ねこ
人間をブタにするのは簡単だ。この世にはすでにポーキーという魔法がある。ただしあれは異なる生物を“豚という動物”に変えてしまうわけじゃなくて、あくまでも“ブタの形をした人間”にする魔法らしいけど。
能力を衰えさせるための魔法。武器を扱いにくく、ある種の呪文以外を唱えられないように、敵を弱体化するための魔法がポーキー。それでは足りない。私たちの求めるものは新たに生み出さなきゃいけなかった。
「だからと言って、お前が実験台になる必要はなかったはずだ！」
私は随分と上の方にあるルビカンテの顔を見上げた。彼は怒っていた。私に対してはいつも怒ってるけど、今日はとくに。でも私のために怒ってるんじゃなくてゴルベーザの体が心配なだけだ。
「にゃあ」
――うまくいってるからいいじゃない。
答えた私の声はゴルベーザのものではなかった。今この体は彼のものでも私のものでもない。人間のものでさえなかった。聞き慣れない鳴き声に驚いて、所在なげにあたりを見回すと、ルビカンテは叫んだ。
「……なぜ猫なんだ！」
暖かそうだったからなんて言ったらもっと怒るかなあ。……でも、そこまで苛々することかな。
私達の仲間は少ない。魔物は世界中にいるけれども彼らは一致団結してことにあたるというやり方を知らないから、私の手中にある配下と呼べるものは本当にごく僅かだ。支配する地を増やす前にそこへ置く魔物を作らなければ。野生の彼らを説き伏せている余裕はないから私達はすでにあるものを使うことにした。
まずはバロンを手に入れる。そしてそこの人間を魔物に変えるのだ。姿だけの変身じゃなく魂まで歪めて私のものにする。そうすれば一人一人に洗脳を施す手間もない。
ルゲイエはよく働いた。短期間でポーキーの仕組みを調べて知りつくし、さらに強めて元の肉体を破壊する術を手に入れた。そこからカイナッツォや一部の魔物が持つシステムを取り入れて魔法を再構築し、別種の生物と人間である己の姿を併せ持てるようにした。
いま私は猫の姿をとっているけれど、魂の構造はゴルベーザと同じ。膨大な魔力もそのままだ。猫であることに意味はない。これを肉体的にも強靭なモンスターに置き換えれば、いつでも人間を作り替えて私達の配下にできる。
作戦には賛成していたのに私がこの体を使って試してみるとルビカンテは激怒した。でもなんとなく、おかしい。もしかして猫が嫌いなのかと思った。
「……マコト」
なんでしょうかと尋ねられないから、じっと獣の目で見つめ返した。彼の四天王としての能力かゴルベーザの精神力が優れているのか、猫の言葉でも通じるようだ。
しばらく私を眺めていたルビカンテは心なしか呆然としているように見えた。ゴルベーザの体を実験台にして怒られるだろうとは思ってたけど、誰にでも通じる魔法だと確信を持てなければ困るし、元に戻れることも証明済みなのに。なにを戸惑ってるんだろう？
「私は火のルビカンテだ」
それは散々聞きました。自慢気に何度も何度も聞かされました。いかに自分の炎が強く、四天王であることがどれほど誇りなのかと。でもそういえば、今の彼からはさほど熱を感じない。いつもならまるで近づくなと牽制してるみたいな熱気をまとってるのに。
小さくなってしまった私に合わせるように屈んで、ルビカンテは恐る恐る手を伸ばしてきた。正面から迫る大きな影が少し怖くて思わず目を瞑ると、小さなため息。
「……？」
「動物は火を怖がるだろう。だから私は、触れないんだ。近づけば逃げられてしまう」
「…………」
理解するまでに結構な間があったと思う。彼の口から出たのはそれほど突飛な言葉だった。
えっと、つまり、猫が嫌いなんじゃなくて、私が変身したのを怒ってるんじゃなくて。……触りたくてそわそわしてただけなのか。
宙ぶらりんになってしまった彼の手に頬をすり寄せた。仄かに温かい手がひげに当たってくすぐったい。束の間躊躇してから、ルビカンテは私を抱き上げた。
猫になるのも結構いいかもしれない。私は炎を怖がったりしないから、ルビカンテは安心して触れられる。彼の指がそっと耳を掻いた。普段ならありえないスキンシップは私にも喜びをもたらした。
心地好い腕のなかで、私の黒い毛並みが目に入った。ふと疑問がわく。ゴルベーザの髪は白い。なぜこの猫は黒いんだろう？
にゃあと一声鳴いて見上げると、口元に隠しきれない笑みを湛えてルビカンテが私を見る。
――私の瞳、何色ですか？
「ん……？ 黒いな」
その返答に心から安堵が溢れた。黒い体、それはゴルベーザにかけられた呪い、彼を縛る甲冑の色だったかもしれない。だけど瞳は私のものだ。その黒は私の色だ。ルビカンテが見てるのは私の目、それがたまらなく嬉しい。
何かを通してではなく、私自身が向き合っていることが。
「……早く、元に戻さなければいけないな」
そう言いながらルビカンテは私の頭を撫で続けた。無意識に喉がごろごろと鳴る。あれは本当に喜んでるときに出るものらしいと自分の体で感じていた。くすぐったくて心地好くて、しあわせだった。この世界に来てからこんなことはなかった。もうちょっとこのままでもいいのに。
元に戻るというのはつまり“ゴルベーザ”に戻るということだし。他人になるよりは、まだこのほうがマシに思えた。少なくともいま私は幸福のただなかにいる。
ルビカンテがどう考えたのかは分からないけれど、その後しばらく、私は彼の腕のなかにいた。
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