の片方の目尻から無意識に涙が頬を伝っていたのを、カイトはそっと指の腹で拭う。

「誓う、」

「……ああ」

「家族には勘当されるだろうが、カイトには迷惑かけねぇよ」

「……そうか」


そう会話を交わして別れた、二日後。
二人は雨の降りしきる中、始発の電車に乗り込んだ。

「本当に、いいんだな?」

「いいんだ。誓ったからには、お前の傍にいたいんだよ」

「ふっ。ならば雨雲に追い付かれる前に国外にでも飛ぶか」

窓に貼りつく雨粒に日の出の光が乱反射しきらきらと輝いていた。
電車は雨雲から抜け出し、またいたちごっこが始まるだろう。だが凌牙は街を出る選択をした事を、カイトという不思議な体質の青年に付いていくと決意した時から悔いはしていない。
向かいに座ったカイトは栞を見つめながら心なしか表情が柔らかくなっていた。

陸橋の上を走ると拓けた川の先に朝日が昇る。それが、二人の目にはとても綺麗に映えていた。


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