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教師

 これもサヤのためなのだと自分に言い聞かせながら、やけに重く感じる書物を開き、眺める事すらせずに閉じた。何も見えないふりをして窓の外を窺う。
 カイナッツォが指で土を掘り、それを数秒見つめてサヤが何か呟いた。どうやら文字を教わっているようだ。答えを間違えると飛んでくるらしい鉄拳が何度も彼女を襲っている。……容赦がなさすぎる気がするが……傷になるほどの強さではない。殴られた方も涙目になりながら蹴り返しているし、まあいいだろう。
 彼女でさえ勉強しているのだからとまた決意を固めて書物を開き、やはり読み解く気になれずに中断する。一歩も進まない。これで何冊目だっただろうか。どうせ今回もまだ見つからない、永遠に見つかりはしないのだと呪いの言葉を散々吐いて、自身に嫌気がさす頃ようやく目を通す。やはり無かったと安堵して、そんな自分にまた苛立つ日々。

 異世界よりサヤを呼び出す術は見つかった。召喚魔法に似たそれは、すぐに私にも扱えるようになるだろう。問題は送り返す術だ。ゼムスはどこから見つけ出したのだろうか。もしかしたら自身で編み出したのかもしれない。こればかりはサヤに聞いてみても分かるまい。しかしどこかにそれが存在する以上……探せば見つかるのだ。探せば、いつか必ず見つかってしまう。
 ……探したくない。帰らなくともいいではないか。あれは何の為に文字を学んでいる? この世界に馴染む為ではないのか。こちらで生きようという意思の表れではないのか。……もう、帰る必要など……。
『なくしたわけじゃない。だから、帰りたい』
 帰りたい。いつかまた会えたら。私にも痛いほど覚えのある切実な思いは、今は彼女の帰るべき場所へ向けられている。そこから目を背けてまで縛りつけているのは私の身勝手さだ。胃の中から競り上がってくる苦いものを飲み込み、三度書物を開こうとする。……手が動かなかった。
 もういい。今日は駄目だと諦めて窓の外に集中する。手掛かりなどなければよかった。力を尽くしたが見つからなかったと、それで決着をつけられたなら、どちらにとっても。……馬鹿な。それでいいはずがない。

 カイナッツォが書いた文字にサヤが眉をひそめた。分からぬ言葉でもあったのだろう。しきりに首をひねるが答えが見つからないようだ。ここからは書かれた字が見えない。かつて私が教えたものでなければいいんだが。私が教えたものを忘れているとカイナッツォが怒るからな……。
 途中で立場が入れ代わる程なのだから自覚すべきだったのかもしれない。私は教えるのに向いていなかったのだと。どうも彼女に甘すぎたようだ。
 カイナッツォが教師の役を果たすようになって、サヤはどんどんこちらの文字を覚え始めた。彼女には背を押すだけではなく突き飛ばすぐらいの勢いがなければいけないらしい。
 私が何もしなくとも、いずれ自力で帰る方法を探り当てるのではないか。……そうなればまだ諦めもつく。

 難問に悩み疲れた生徒が教師に助けを求めた。カイナッツォが彼女の耳元に寄る。ちらと目が合ったような気がするが……。何事か囁くと、呆気にとられたような表情から一瞬で真っ赤になった。地面の文字とカイナッツォを見比べながら両手で頬を覆って何か叫んでいる。
 ……何を教えているんだ、何を! よからぬ事か! そういう教育はまだ早い。サヤに相手ができた時にその男が……いや、それでは遅いのか? ではしかるべき時に私が……私が教えてどうする。ならば早目に知っておいた方が……いや、駄目だ! とにかく私の前でそのような不埒な……許さぬ!!
「カイナッツォ……!」
「ぎゃああああ!」
「どうしました、ゴルベーザ様」
 転移して間近に現れた私に悲鳴をあげたのはサヤの方だった。大慌てで文字を掻き消し逃げ出そうとするのを、カイナッツォが襟を掴んで引き留める。……何故私が避けられねばならないんだろう。
「……サヤに教えるのは日常使う言葉だけでいい」
「いやいや、使えばいいんですよ。なあ?」
 問われたサヤが顔を真っ赤にしたまま私を見上げ、また顔を伏せる。日常で使うだと……そ、そんなことが許されていいのか? 誰に使う気なんだ。使うような相手がいると言うのか。私は聞いていないぞ!

「……」
 黙り込んだサヤが地面に指をつけた。ちょっと待ってくれ、私はまだ心の準備が……というか使わなくていい。覚えるな。むしろ忘れてくれ! カイナッツォ……なんということをしてくれたのだ。こうなっては元の世界の記憶ごと完膚なきまでに消し去るほかないのでは……ああ、なんと魅力的な事を思いついてしまうのか。
 待てサヤ、書くな、落ち着くんだ。
「…………な、」
「えっ……と……合ってる?」
「あー、合ってるぞ。下手くそだが」
「そっ、そこはいいじゃん!」
 たどたどしい指の軌跡に目が吸い寄せられた。何を教えた。誰に使う気なんだ。これを、こんな……私に?
『大好きです』
 反応を返せない私を見てサヤが居心地悪そうに座り直した。何故正座なんだ。しばし無言で見つめ合っていると、またも逃げようとした彼女をカイナッツォが捕まえて引き戻した。
「……カイナッツォ、済まなかったな……」
「は、はい?」
「って、わたしに反応ないわけ?」
 どう返せと言うのだろうか。どうやら私の心はカイナッツォよりも随分と汚れているようだ……。こんな事だから闇に付け入られたのだな……。

「……サヤ、次はこれを教えてもらえ」
「えっ、なにこれ長いよ! なんでこんないっぱい!?」
「あー……んじゃまあ、これ全部覚えるまで徹夜だなぁ」
「うぬぬぬ……」
「程々にな。無理してすぐに覚えなくともよい」
 ……ゆっくり覚えればいい。お前の帰る場所は私達の居る場所だ。それを心に刻み込む頃には、あちらに戻る方法を探しておいてやるとしよう。その覚悟で返答になるだろうか。

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