家から自転車で30分。大好きな場所に一番乗りするために、私は今日も朝から全速力でペダルを回している。 Scene1 おはよう 部室の鍵を持っているのは監督と、マネージャーである私だけだ。お前も持っていろ、と監督に渡され、寿一にも承諾してもらった。 信頼されているのは嬉しいことだと思う。それと同時に責任も感じて、鍵を見るたび、背筋が伸びる。 部室脇にサーヴェロを停め、鞄から鍵を取り出す。交通安全のお守りを付けた鍵は、荒北に「女子力の欠片も無ェな」と一蹴されたことがある。 「おはようございまーす」 誰も居なくても挨拶をする。今日も一日お世話になります、と、私の大好きな場所である部室に、想いを込めて。 ベンチの端に荷物を置いて、部室の窓をすべて開け放ち、空気を入れ替える。いい天気だ、風も気持ちいい。 朝練はローラーが中心だ。前に進まないから風が無い。室内に熱気がこもればこもるほど、大量に汗をかく。想像以上に身体に堪える練習だ。 だから、少しでも風が取り入れられるのはありがたい。本当は朝練でも外周に出られればいいんだけど、短時間だからそうもいかない。 「さて、準備しますか」 3年もマネージャーをやっていると、仕事をこなすのも早くなってきた。動きが身体に染み付いてしまっている。 練習部屋に移動し、部室と同じように窓を全部開け放つ。部室から持って来た箒で手早く掃除したら、備品の用意をする。 一通りの物が準備出来たら、箒を戻しに行くついでに部誌に練習メニューを書き写すのが一連の流れ。 箒を戻しに行こうと練習部屋を出たところで、賑やかな声が響く。声ですぐにわかる、荒北と東堂だ。ということは、隼人と寿一も居るのだろう。 開けっ放しになっている部室の扉からひょこりと顔を覗かせると、一番に目が合ったのは隼人だった。 「おはよう、唯。着替え中じゃないから入っていいぜ」 「着替えてるのにドア開けっぱとか、変態でしょう……。おはよ」 「おはよう、今日も早いな、新名!」 「おはよう、東堂」 「はよー」 「おはよ、荒北。あ、」 私が持っていた箒を、荒北がするりと奪って行く。そのまま用具入れに片してくれたのでお礼を言うと、「んー」と気の抜けるような声が返ってきた。 朝練の時の荒北はいつもこんな感じだ。毎朝ちゃんと来るからやる気はあるのだろうが、とても眠たげで気だるげである。 「寿一も、おはよう。練習部屋、準備終わってるからすぐ入れるよ」 「ああ、おはよう。いつもすまないな、助かる」 朝練の準備は、マネージャーがすると決まっているわけではない。早く来た部員が部室を開け、練習部屋に入り、各自準備をすればいいだけのこと。 では何故私が部室に一番乗りしてまで準備をしているかというと、一番に来る部員が、このレギュラーメンバーたちだからだ。 部員が多いんだから、早く来る人がいつも違ってたっておかしくないだろうに、毎回決まってこの4人が一番に来る。 この大所帯で、彼らが何の危なげも無くレギュラーに選ばれたのは、こういう真摯な部分が、走りに反映されているからなのだろうと思う。 「ローラーかァ。かったりィな」 「気持ちはわからんでもないが、真面目にやれよ」 「うっせーな、わーッてるよ」 「うるさいとは何だ!」 何だかんだ言いつつ、本当に自転車に対して真っ直ぐだ。 そしてこの4人は呆れるくらいに仲が良い。ローラー台はあんなにたくさんあるのに、朝練はいつも4人並んでじゃかじゃか回している。 私は、そんな彼らの力になりたい。少しでも負担が掛からないように。そのためなら早起きだってするし、出来る仕事は全部引き受けたい。 それに何より、私は彼らと一緒に過ごす時間がとても好きなのだ。 「しかし本当に、外で走れないのが惜しいくらいのいい天気だな」 「な、自転車日和だよな」 「そんな日に室内ってのがどうもなァ」 「じゃあ外にローラー台出せば?いいでしょ、寿一」 「ああ、自分で片付けるなら別に構わん」 「そういうことじゃねェからァ!」 ロッカーを乱暴にバタンと閉めながら荒北が声を上げる。それに対して東堂が「備品は大事に扱え!」と声を重ねる。いつもの光景だ。 「ッたく、うちは1年レギュラーだけじゃなくて、主将もマネージャーも不思議チャンかよ」 「む、オレもか」 「自覚無ェの、福ちゃん」 「そしてしれっと唯のことは不思議チャン扱いしたな」 「ひどいね」 「さて、練習に向かうか。新名も行くぞ」 「あ、私、部誌にメニュー書いてから行く。先に行ってて」 「そうか、わかった」 そう言ってみんな部室を出たのに、隼人だけが残った。ロッカーの中をがさごそと探っている。何だろ、パワーバーなら練習部屋に出しておいたけど。 「隼人は行かないの?」 「行くよ。その前に、はい」 差し出された手に促されるまま手のひらを広げると、オレンジ色の飴玉がひとつころんと転がる。 「くれるの?」 「うん。それ甘くて美味いんだ」 「へへ、ありがと」 キャンディ包みをピッと剥がし、飴玉を口に含む。なるほど、隼人が好きそうな甘ったるさだ。 「ね、隼人」 「ん?」 「今日も、いい日だね」 「……あぁ、そうだな。今日も一日頑張るか」 「そうしますかー」 「じゃあ、先行ってるからな」 「うん、行ってらっしゃい」 「行ってきます」 大好きな自転車と大好きな人たちが集う、大好きな場所。今日もここから一日を始められることが、本当に嬉しくてしあわせだ。 五月某日、快晴。暑くて熱い夏が、すぐそこまで近付いている。 15.10.12 |