仕事がうまくいかなかったり、気分が落ち込んでしまったとき。そんなときは、時間をたっぷり掛けて料理をすると決めている。 ただ品数を増やすだけでもいいし、たまには圧力鍋を使わずにじっくりと煮物を作ってみたりしてもいい。 集中している時間が長いほど、出来上がったものに対する達成感がある。そして料理を終えた頃には、気持ちの整理もついていたりするのだ。 今日は久しぶりにお菓子を作る。林檎が安かったから、アップルパイだ。ワンホールなんて久々だし、彼も喜ぶに違いない。 (顔に似合わず、甘党だからなぁ) 寿一はいつも美味しいって言ってごはんを食べてくれるけど、手作りのお菓子をテーブルに出したときはあの強固な表情筋がほんの少し緩むのがわかる。 自分の気持ちを整理することが出来て、尚且つ大好きなひとが喜んでくれるなんて、こんなにお得なことは無い。 彼は昨日、数日間に渡るレースを終えたばかりだ。なのに今朝もいつも通り走りに出掛け、かと思えばやはり疲労からか帰宅後ぱたりと寝てしまった。 アップルパイはお昼前には出来る算段だ。寿一が自然に起きるのを待つつもりなので、ちょうどいいくらいだろう。 鼻先に寄せた林檎から、爽やかな香りがする。それを甘く香ばしくするために、私は水色のエプロンを身に着け、シャツの袖を捲った。 ◆ 寿一がリビングに現れたのは、オーブンがピーッと音を鳴らしたのとほとんど同時だった。 ソファに座って朝刊を読んでいた私に焦点を合わせると、少し掠れた声が「おはよう」と紡いだ。 「おそようございます、旦那さま」 「……すまない、寝すぎた」 「いや、別に何も責めてるわけじゃないんだけどね」 少しばつの悪そうな表情を浮かべた寿一に笑みを返す。一体どこまで真面目なんだか。 こちらとしては、朝から走りになんて行かずに昼までずっと休んでいて欲しかったくらいだ。何なら一日中だらっとしていてもいいのに。 だけど仕方ない。自転車に乗ることは彼の仕事であり、趣味であり、習慣だ。病気や怪我でもない限り、止めることは出来ない。 「何か飲む?」 「おまえと同じのを貰っていいか」 「はーい」 台所に立ち、ティーポットに入っているまだ温かいダージリンを寿一のマグカップに注ぐ。 砂糖は要るか尋ねようと振り返ろうとしたのと同時、背後から少し遠慮がちに左腕を引かれた。そのまま振り返ると、寿一と視線が絡む。 「なぁに?」 「……甘い香りがする」 「あぁ、あのね、アップルパイ作ったんだよ。寿一、好きでしょ?」 アップルパイという単語に、寿一の表情が一瞬綻んだように見えたが、すぐに難しい表情に変化した。 「寿一?」 「何があったんだ」 「え?」 「……オレの思い違いなら、それでいいんだが」 「うん?」 「特別な記念日でも無いのに凝った料理をするときは、何か、ごちゃごちゃしているときじゃないのか」 そう言って扉をノックするように、私の胸元と頭を軽く二回ずつ小突いた。 バレていないと思ったのに、一体いつから気付かれていたんだろう。予想外のことに戸惑って言葉を発せずにいる私に、寿一が少し柔らかい声を出す。 「口にしたくないことなら、言わなくていい」 「え、あ、違うの、いや、違わないんだけど、」 「……落ち着け」 「えと、仕事でね、ちょっと、……ミス、しちゃって」 ミス自体は大きなものでは無い。ただ、タイミングが悪かったのだ。 新人の大きなミスに次いだ私の初歩的なミスは、ぴりぴりしていた上司の神経を更に悪化させるものでしか無かった。 久しぶりにこっぴどく叱られ、新人のものも含めたミスの処理で大幅な残業になり、全然関係無いけど帰りにパンプスのストラップが切れた。 悪いことは重なるものだ。とにかく気分が滅入ってしまった。だから、気を紛らわせたくて、料理をしていた。 まとまりなくぽつぽつとこぼす私の言葉を、寿一は私のこめかみあたりに手を添えたまま静かに聞いてくれていた。 「……もう、平気なのか」 「だいぶ和らいだよ」 「そうか」 部屋いっぱいに広がる甘い香りで、頭の中に幸福感と空腹感のミルフィーユを作り始めていた私は、すっかり気分が切り替わっていた。 寿一はまだ少し疑わしげにしていたけれど、今回は元々そこまで重たいことじゃなかったし、浮き上がるのも簡単だったのだ。 「悪かった、昨日、何も気づいてやれなくて」 「レースから帰ってきたばかりのひとが何言ってるの」 「しかし、」 「無事に帰ってきてくれただけで、充分なの。傍に居てくれるだけで、和らぐの。わかるでしょう?」 「む……」 寿一は口を噤んでしまった。私が傍に居ることは、寿一の心を和らげる材料と成り得ているということだろうか。だとしたら、本当に充分だ。 愛おしくてたまらなくて、彼の金色の髪にやわらかく触れる。と同時、ぐぅ、と低いのか高いのかわからない音が響いた。 「……そういえば、ちゃんと食事していないな」 「そうだね、お腹空いたよね」 寿一は朝からおにぎりだけ食べて走りに出掛け、帰ってくるまでの間に私が作っていた朝食を食べもせずに寝てしまったのだった。 おまけにアップルパイの香りが充満している部屋に居れば、空腹感だって限界の音を上げるだろう。 「朝食、温め直そうか。アップルパイは、その後ね」 「ああ、ありがとう」 「お昼は流石に走りに行きませんよね?」 「走りはしないが……、買い物に出掛けないか」 「えーいいよ、気ぃ遣わなくて。休みなんだから、休みなよ」 「靴、壊れたんだろう?新しいのを買ってやろうと思ったんだが」 「っ、寿一、大好き!」 「……現金な奥さんだな」 至福の境地は君の傍に在り 11月22日、いい夫婦の日・りんごの日。 15.11.22 |