彼の邪魔はしたくないので他の人と結婚をすることにしました


フライパンを持つ手元の影が広がった。その影が落とされた原因を見上げるとその視線は私ではなくフライパンの中に注がれていた。

「今日のご飯なに?」
「生姜焼き」
「ふーん」
「なに、気分じゃなかった?」
「ううん。お前のやつ、甘めで好きだよ」
「あっそ」
「ちょっと喜んだでしょ?」
「そんなこと言ってる暇があるなら食器でも出して準備して」
「はいはーい」

可笑しそうに笑いながらも彼は大人しく言われた通りに食器棚から必要な物を取り出していく。私も再び視線を手元に戻した。
そうしてやっと完成した今日の晩御飯を二人で静かに食べる。調理途中、何度もちょっかいをかけてくる彼のせいで少し目を離してしまったけれど味は特に問題なさそうだ。彼も何も言わずに黙々と食べている。

「あ、そうだ。今日お風呂に入浴剤入れても良い? 友達に貰ったんだよね」

ふと今日の休みを一緒に過ごした友人からお裾分けされたその存在を思い出した。

「良いけど」
「なんか香りの残りやすいものでジャスミンの香りだって」
「マジ? それ明日、五条先生から良い香りがするって言われるやつじゃん」
「ぶふっ」
「こーら、笑うな」

とんと彼は爪先で私の脚を軽くつついた。いや、笑うでしょ。花の香りのする彼の姿を想像して口の端から笑いが零れる。

「ごほっ……待ってご飯がっ、変な所、入った……えほっ」
「もう、なにやってんの」

咳き込みながら何とか差し出された私のコップを受け取り、お茶を喉へと流していく。彼はそんな私を見て終始呆れ顔だった。




「悟、お風呂空いたよ」

リビングでテレビを見ている彼を後ろから覗き込む。そしてその手に握られている物に思わず目を見開いた。

「あ、最後のプリン!」
「買ってきたの僕だから良いでしょ」
「それ言われたら何も言えないじゃんかあ」
「また出張土産に買ってきてあげるからさ」

最後の一口を口に含み、立ち上がった彼にそういえばと声をかける。

「そうだ、悟。お風呂、想像以上に香り強いよ。ゴージャスって感じの香りだった」
「絶対それ明日突っ込まれるやつじゃん」
「ふっ、絶対言われるやつだった……くっ、ふふ」
「まだ笑うの」

彼がお風呂から出てきた時に笑いを堪えられる自信がないな、これは。彼は未だ笑いこける私の頭をぐしゃっと混ぜてからお風呂へ向かっていった。

彼を見送り、寝室へ来た私はベッドで枕に体を預けなからスマホに齧り付く。画面に表示されているのは最近私がハマっている漫画だ。夢中で画面を注視しているとかちゃりと寝室の扉が開く。

「やばい。絶対今僕の後ろに花の背景とかあるでしょ」
「ひー、待ってやめて絶対この後お腹痛くなる」

思わず彼の言う通りに花柄の背景を想像してしまってお腹が引き攣るほどに笑っていると、ベッドに蹲っていた私の後頭部に彼の鋭い手刀が落ちてきた。

「!! 絶対私の頭、二つに割れてる……」
「そんなわけないでしょ」

彼が隣に座ると二人分の体重を乗せたベッドがぎしりと音を立てて沈んだ。

「そういえば、そっちの明日の予定は?」
「私は昼から仕事が一件。場所も近いからそんなに急がないかな」
「そう。僕は明日一日高専だから」
「分かった。もう寝るの?」
「ん、僕はね。お前は?」
「私はもうちょっとしてからにする」

痛む後頭部を押さえながら体を起こす。そして手にしていたスマホを軽く振り、彼に示した。
「今良いところなんだよね。誠君が遂に自分の気持ちを自覚するの」
「ああ、最近ハマってるっていう恋愛漫画? 好きだね、そういうの」
「良いでしょ、別に。私はこれ読み終わってから寝るから」
「はいはい、じゃあ先寝る」

