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 背後で揺らぐ気配が、足音を殺して近寄ってくるのを感じた。気づかれていないつもりなのだろうが年端もいかぬ娘がいくら慎重になったところでまるわかりだ。後ろに一歩の距離で一度止まり、私に向かって跳躍したサヤの体をひらりと避ける。派手な音と水飛沫をたてて彼女の体が泉に落ちた。
 一瞬水中で呆然としたのか波紋がおさまりかけるまで静寂があり、やがて前髪から水をしたたらせた彼女が恨めしげに顔を出した。
「……気づいてたなら言えばいいのに」
 頭からずぶ濡れになったサヤが私を睨む。苦笑しながら引き上げてやると犬のように頭を振って水を飛ばし、甲冑にはねた飛沫が光っていた。
「妙な企みをするからそうなる」
「水に濡れたら鎧脱ぐかと思ったのにー」
 その言葉に返事はせず、ふて腐れて座り込むサヤの隣に魔力の炎を呼び起こした。元気そうな娘だが風邪を引かれても困るからな。
 不自然に揺らめく炎が瞳に映っていた。彼女から見れば私の甲冑にも赤い色が揺れているだろうか。益体のないことを考えていると溜息のような呟きがぽつりとこぼされた。
「いいなぁ……」

 しこたま水を吸った服が重そうだ。彼女のしゃがむ地面に暗い染みが広がっていく。脱がせた方がよかったのだろうか? しかし今は着替えを用意していない。そうだ、サヤの服についても考えておかねばならないな。
「……何が、いいんだ?」
 尋ねると彼女はもう一度ほうと溜息をついて、私が起こした炎に両手をあてる。手よりも服を乾かすべきだと思うのだが。
「魔法がさ。水とか火は便利だよねー、羨ましいな」
 便利か。確かに、魔法も生み出された当初には他者を殺傷するものではなく己を生かすための術だったのだろう。白魔法の使えぬ私には関係のないことだが。使い出のあるものは己に適した使い方をすればよいのだ。炎も水も、それで他人を焼きつくし押し流すためのもの。
 サヤが小さくくしゃみをした。濡れた服が肌に張りついている。見ただけでは分からないがきっと冷えてきているのだろう。
 こういう時に何を差し出すのが気遣いというものなのか。肩の留め具を外して外套をかけてやると、彼女は困ったように私を見上げてきた。誤ったのだろうか?
「えっと……濡れちゃうよ?」
「構わない。すぐに乾く」
 やはり脱いで乾かすべきだと思うのだが、何となく言い出せなかった。

 サヤには魔力がなかった。根底を探れば微かに感じるものはあるのだが、生命力そのものと混然となったそれは存在しているとは言い難いか弱さだった。彼女の世界には魔法がないというからそのためだろうか。己を守る術すらないとは恐ろしいことのように思う。
 この世界にも生まれつき魔力の乏しい人間がいるにはいるが、サヤのそれはあまりにひどい。この程度の力ではいくら学んでも魔法を使うことは叶わないだろう。解き放った瞬間に、生きるため持っているべきすべてを使い果たして死にかねない。
 魔法のない世界に生まれ、一度も触れることなく育った人間の魔力は、彼女が誕生したその時より人知れず摩滅していくのか。ではそこに誰かが介入すればどうだろう。
 彼女の中に眠るものを増幅させてみようか。私の魔力を注ぎ込み、彼女が得るはずのなかったものを与えてみたい。その存在の世界までも変えてしまえばどれほど征服欲が満たされるだろうか。力を得たらサヤはどう使うのかと、ふと考える。
「魔法を使ってみたいか?」
「そーだね。水を集めてファイアで沸かしてどこでもお風呂とか……山で遭難したって飲み水にも困らないし。便利だもんね!」
 ……やはり、やめておいた方が良さそうだ。顔色一つ変えずに虐殺をくり返す様など想像したわけではないが、あまりにも生活に根差した使い方を提示され戸惑った。魔法とはそうして使うものではない……はずだ。

 価値観が揺るがされるようで戸惑いが困惑へと変わる。私に与えた衝撃に気づきもせず彼女は足を投げ出して寛ぎ、自分の隣を指して首を傾げた。
「ところで、座らないの?」
「何故だ」
「なぜって。立ってたら疲れるでしょ」
 そういえば、そもそも私達は休息のために来たのだった。私達と言っても休息を欲していたのはあちらだけだが。
 ここで特にすることもなく、さほど疲れが溜まっているでもなく。サヤの服が乾くまで立ち続けるぐらいは苦にもならなかった。そうだ。むしろ座ってしまう方が私にはつらいんだ。
「……地面に座り込むと、起き上がるのが難儀だからな」
 重々しく吐いた私を見つめながらサヤは一瞬ぽかんと口を開け、ついで声もなく笑い始めた。俯いて肩を震わせ、腹を押さえて全身を痙攣させる。震えは次第に大きくなり苦しそうな息が漏れ出た。大仰に笑っては悪いと考えているらしい気遣いが余計に腹立たしかった。
「そ、それっくらい手伝ってあげるのに! あははははは」
「お前の力では難しい。それと、笑うな」
 憮然として、というよりは威圧するつもりで声を出したのだが、なぜか彼女の笑いは余計に激しくなった。起き上がれぬ私の姿を想像しているのかもしれない。
 この重い甲冑を着込んだまま立ち尽くしているのは確かに疲れるが、椅子があるならともかく地面に直接座り込めば途方もない負荷がかかるのだ。何も私が特別非力なわけではなく当然のこととして座らずにいるんだ。大体、立ち上がるためにサヤの手を借りる姿などみっともなくて思い描きたくもない。なぜ言い訳ばかり考えているのだろう。

