全然、実感が湧かないなというのが、正直なところだ。 卒業式を終え、まぁちょっと泣きはしたものの、その後みんなでカラオケに行ったことでだいぶ悲しさは吹っ飛んでしまった。 ああでも、賑やかだった分、帰ったら少しさみしくなったりするんだろうなとぼんやりと思う。 カラオケから出ると、日が長くなってきたとはいえもう辺りは薄暗くて、「送ったるよ」と井原が声を掛けてくれたのが5分前のこと。 頬が緩んでしまうのは、私のママチャリを井原が押して歩いているという違和感が面白いせいだ。 「ねぇ、二人乗りしようや。歩くと遠いで」 「元チャリ部に道交法違反させる気か」 「元ならええやろ。おまわりさんかて、卒業式後にちょっと羽目はずしとんのやなーって見逃してくれる思うわ」 「嫌やわ、そんなテキトーなおまわり」 「なーぁー、ふーたーりーのーりー」 しつこく食い下がると、井原は頭をがしがし掻いて、「しゃーないなぁ」と言ってサドルに腰を下ろした。 「石やんに言うたらアカンで」 「石垣くん?」 「怒らせたら、おまわりより怖いからな。絶対言いなや」 「言わんよ。っていうか、明日から会えへんし」 「……そやったな」 どうやら井原も、卒業したという実感が無いようだ。 荷台に腰掛け、申し訳程度に井原の上着を両手で掴むと、彼が後ろを振り向いて溜息を吐いた。 「ちゃんと掴まらんと、落っこちるで」 「……レディ乗せとるんやから、落とさんような安全運転しぃや。チャリ部ん時みたいなスピード出したらアカンで」 「アホか、ママチャリとレディの重さでスピードなんか出えへんわ」 「一言余計やな!」 「ええから、早よオレの身体に掴まれって。いつまで経っても帰られへんで」 だったら掴まずにいようかと思ったけれど、そんなわけにもいかずにおずおずと井原の腰に腕をまわした。 無駄に高い体温も無駄に速い心音も伝わらないといいなと思いながら、だけどどこかで伝わってしまえばいいのにと思う自分も居る。 今日で、最後。朝から何度も呪文みたいに繰り返した言葉。家に着いたら、私の今日は、終わってしまう。 井原の背中に額を当てぐるぐる考えていると、私が漕ぐより少し速いスピードで進んでいた自転車が、キッと音を立てて止まった。 「何、どないしたん……、……あ」 顔を上げて視線を横に向けると、視界に映ったのは数時間前に別れを告げた学校だった。 卒業式の後は部活も無いから、校舎は暗く、校庭も静まり返っている。 脚だけで支えるのはきついだろうと荷台から降りると、井原も自転車から降り、校門に少し距離を寄せた。 「終わってもうたなぁ」 ぽつりと呟いた井原の声がやけに優しく響いて、軽口をたたく気になれずにひとつ小さく頷いた。 「明日から、来られへんのやな」 「井原はうっかり来そうやけどね」 「うぅわ、否定できひん。さっきみんなと別れるときも、また明日なって言いそうなったし」 「あ、ちょっとわかる」 だってずっと毎日のように会っていたのに、急に会えなくなるなんて、自分が高校卒業したのと同じくらい実感が湧かない。 「もう、走られへんのやな」 「……辞めるん、自転車」 「あーいや、チャリは乗るやろけど、部活として走るんは、ってこと」 「あぁ、そういう……」 ちょっとだけ、安心した。何かに熱中している男子の姿はキラキラ輝いて見えるというけれど、井原だって、例外じゃないのだ。少なくとも、私には。 自転車部は外周や市街地に出て行くから部活姿はあまり見なかったけど、それでも時々見掛ける自転車に乗っている彼の姿は、すごく好きだと思った。 「大学でも、やったらええのに」 「んー、そうやなぁ。けど、チャリ部で選んだ大学やないし。まぁ、候補には入れとくけど」 続けてくれるといいな。別に自転車じゃなくても、井原が何かに熱中する姿が見られればそれでいいのだけど。 でも、その姿を見るためには、この場所にとどまっていてはいけないのだ。もっと、近くに居なくちゃ。 「昔は、大学生なんてえらい大人に見えとったのに、全然そんなことあらへんな」 「井原でもなれるくらいやからな」 「うっさいわ、アホ」 そう言いながら笑って頭を小突かれる。2年で同じクラスになってから、ずっとこんなやりとりを交わしてきた。 いつから好きだったかなんて、憶えてない。それくらい自然に、こいつは私の心の中に入り込んで、当たり前に、傍に居た。 そんな自然で当たり前なことが、簡単に失えるものだったなんて。もっと早くに、気付いておくべきだったのに。 唇をきゅっと結び、目をぎゅっと瞑った。涙なんか流してる場合じゃない。その前に、やるべきことがある。 「……終わりばっかでもない、やろ」 「ん?」 「これから、いろいろ始まるんやし」 「まぁ、そらそうやけど」 「……それに、」 ずっと触れたいと思っていた手に、指先で触れる。手のひらまで辿り着けなくて、指先同士を絡めてみる。 井原の指がぴくんと動いた気がしたけれど、振り払われなかっただけ上出来だ。 「終わらせずに、続けていくことかて、出来る、で?」 少し声が上擦ったけど、多分、それによって真意は伝わったはず。指先が驚くほど熱を帯びている。 突如発された「うあぁぁ」という奇妙な呻き声にびっくりして目線を上げると、井原が片手で顔を覆っていた。こら、自転車を脚で支えるな。 「な、何っ……」 「かっわええ……っ」 「は?」 「……何でも無いわアホが……」 「アホ!?」 はぁーっと深く息を吐いた井原が、きゅっと指先に力を込めて、しっかりと手のひらを握られる。 「ええの、続けていくんが、オレとの縁で。途中で嫌になっても切ったらへんで」 「……望むところや」 「何でケンカ腰やねん」 楽しそうに笑った井原を見て、バカみたいに安心した。きっと、様々が終わった今日、確実に手に入れたものが確認出来たからだ。 「帰るで」とそのまま引かれた手にだらしなく頬は緩むし、熱も帯びる。これが日常になるなんて、耐えていけるだろうか。 カラオケで終わると思ってた私にとっての「今日」が、帰り道まで引き延ばされたこと。 いつもロード通学の君が、今日は徒歩だったこと。途中の学校で立ち止まったこと。 すべてが偶然で、気まぐれで、もしかしたらちょっとした意図もあったかも知れないけど。でも、こんな日だしさ、少しくらいは夢を見て、 運命と名付けてみてもいいかな 井原はママチャリが似合いすぎると思う。 15.03.09 |