他の人と結婚する予定でしたがやっぱり彼が良いのです


目が覚めてまず視界に入るこの見慣れぬ天井への違和感は、あと何度この場所で過ごせば消え去るのだろう。





用意された朝食に一人静かに手をつける。私の私室として宛てがわれた部屋では他に誰一人もおらず、食事中の団欒などもない、ただ箸が食器にぶつかる音だけが部屋に響いていた。用意された食事はどれも美味しいと知覚はする。それでもあまり喉を通らず、どうしても箸の動きが緩慢となる。だが食が細くて子を産めるのかなど要らぬ横槍を入れられないよう、無理やり嚥下を繰り返した。

「ご馳走様でした。美味しかったです」

少しして給仕をしてくれた使用人の女性が食器を下ろしに来た。目の前でチャキチャキと片付けられていく食器から視線を上げ、彼女にそう伝えた。ただ一言、私にとっては飲食店でも当たり前にかける言葉を特に他意もなく彼女へ伝えただけだったが、その彼女はその年代に合わせて刻まれていた目尻の皺が伸びきるほど目を大きくしていた。そんな私に酷く驚いている彼女はどう対応すれば良いのか考えあぐんでいるようで、ただ小さく頷いただけ。私がこの家に馴染めるのはどうやらまだまだ先のことになりそうだ。
実際馴染む馴染まない以前の問題として、私は不用意に部屋から出歩くことを禁じられていた。この家に来て三日目。そもそも私の旦那様となられる御当主様にもまだ会えないでいた。会合か何かでこの本家を離れているそうだ。それなのに私がここにもう放り込まれているのは落ちこぼれを早く厄介払いしたい我が本家が上手いことここの人を唆したから。
でも結局跡継ぎを産むだけのために来た私は御当主様が帰ってこないことにはどうすることも出来ず、ほぼ軟禁状態で過ごしていた。この屋敷の人と会えるのは食事の用意をして貰っている時と御手洗やお風呂に行く時にすれ違う時だけだ。無遠慮に刺さる視線がじりじりと心をすり減らしてくる。まだ私は受け入れられていない。まだここでの私の存在意義は確定していないから。

先程会話を掛け合うことを拒否されたことで彼女が後片付けをしている間の手持ち無沙汰な私が膝の上で両手の指を絡ませていると、堅苦しい敬称付きで名を呼ばれ、彼女へと視線を戻した。

「本日旦那様が戻ってこられます。十時頃を予定しておりますので、それまでにご準備を」
「! 分かりました」

彼女は私と目も合わさず事務的に淡々とそう告げた。ついに御当主様にお目通りが叶うらしい。その場での私の立ち振る舞いが今後の命運を左右する大事な要素となり得る。気を引き締めてかからなければ。気合を入れるようにテーブルの下で両手を握りしめた。



身嗜みも整え終わり、準備を完了させた私は今日も暇を持て余していた。私がここに持ち込んだものは少なく、時間を潰すものが何もない。お気に入りの漫画も今は読む気も起きなかった。
ここに来る時、本や小物、洋服ま必要最低限の物を除いて殆ど処分した。私の手元にあった物にはどれも彼との思い出が詰まっていたから。彼に貰った物だとか彼とのデートで着ていた服だとか。どれもが大切だったけれど……手元にあるとそれに縋ってしまいそうになるから。

実家に呼び出された日、夜蛾学長にだけはすぐに会いに行って話をした。縁談を受けること、呪術師を辞めること。それから皆には、特に彼には何も伝えないで欲しいということも。一方的な私の話を黙って聞いていた学長は、そうかと一言応えただけだったがその瞳はサングラスの奥で少し揺らいでいるように見えた。心配をかけてしまって申し訳ない。
周りに気付かれないように準備を整えながらこちらに移ってくるまでは通常通り任務をこなし、仲間達にも接していたけどそろそろ彼が出張から帰ってくる頃だ。そうなれば流石に私がいなくなったことに気が付くだろう。彼はどう思うのだろうか。