そのまま布団の中に潜り込んだ彼は数分の内に寝息を立て始めた。そういえば昨日は遅くまで仕事だったもんね。
目にかかっていた彼の前髪をそっと触れながら流す。適当に乾かしているだけのくせになんなんだ、このさら艶髪は。

彼、五条悟と私は高専からの同級生だった。高校卒業後もお互い術師として仕事を続けた。と言っても私はしがない二級術師で彼とは比べ物にならないけれど。
そしてそんな彼と付き合い初めてもう十年にもなろうとしていた。よくもまあこんなに長続きするだなんて誰が思っただろう。

「さて私も寝るかな」

そっと彼を起こさないよう注意しながら私も布団の中へと潜る。するとふわっと芳しい香りがした。ああ、やっぱりこれは生徒達から笑われるだろうな。くすりと一つ笑って私も瞼を落とした。





帳が開け、差し込んできた陽射しに思わず目が眩む。高専への任務完了の一報も終え、本日の任務は無事終了した。
この後の予定として、まずは夕飯の買い物に。昨日のおかずの生姜焼きは多めに作っていたのに気が付けば彼がぺろりと食べてしまっていてもう残っていないし、さて今日は何を作ろうか。

「あ、冷蔵庫に何が残ってるのか見てくるの忘れた」

仕方がない。献立はスーパーに行ってから考えよう。それに今から買い物をしてもまだ時間は十分にある。そういえばこの間二人で見ていた番組で特集されていた店がこの近くではなかっただろうか。スーパーの前にそこに立ち寄るのも良いかもしれない。人気だというドーナツがまだ残っているといいけれど。
残りの自由時間に思いを馳せていたが、鳴り響いた着信音に現実に引き戻される。

「げっ……」

ポケットから取り出したスマホに表示されていたのは実家の番号だった。




タクシーから降り、目の前にそびえ立つ無駄に大きい数寄屋門を仰ぎ見る。
我が家はまだまだ歴史の浅い、数代続いているだけの術師一族だ。そこそこの大きさの家にそこそこ重なった歴史、全てにおいてそこそこな一族。過去には優秀な術師を排出した代もあったようだが細々と続いているだけ。それこそ御三家に比べれば数段劣る。
そんな生家が私は嫌いだった。

出迎えてくれた使用人の女性に頭を下げる。直系で長子のくせに滅多に家に帰ってこない身としては日々雑務を引き受けてくれている彼女達には頭が上がらない。

「失礼します」

機嫌を損ねないよう、なるべく静かに礼儀正しく襖を開く。開いてすぐに目に入った父の厳しい表情にそれも無駄に終わりそうだった。
父を前にすると息が詰まる。幼い頃から私に向けられる視線はいつも鋭い。そしてここ数年の父からの用件はいつも決まっていた。

「五条とはどうなっている」
「どうもなにも順調にお付き合いさせて頂いております」

ああ、またこれか。思わず舌を鳴らそうとしてしまい、父に気付かれぬようそれを飲み込んだ。
高専時代、実家には一言も告げていないのに知らぬ間に私と彼が交際を始めたことが知れ渡っていた。その事実に親族は皆喜んだ、あの五条と縁を結べると。後にも先にも私が父に褒められたのは唯一その時ではなかろうか。

「どこをどうとって順調と言えるのだ。いつまでも籍を入れずふらふらと」

未だ恋人という枠から出ない私達に親族がついに痺れを切らしたのは三年程前から。いつになったら五条家に入り込めるのか、我が一族に五条の血を取り込めるのかとそればかり。私達のような立場の弱い者は強者に取り入らなければ生きてはいけないから。
元々父は私に家督を継がせる気はなく、次代には私の弟がなる予定だった。所詮私のことはいざという時に政略結婚にでも使って他の術師一族との橋渡しの道具にでもしようとしか考えていない。

「それは……」
「やはりお前に期待していたのが間違いだった」

嘘をつけ。期待なんてこれっぽっちもしていなかったくせに、今も今までも。

「惜しいが五条の血は諦めよう」
「は、」
「お前はその程度の女としか思われていないということだ」
「――」
「お前には縁談をつけてきた。京都に本家のある一族だ。五条には劣るが、それでも古い歴史を持つ」

