誰かの世界に踏み入れた代償 | ナノ
ケータイを弄って名ばかりの定期報告をしていると、風に乗ってメロディーが聞こえてきた気がした。
思わずあたりを見渡してみるが、ここはグラウンド。音源らしい音源なんて敷地内の各所に設置されたスピーカーくらいしかない。
もう一度、今度は集中して耳を澄ませてみると、その音ははるか遠く、校舎の方からやってきているようだった。
音源は…多分、ピアノ。
ふと、一人の人物が頭に浮かんだ。
まさか、とは思いつつも幾分か興味を惹かれたので、ぱたんとケータイを閉じて歩き出した。
音だけを頼りに、無駄に広い校内を歩き回る。
本当にこの学校は広い。一応敷地全体の地図は頭には入っているが、いざ歩くとなるとなかなかの距離である。
曲が終わってしまうかもしれない、と気付けば無意識に歩くスピードを速めていた。
それに伴って次第に大きくなってくるピアノの音。
誰が弾いているかなんてわからないのに、頭の中ではアイツが弾いている姿しか想像できなかった。
そしてたどり着いた一つの教室。予想通り「音楽室」と書かれた扉。
音楽はまだ鳴りやまない。むしろ曲調はいっそうと激しさを増していた。クライマックスが近いのかもしれない。
なぜだか変に緊張して、一瞬扉を開けるのを躊躇った。
この扉の先が別世界に繋がっているような気がしたのだ。
だけど、しばらくすれば好奇心が勝って、極力音を立てぬようそっと扉を開けて部屋の中に身を滑り込ませていた。
入った瞬間に、すげぇ、と思わずこぼれた声は音にかき消された。
ピアノから紡がれる「音」によって。
部屋が、壁が、オレが、びりびりと揺れていた。
目では見えないはずなのに、確かにそれに触れている、そんな感覚だ。
しばらくは感じたことのない感覚に呆気にとられていたが、次第にその感覚に慣れてきて部屋を見回す余裕が出てきた。
いた。
想像した通りの人物だった。この位置からだと後姿しか確認できないが間違いない。
一心不乱に、叩きつけるように、弾いていた。
まるで何かに憑かれたかのように。もしくは何かを振り払うかのように。
よほど集中しているのか、オレが入ってきたことに気付いた様子はない。
それをいいことに、少しだけ移動してその横顔がよく見える位置に立った。
まるで壁画か何かの一部を切り取ったような光景だった。
その横顔も、ピアノも、窓から差し込む光も。
らしくないことを考えているうちにも、曲は着々と終盤へと向かう。
最後のひと音を紡ぎ終えて、そっと鍵盤から指が離れた。
それと同時に、オレ自身の身体の力が抜けた気がした。無意識に緊張していたらしい。
オレに気付くだろうか。
少しの期待を胸にその姿を眺めつづけたが、オレの意思に反して、ソイツはただぼーっと前を見つめていた。
一体何を思っているのだろう、と目を凝らして表情を窺っていると、不意につーっとその瞳から雫がこぼれた。
泣いている。
嗚咽を零すわけでも、泣き喚くわけでもなく、ただ静かに泣いていた。
綺麗だな、と思った。
そういうことには疎いオレだが、ただ純粋に綺麗だと、そう思った。
「はぁ…」
気付かれる前に、どうにか部屋を抜け出して、ようやく一息がつけた気がした。
いつもの自分なら、あの場で皮肉交じりの拍手をしたりして無理やりにでも気付かせていただろう。
でも、しなかった。いや、できなかった。
あの世界は無遠慮に自分が介入していいものではない。そんな気がしたから。
そして、考えもなしにその世界に踏み入れた時点で、自分にはなす術がなかったのだ。
行かなければよかったと思う。
いつもの、オレに食って掛かる、そしてすぐ泣くその姿だけ知ってれば十分だった。
こんなの何の役にも立たない。
それでも、少しだけ速くなってしまった鼓動を無視できそうにはなかった。
神童の名前が一度も出てこなかった
あ、剣城も出てないですね
挙句、会話らしい会話も皆無という
神童のピアノは普段は叩きつけるほど荒々しくはないと思います
どちらかというとソフトタッチ
でも、感情に影響を受けやすいとは思う
ピアノの知識なんてないので結構適当ですが雰囲気を感じ取ってもらえれば嬉しいです
剣城はほんの興味本位で音楽室に来ちゃったわけですが
神童のとても繊細な面を知ってしまったから、これからの対応にどうしようかなと迷ってる感じ
そこから発展する京(→)拓です