「あーあ……嫌われたくはないなあ」

どの口がそんなことを言ってるんだろう。身勝手な思いだけど、どうかそのまま私のことなんて忘れて欲しい。
瞳から何かが零れそうになって天を仰いだところで部屋にノックの音が響いた。

「旦那様が戻られました。ご案内致します」



案内された応接室らしき部屋で落ち着きなく革張りのソファに何度も座り直す。そわそわと何時間にも感じられるような数分間を過ごしていると部屋へと近付いてくる足音に気付き、慌てて立ち上がって姿勢を正した。
すっと開かれた扉の向こうにスーツ姿の男性が現れた。歳は私より少し上だろうこの人が御当主様……。付き添いで付いてきた使用人を下がらせ、部屋には私と彼の二人だけになった。
鋭い目付きで値踏みするような視線を正面から迎えることも出来ず、ひたすらに彼のネクタイを見つめていると足を組み直した彼から初めて言葉が発せられた。

「自分の立場は理解しているだろう? 求められること以外は何もするな」
「――はい」

少し、ほんの少しだけ期待をしていた。もしかしたら彼も私と同じで一族に囚われた人生を送ってきた悲劇の人ではないかと。先妻のことも彼の望んだ結果ではなかったのではないかと。そうであったならばまだ少しは夫婦として上手くやっていけるのではないかと思っていたが、そんな儚い期待は早々に打ち砕かれた。彼もやはり腐りきった術師家系の御当主様だった。
そんな彼と私は夫婦になり、そして子を産む。愛のない二人の間に産まれる子の未来を想像して心が痛んだ。それ以前に私はその子を愛してあげられるのだろうか。我が子を慈しむことも出来ない母親になんてなりたくはないのに。

――これが悟とだったなら。

「(駄目……)」

駄目だ、捨てろ。こんな思いは。ゴミ袋に詰め込んだあの思い出達のように。

「!」

突然、本当になんの前触れもなく私と彼の間を何かが風を切って横切っていった。呪霊による襲撃かと私と彼は立ち上がり、臨戦態勢を取って吹き飛んできた方向を睨みつけた。

「はい、どーも」
「……は、悟?」

そこにいたのは片脚を蹴り上げていた悟だった。枠組だけになり、やけに見通しの良くなった様子に吹き飛んだのはこの部屋の扉だということは理解したが、突然現れた最強呪術師に私も御当主様も呆気に取られて動けないでいた。

「悪いけど嫁が欲しいなら他を探してくれる? こいつだけは駄目」

どすどすという音が聞こえてきそうな程の圧と勢いで近付いてきた彼に脇で荷物を抱えられるように持ち上げられた。下から見上げた彼はアイマスクをしていても怖い表情をしていることが分かる。

「五条……何しに来た」
「君も知らされてなかっただろうから今引くならこれで許してやるよ。こいつは僕のだから。文句はこいつの“元”実家に直接言って」

有無を言わさぬ口調に御当主様も口を噤む。わざわざ五条悟の敵になる選択をする輩なんていないだろう。弱者は強者に取り入らなければ生きてはいけないから。



あれよあれよという間に屋敷から連れ出され、辿り着いたのはどこだか分からないが京都の趣ある散策路。脇に抱えられたまま絶叫マシン並みのスピードで屋根から屋根へと飛んでいる時は生きた心地がしなかった。そしてこの散策路に設置されたベンチに腰掛けた今も隣から突き刺さるプレッシャーに耐えられそうになかった。

「僕さ、めっちゃくちゃ怒ってんだよね」
「……はい」

長い足を組み、その膝に肘をついた彼の隣で私は縮こまった。

「よく僕の目を欺けると思ったよね。お前がこんな奇行に走る原因なんて家のことだけだろうから、ちょっと行って小突いたらすぐボロボロ話してくれたよ」
「仰る通りです……」
「僕があいつらになんかされて負けると思ってたの? 硝子達だって片手で対処出来るよ」
「それは……思ってないけど防げる面倒事は防ぐに越したことはないでしょ」

