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ただいま

 文字を教えてほしいと訪ねてきたサヤの表情はあまり乗り気ではなかった。サヤは物覚えが悪かった。半端に得てしまった知識が邪魔をして新たな知識の吸収を阻害していた。まして人の世界との関わりも少ない身では、文字を使う必要性に駆られるわけでもなく自然と勉強への姿勢はやる気のないものになる。
 最初からこちらの言葉を理解し話せるように、文字も読めれば……そういった術を探すよう頼まれもしたが結局は見つからなかった。
「使わないと脳みそふやけちゃいそうだからさ〜」
 つまるところ、ただの暇潰しだ。文章を読めるように、とまではいかずとも簡単な単語を知れればそれでいい。
「でも使いすぎると萎んじゃうかも……」
 そして息抜きと称してなぜか私がサヤの世界の文字を教わるはめになったこともある。今や彼女が覚えたこちらの文字よりも多い気がするのだが。
「おはよう、こんにちは、さようなら。ちょっといいですか、お金がないんです、疲れました」
 ……使い所がない言葉ばかり多かったな。そもそも私がサヤの世界の文字を覚えてどうするんだ?
「おめでとう、ありがとう、ただいま」
 だが人に何かを教えられるのが嬉しいのか、サヤは終始上機嫌だった。それだけでもあの時間は無意味ではなかったと思える。

 今はまだ同朋とも呼べない老人に連れられて訪れた月の民の館は、サヤとともに時間を過ごしたゾットの塔に少し似ていた。機械化こそされていないが、装飾もなく石の壁ばかりが続く部屋は無機質で息苦しい。……どうせこれから眠りにつくのだから関係ない。ここで見る夢は穏やかなばかりではないだろうが、それも。
 スリープルームへの扉を開いたフースーヤが首を傾げる。肩越しに真っ白い部屋を覗き込むと、床に描かれた傷跡のような亀裂が目に入った。刻み付けるような赤い文様。円みを帯びた奇妙な形。それはサヤの世界の文字だった。
「おかえり」
 何度もサヤの口から聞いた言葉を、今は音もなく視線だけで受け止める。もう声を聞くこともできない。だが、サヤは確かに私の元にいたのだ。血のように強く鮮やかな色が胸の内に溶け込む。
 眠りについた私に、会いに来てくれるだろうか。例え悪夢でも構わない。夢の中でもう一度、ただいまと言わせてほしい。

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