 笑い転げたことで体が温まったのか、草の上に四肢を放り出していたサヤはひょいと起き上がると、外套を羽織ったままうろうろと歩きまわり始めた。遠慮ない眼差しが注がれる。どうやら私を観察しているらしい。
「なんか、マントとるとバランス悪くて面白いね」
「不満なら返してくれ」
「やだ寒い」
 居心地の悪さをごまかすように手を伸ばせば、こんな時だけ身軽な彼女は苦もなくすり抜けてゆく。伸ばした右手の側から私の背後に回り込んだ。
「背中こんな風になってたんだー」
「じっとしていろ、服が乾かないだろう」
 所在なさそうに揺れる炎は今、私の足元だけをゆるやかに暖めている。落ち着きなく動き回る彼女の髪からはまだ水が滴っていた。
 サヤの視線を感じるたびになぜか逃げ出したくなった。後ろから前からと一通り眺めて満足げな顔をした彼女が、再び背後に回り込む。振り返ろうとした私を制して背を押さえた。
「ゴルベーザ、あのね。気をつけて」
「何を……?」
「ムゥン!」
「ッ!?」
 妙に気の抜ける掛け声と共に膝から崩れ落ちた。背中から引きずられるように勢いよく倒れ込む。甲冑越しの衝撃が去ると、やけに嬉しそうなサヤが目に入り何が起きたのかをようやく察した。
「……ば、……馬鹿者! 危ないだろう!? 下敷きになったらどうするんだ!!」
「だから気をつけてね、って言ったじゃん」
「こんなにいきなりでどうやって気をつけろと……!」
 そもそも気をつけるべきなのはお前の方だ。私は転倒したところで傷一つも負わぬだろうが、この重量に押し潰されれば彼女の小さな体はただでは済むまい。
 くだらない悪戯を仕掛けられたことよりも、それが危険だということを認識していない態度に腹が立った。
「尻餅ついたまま怒っても情けないだけだよ」
 悪びれずに言い放つサヤを殴りつけたい衝動に駆られ、理性で踏み止まる。甲冑の重さゆえ容易に起き上がれなくてよかったのかもしれない。拘束するものがなければ力任せに叱っていただろうから。

 その鎧を脱がないのかと聞かれたことがある。私は「脱がない」とだけ答えたと思う。「なぜ?」とは聞かれなかった。もしも尋ねられたら何と答えただろう。私は、まだ答えを用意していなかった。
「ごめんね?」
「……悪いと思っていないな」
「うん!」
 無駄に元気よく返事をしてサヤが横に座り込んだ。暗色のマントが彼女の服から水を吸って、さらに黒く濁っている。とくに何も考えずに彼女の腰をつかんで火の前に降ろした。服が乾いたら、なるべく早く帰ろう。
 この辺りで出くわす程度の瑣末な敵なら座ったまま魔法でやり過ごすこともできる。まあ、傍目に格好がつかないのは確かだが。座っていたところで危険などないが、命を無防備にさらけ出しているという事実が不安を引き寄せた。
 自分に危害を加えるかもしれないものがどこかに存在するのに、気を張らずに休むというのが、どうにも落ち着かない。
「もっと気を抜かないとね」
「…………」
 困ってサヤの顔を見るが、彼女の目には揺れる火だけが映っていた。
 気の抜き方など私は分からない。これは私の欠陥なのだろうか。異世界より呼び寄せたこの娘はあまりに人間らしく、相対した自分の異常さを見せつけられる。それは私にとって必要な異常さだった。だから、気にしたことなどなかったのに。
「起きるときは手伝ってあげるね」
「要らぬ。このままデジョンを使えばいい」
「えー! なんのためにひざカックンしたと思ってんの!? 命懸けだったのに!」
「そんなことのために命を懸けるな……」
 欠陥なのだろうか。私の在り方が間違っていて、彼女のように生きるべきなのだろうか。そうでなくては生きていると言えないのではないか。己を計るために手元に置いた他人は、予想を遥かに超えて私とは違った。
 標になるよりもむしろ、サヤの存在が、意思が、私を揺るがしている。

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