それは例えばありふれた恋愛小説のような
「侑士っ。何読んでんの」
侑士は顔を上げて俺を見た。
俺はその隣に腰を下ろす。
「本」
「…それは見たら分かる」
侑士は、本の中表紙を見せてくれた。
極めて簡潔なその題名から内容を推測するのは、俺の想像力では困難だった。
「…これ、何?」
「本」
「…あのなぁ」
溜息混じりに言うと、侑士は楽しそうにくすくすと笑って言い直した。
「恋愛小説」
「…あぁ」
納得。
よく見ると、その作家の名前には見覚えがあった。
侑士がお気に入りだと言っていた女性作家で、前に一度短編集を借りて読んだ。
でも、その内容は生クリームみたいに甘ったるくて、読んでる方が恥ずかしくなって、三篇ほどなんとか読み進めたが挫折した。
元々小説なんかそれほど読まないし。
俺がそれまでしか読めなかった理由のもう一つとしては、
その中に…なんというか、大人向けのような話があったからだ。
露骨な描写はなかったけど、それらしい単語や文を見つけると、勝手に頬が熱くなってしまう。
考えてみると、時折自分達のしていることと大差はないのに。
他人の体を知ってはいても、心が幼い自分に苦笑する。
どこかの本屋の名前がプリントされたカバーのかかった文庫本は、先日買ったものだという。
「新刊やねん。発売日に走って買いに行った」
「へぇ…」
栞がはさんであるところは、半分よりも少し後のほうだった。
侑士が本をしまおうとしたので、俺はそれを引き止めた。
「いいって。続き気になんだろ?」
「せやけど…」
続き読みたいー、って顔に書いてあるぞ。
「岳人、退屈やろ?」
「全然。だって―…」
言いかけてやめる。
そのかわりに、にやっと笑ってみせた。
「なんやねん」
「ひみつー」
気になるわ、なんて呟きながら、侑士は読書に戻った。
…退屈なんてしない。
だって侑士観察してるの楽しいし。
俺は侑士をじっと見ているのが好きだ。
侑士を独り占めしているような気になれる。
時々、俺の視線に気付いて優しく笑いかけてくれたり、頭を撫でてくれたり、たまにおでこや頬にキスしてきたり、そういうのも嬉しくて好きだ。
ぱらり。軽やかにページを繰る音がする。
侑士の脳裏に刻まれている物語にさほど興味はなかったけれど、少し紙面に目を落としてみる。
どうやら、主人公らしき女性が、涙ながらに愛の告白をまくしたてているシーンらしかった。
それに対し、相手の男の歯の浮くような台詞も見える。
ほんとに、歯が体ごと浮いて宇宙空間まで行きそうだな。
読んでるだけで寒気がしてきたので、本から目を上げて再び侑士を見つめる。
長い睫毛が動いて瞬きする。
周りで、小学生が遊んでいる声がする。
それ以外にここに人はあまりいないけれど、他人から見ると、黙々と恋愛小説を読む男と、それを凝視する男の姿はさぞかし奇妙に映ることだろう。
恋人と過ごす静かな時間は、確かに好きだ。
けど、じっとしてるのは性に合わない。
自分で「読んでていい」って言ったくせに、しばらくすると飽きてかまって欲しくなる。
侑士はそれをちゃんとわかっている。
俺が少しだけ体を寄せると、すぐに気付いて頭を撫で、おでこに唇をつけてきた。
「飽きたんやろ」
「ん…眠い」
しゃあない子や、なんて言いながら侑士は苦笑する。
栞をはさんで閉じた本を鞄にしまって侑士は言った。
「帰ろか」
「…うん」
帰り道は、俺から手を繋いだ。
冷たい風に体温を奪われた侑士の手を軽く握ると、侑士はしっかりと指を絡めてきた。
「岳人、手あったかいなぁ」
「侑士がつめたいんだろ」
暫く歩いたところで、あまり人気のない道に出た。
そこで侑士が急に立ち止まった。
刃物みたいに痛い冷気が頬を切る。
「侑士?…っ、ん」
凍るような風の中で、唇だけがやけにあたたかい。
ただ、互いに暖めあうような、穏やかで長いキスだった。
唇がはなれるのを名残惜しく感じる。
俺の頬が赤くなっているのは、冬の風のせいだけじゃない。
その頬を、侑士の長い指が撫でる。
妙にくすぐったくて、目を閉じた。
またすぐに、やわらかい口づけが降ってくる。
今度は、さっきよりも少し短かった。
唇が離れたとき、俺らの間を風が走り抜けていった。
「…寒い」
「せやなぁ」
二人で顔を見合わせてくすくすと笑う。
繋いだ手を、楽しそうな子供がするみたいに軽く揺らして歩き出す。
…帰ったら、侑士に抱きついて寝てしまおう。
侑士はちょっと困ったように笑って、それでもぎゅっと抱きしめてくれるだろう。
それで、きっと、
幸せな夢が見られる。
―――――
だいぶ昔に書いたものですが読み返して加筆修正するのはなかなかの羞恥プレイでした。
[*prev] [next#]
[back]