「このままいつまでも五条家に入り込めないなら、まだ子の産める歳の内に有力な家に嫁に出す方が利になる」
「五条にせめて婚約の話を出させるか、京都へ嫁に出るか。大した才能もないお前の道はこのどちらかだ。拒否しようなどと思うなよ。そうすればどうなるかお前はよく知っているだろう?」




そこからどうしたのか覚えていない。気が付けば自宅にいた。身軽な自分の姿に買い物には寄らず、そのまま帰ってきたことは思い出した。
そこから徐々に父と交した会話の記憶が蘇ってくる。

「縁談……」

父から聞かされた相手の性には聞き覚えがあった。京都でも有数の名家。そこよりも格下のうちからしたら縁談の話が纏まったのは願ってもないことだろう。
父の部屋から玄関までの道すがら、遠巻きに私を見ながら皆がこそこと話していた。話に夢中になり、内容が全て私にまで聞こえていたことに気付いていないのだろうな。

どうやらそこのご当主には先妻がいたそうな。ただその妻との間には優秀な子が産まれず、次の世継ぎを産むための女を探していたところを父が目をつけ、話を持ちかけたそうだ。先妻が“いた”という言い回しにその女性がどのような扱いを受けたのか、今“どこ”にいるのかは容易に想像出来た。私も望まれただけの跡継ぎを産めなかった場合は同じ運命を辿るのだろう。
うちとそっくりだな。自分達の思い通りにならないもの、価値のないもの、害をなすものと判断したものは排除するというところは。

――昔、私にはとても仲の良い親戚の女性がいた。四つ上の彼女を姉のように慕っていた。そんな彼女が突然姿を消したのはもう何年前のことだっただろう。屋敷の者は誰も彼女の所在について話してはくれなかった。でもうちの人はお喋りが大好き。彼女が消えた理由は勝手に耳に入ってきた。
彼女は私と違って将来を期待されていた優秀な人だった。だが一般の男性と恋に落ち、元々嫌気のさしていたこの世界から抜けたいと言い出した。そんな言い分認められるはずもなく、それでも抗う彼女を追い詰めるためにうちの一族が手を出したのは彼女本人ではなく彼女の恋人だった。それから友人に、唯一彼女の味方だったという母まで。無惨な姿になった最愛の人達の姿を見て彼女は何を思ったのだろう。完全に孤立した彼女は自らの命を手放した。
そんな話を平然と、しかも彼女を貶めるような言い方で話す屋敷の者に恐怖を抱いた。世の中に蔓延る呪い達より人間の方がよっぽど醜悪ではないか。

結婚を、考えないではなかった。だってもう十年、恋人になる前も含めれば更に長い時間を一緒に過ごしてきたのだから。ただ周りにも独り身の者は多かったし、今の関係に別に不満はなかった。それが私達の関係の形だったから。時間が合えばデートもしたし、人並みにキスもセックスもしていた。付き合い始めのように恥ずかしくなるような甘い時間は減っていたかもしれないが、それでもお互いを尊重していたはずだった。
……それが逆にいけなかったのだろうか。もしかしたら私達は長く同じ関係でいすぎて悪い意味で恋人という枠を通り過ぎていたのかもしれない。

私から結婚の話題を出したことはなかった。どうしてもその話題には実家のことが頭をチラついてしまう。結婚したいのは父にそう言いつけられたからだと。勿論彼はそんなことを思わないだろうけど、私が納得出来そうになかった。
彼から結婚の話題が出たこともなかった。私の家以上に血や能力の継承に重きを置く御三家にとっては当人だけの問題ではないだろう。呪術界のパワーバランスへの影響も計り知れない。それにどうしたって彼の嫌いな上層部が絡んでくる。それに彼には夢があった、どうしても叶えたい夢が。そのために今は余計ないざこざを起こす暇なんて、時間を割いている暇なんてない。
言い方は悪いが、お互いにとってこれまでの状態は都合が良かったのかもしれない。私たちの間には確かに愛があったはずなのに、現実は恋愛漫画のようには上手くはいかないもんだな。



