ある日の話

衛宮夫婦


 凡そ一時間近くの間、アイリスフィールは立ち尽くしていた。あまり丈夫とは言えない身体で無茶をするなと彼女の夫がいれば注意したのかもしれない。今此処にいない夫を思い出し、アイリスフィールはくすりと上品に笑みを零す。誰よりも正義の味方であろうと、世界の天秤であろうとしたひと。
 ううん、そんな表現をするのは相応しくないわね。
 アイリスフィールは自らの身体を見やり、その身体が作り物である事を強く意識する。アインツベルンによって作られたホムンクルス。聖杯の外側である自分に自由と生きることを教えてくれた人。愛しい、アイリスフィールの大切な人。舞弥もイリヤも大切だ。それは確かに歴然とした事実ではあるけれど、そういう種類の大切とはまた違った唯一の大切さをアイリスフィールは切嗣に抱いていた。

 子供のように笑った彼の顔を思い出し、彼女は胸に抱く箱の質感と重量を確かめる。宣伝で知っただけのバレンタイン、という行事。この冬木の、日本という国では女性が愛しい男性にチョコレートを送る日だと聞いた。聖杯戦争前に何を暢気なと呆れられるかもしれない。だが、本格的に聖杯戦争が始まってしまえばきっと夫と直接話す機会すら殆どなくなってしまうのだから、これが最後のチャンスだった。一年後にはもう、アイリスフィールはいない。戦争がどのような結末を迎えるにしろ、彼女が生きていることはない。たとえ切嗣が勝ち残り、万能の願望器によって願いを成就させたとしてもだ。その願望器の外側のコーティングそのものが、アイリスフィール・フォン・アインツベルンという人間なのだから。
 あえて自分を人間という表現にしたことを、これからアイリスフィールが変えることはない。自身が人形であることを否定することはいとし子が人間であることを肯定することと同義であることを、最早彼女は知っている。
 それでも尚、彼女は聖杯の依り代としての自分を捨てることもしなかった。切嗣の理想に殉じる、そう決めたいのも他でもない自分自身であるから。母として、妻として、依り代として。誰よりも辛い道を歩く夫と娘の支えであろうと、宿命とも呼べる運命を、アイリスフィールは受け止めていた。

 
 歩道の反対側から、漸く待ち人が現れる。下見だけだと言っていたが随分時間がかかっていた事を問い詰める気は更々なかった。アイリスフィールが言いつけとは異なり外で待っていたことに切嗣は驚きを示す。彼女が夫の言いつけを守らないことは早々なかったし、外の世界に興味深々な彼女ならばたとえ中とはその旺盛な知識欲を満たすことなど造作もないと彼は考えていたからだ。彼が何かを口にする前にアイリスフィールが駆け寄る。今日だけは、次がない今日だけはこのような甘い時も許されるはず。
 

「ハッピーバレンタイン、切嗣」


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