膝の上の手を握りしめる。その手は笑えるほど白く血色を失い、震えていた。

「悟の邪魔にだけはなりたくなかった。夢を叶えるための妨げにはなりたくなかった」
「まずそこが間違ってんだよね。僕の夢の実現にはお前も必要なんだけど」
「大して強くもない私がいたって……」
「まあ、そうね」
「……」
「冗談だって」

すっと頬の表面を撫でる感触に顔を上げる。伸びてきた彼の指が数度私の頬を往復した。

「僕だってさ、嫌になる時ぐらいあるんだよね。投げ出したくなる時もある。そういう時に誰が僕を癒してくれるの」
「……甘い物とか?」
「誰がっつってんでしょ。お前だよ」

ぎゅっと容赦なく頬を抓る指の痛みで全身が跳ねた。

「僕の隣でへらへら笑ってりゃいいの。恋人でしょ」
「……こいびと」
「なに、まさかそこの認識からズレてんの? この十年何だったの」

更に強くなる指の力に思わず両手で彼の腕を掴む。これ以上はちぎれる! 絶対にちぎれる! 掴んだ両手と必死に訴えかけた視線にようやく彼の指が離れていく。解放された私は零れるようにぽつりぽつりと知らぬ間に溜めていた思いを吐き出した。

「私は悟が好き、悟も私を好きでいてくれているっていうのも知ってる。でも最近の私達ってさ、仲間というか同志というか……恋愛より親愛の方が勝ってる時の方が多いというか……もう恋人っていう関係じゃなくてもいいんじゃないかもしれないって」
「……やっぱりお前って肝心なことは何も言わないよね」
「え?」
「まあ、それは僕もか」

はあと大きく溜め息をついた彼はアイマスクを下げて直接その瞳で私を捕える。

「僕は先のことも考えてたんだけど」
「先?」
「恋人のその先。結婚して夫婦になるってこと」

結婚。この十年、一度も彼の口からは聞いたことなかった単語が今私の耳に届いた。

「何年も前から考えてたよ。でもほら、お前の家ってまさに中の中ぐらいの家でしょ? 上が認めないって煩くてさ」
「――」
「わざわざお前を老いぼれ達の虐めにあわせなくてもと思って黙ってたし、その現状に甘んじてた。でももう良いよね? 僕がお前を守るし」

「だから完全にお前が実家と縁を切って、その元実家に五条家は一切の援助も関わりも持たないって条件で認めさせたよ。まあちょっと無理やり」
「は……縁を、切る? え?」
「あんな家に未練なんてある?」
「いや……それはない」
「でしょ?」

再度伸びてきた腕がするりと後頭部を撫で、私と彼の距離を縮める。こつんと額が触れる距離。視界には私の大好きな彼の瞳。

「お前用に買ってきた北海道土産食べに帰ってくるついでに、僕のお嫁さんにならない?」

折角久し振りに見えた彼の瞳が歪んでいく。私ってこんなに泣き虫だったのかとここ数日で思い知らされた。

「私、なんかで良いの?」
「良いよ。僕のお嫁さんの条件はお前であることってだけだから」
「物好き」
「知ってる」
「……悟、」

伝えようとした大好きという言葉は声になる前に彼に飲み込まれる。お互いに秘めていた思いを確かめ合うように、私達は何度も何度もまだ足りないと唇を重ね合わせた。








「じゃあ折角こんな所まで来たんだし、婚前旅行ってことでこのまま京都観光行っちゃう?」
「――うん」

彼はぴんと片方の人差し指を立て、もう片方は私の手を掬いあげる。重なり合った手がもう離れてしまわないよう、私はその手をぎゅっと握りしめた。



2021.01.11
2021.04.08


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