「そういえば今日良い香りするとか何か言われた?」
「めっちゃ笑われた」
「やっぱり」

そう言うと彼は少しむくれた顔で有り合わせで何とか作った野菜炒めを頬張った。

「ああ、そういえば急だけど明日から出張になったよ」
「あれ、そうなの? 今回は何処に何日くらい?」
「今回は北海道だって。一週間ぐらいだと思う」
「え、だったら飛行機じゃん。朝早い?」
「うん。まあ自分で起きるし、お前はいつもの時間まで寝てていいよ」
「そっか。気を付けてね」

野菜炒めに伸びていた彼の手が止まる。ちらりとこちらに向けられた瞳は訝しげだった。

「なあ、なんかあった?」

普段は隠されている独特な色合いの瞳を見るのが好きだった。見ていたくないと思ったのは今が初めてだった。

「ううん、何もないよ」

私はどうなっても良い。でも彼や友人には迷惑なんてかけたくはない。あの環境を今まで乗り越えてこられたのは彼等がいたからだ。勿論みんな強くて逞しくてうちの人に何かされたってなんてことはないだろう。けれど面倒事はないに越したことはない。こうするのが一番丸く収まるのだと痛む胸に言い聞かせる。早く行動に移さなければ――私の決心が鈍る前に。

さようなら、悟。私のせいで貴方の邪魔なんてしたくはないから。






一週間の出張から帰ったら彼女が消えていた。そんな漫画や映画みたいな状況が今現実に起きている。昨日まで普段通り連絡が取れていた番号には繋がらなくなっていた。恐らくメールも彼女の元へは届かないだろう。
家にあったあいつに関するもの全てが綺麗さっぱりと、何のひとつも残っていなかった。連絡は取れていたが彼女がここから出ていったのは昨日のことではないだろう。そんな短時間では痕跡を消せないほど、ここには彼女の物と思い出があった。何年、一緒に過ごしていたと思っている。

ただ残っていたのは一つの手紙だけ。封もされていない宛名のない手紙だが、送り相手は間違いなく僕だ。
手紙には大したことは書かれていなかった。このマンションで来週電気工事があるから停電する時間があると連絡があっただとか、自分が持っていた合鍵はポストにでも入れておこうと思ったが万が一があってはいけないからと学長に預けているだとか。そんな、どうでもいいことしか書かれていない。彼女に関することは何も書かれていなかった。

何故あの時もっと気に留めなかったのか。おかしい点はいくつかあっただろう。いつもより笑顔が少なかっただとか、出張の時にはいつもお土産を強請る彼女が今回に限って何も言わなかっただとか。
その様子に少し気にはなったが、帰ってからいくらでも話を出来ると思っていた。帰ってくれば彼女が当たり前に出迎えてくれると疑わなかった。

スマホの画面に指を滑らせ、電話帳を開く。確実に事情を知っているだろう学長を問い詰めても、どうせあの人は口を割らないだろう。一縷の望みをかけ、あいつの一番の友達だった一頁目に表示されている名前をタップした。

「どうした」
「硝子、あいつがいなくなった。どこ行ったか知ってる?」
「は?」
「連絡もつかない、家にもいない」
「二日前には普通に連絡出来たぞ……直接会ってはいないが」
「僕だって昨日までは連絡ついてたさ」
「……探すのか?」
「当たり前だろ」
「あの子がそれを望んでいないとしてもか」
「そうだよ」

「あいつはいつもずけずけものを言うくせに肝心なことは何も言わない……僕も、それを知ってたのに何も聞かなかった」
「それじゃあ僕も納得出来ないし、あいつにそれを納得されるのもムカつく」

ぐしゃりと手の中の手紙が音を立てた。

なあ、僕を誰だと思ってんの。一番近くでいたお前は知ってんでしょ? 絶対お前のこと連れ戻すからから待ってろよ。



2021.01.01
2021.04.08


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