毎年この時期、3年生の送別会という名目の合唱コンクールが行われる。 1、2年生が各クラス1曲ずつ唄い、練習時間の取れない3年生は学年全員で1曲唄い、最後に全校生徒で1曲唄うという行事。 送別会が主軸になるので、優勝したところで何かもらえるわけでは無いけれど、みんな一所懸命だ。お世話になった先輩が居る人たちは、尚更。 「葦木場くん、おはよ」 「おはよう。ごめんね、朝から付き合ってもらって」 「ううん、大丈夫。私も少しでも練習したいし」 合唱コンクールは、ピアノ伴奏も指揮も生徒がすることになっている。 うちのクラスは、ピアノ経験のある葦木場くんが伴奏、吹奏楽部の私が指揮をすることになった。指揮は葦木場くんからのご指名である。 少しでも音楽経験のあるひとがいいから、と言われたけれど、指揮なんてしたことないから、だいぶ緊張している。 だから、もっと練習時間が欲しいよねと言った葦木場くんの言葉に乗っかり、吹奏楽部新部長という権限をフル活用して、朝から音楽室を借りている。 「葦木場くんこそ、部活の朝練あったりするんじゃない?あんまり無理しないでね」 「あ、大丈夫。冬はそこまで部活漬けじゃないからー」 「そうなの?」 「夏のスポーツだからね、ロードは」 確かに、冬に自転車はつらそうだ。自転車通学の友人が毎朝指先が凍えそうだと言っていたのを思い出す。 箱根学園自転車競技部は常勝校として有名らしいけれど、私は実のところそのスポーツをあまりよく知らない。 彼らはいつも部活で外周や市街地を走るから、滅多にその姿を見ることもない。 「ねぇ新名さん、ここの小節さ、ちょっとゆっくり振ってもらいたいんだけど、いいかなぁ」 「あ、待って、メモする」 ロードバイクというものに乗っているときの葦木場くんのことはよく知らないけれど、ピアノを弾いているときの彼は好きだ。 初めて見たのは音楽の授業のときだったけれど、ピアノの実力は勿論、弾く姿そのものに惹かれたのだ。 吹奏楽部のみんなも勿論、楽器が好きな子ばかりだけど、あんな優しく楽器に触れるひとは珍しい。弾くことより、楽器そのものが好き、みたいな。 あんなふうに接されたら、と、そう考えたときにはもう遅かった。恋というのは、案外簡単に落ちてしまうものらしい。 「ピアノソロのところだけ、気持ちゆっくりめに振ってくれれば合わせるから」 「うん、わかった」 指揮棒が無いのでリズムに合わせて軽く腕だけを振る。それに合わせて、葦木場くんの指が鍵盤を滑っていく。 手の大きさは身体の大きさとはあまり関係無いというけれど、葦木場くんは体格同様、手のひらも大きく指もすらっと長い。 課題曲の中からうちのクラスが選んだ『大地讃頌』のメロディーが、朝の冷たい空気によく響いた。 「……新名さん?」 「は、はいっ」 「大丈夫?手、止まってる」 「あ、ご、ごめんね、大丈夫だよ」 まさか、あなたの手に見惚れてましたなんて言えず、両手をぶんぶん振って答えた。そんな私に「朝は眠たいよねぇ」と彼は的外れな言葉を漏らす。 暖房の入っていない教室で冷たい鍵盤に触れ続けていたせいだろう、彼はポケットからカイロを取り出し指先を温めはじめた。 そうだ、今のうちに渡してしまおうと、私は鞄とは別に持って来た紙袋を探り、一際綺麗な包装の箱を取り出す。 「葦木場くん」 「ん?」 「今日ね、バレンタインだから」 そう言って、彼に箱を差し出す。本命とはいえど、味覚の好みも知らない相手に手作りを渡すにはハードルが高くて、結局お店で買ったのだ。 「自転車部のエース就任のお祝いも兼ねて、ね」 「わぁ、ありがとう」 目をきらきらさせて受け取ってくれて、ひとまず安心する。本命だと伝えていないからかも知れないけれど。 開けていいかと尋ねられ、頷くとすぐに包装を剥がして箱を開ける。普通の生チョコだけど、彼はますます目を輝かせた。 「バレンタインのチョコって綺麗だよねー」 「そだね、特別な感じするね」 「ね、食べていい?」 「どうぞー」 ピック付きの生チョコにしておいてよかった。これなら手が汚れないし、この後もピアノを弾ける。 本命だと言うタイミングを逃してしまったなと思ったものの、ほんの少し悪戯心が芽生えた。 「ねぇ葦木場くん、知ってる?」 ピックに刺した生チョコを口に運び、幸せそうな笑顔を浮かべた彼に問い掛けると、小さく首を傾げられる。 「そのお店のチョコレートには、あたりとはずれがあってね」 「あたりとはずれ?くじ?」 「くじっていうか……、あたりのチョコには、魔法がかけられているの」 「魔法!?」 目を真ん丸にして驚く。反応は上々だ。唇に人差し指を当てて、内緒だよ、というとうんうんと頷いて私の話に耳を傾けてくれる。子どもか。 「あたりのチョコを食べるとね、チョコくれたひとのこと、好きになっちゃうんだよ」 「そうなの!?」 素直な彼は、こんな言葉じゃきっと私の気持ちには気付かない。けれど素直な彼は、こんな言葉でもきっと信じてしまうだろう。 はずれと思われればそれまでだけど、少しでも私を意識してくれるようになれば、という私のずるくて頭の悪い考えだ。 葦木場くんはピックに刺した生チョコを灯りにかざすように目線より高く上げ、首を捻って言葉を漏らす。 「でも、それじゃあこのチョコは、魔法がかかってるかどうかわからないね」 「……どゆこと?」 「はずれでもあたりみたいなものでしょ?」 でしょ?と言われても。困惑する私にふにゃっとした笑顔を浮かべて、生チョコを刺したままのピックをくるくる回して見せる。 「だってオレ、このチョコ食べる前から新名さんのこと好きだもん」 そう言うと葦木場くんは何事も無かったかのようにチョコを口に運び、ピックをくわえたまま鍵盤に指を滑らせる。 流れてきたメロディーは『大地讃頌』ではなく、エルガーの『愛のあいさつ』だった。何だその気恥ずかしいチョイスは。 「課題曲練習しなよ……」 「んー、オレねぇ、『大地讃頌』は中学でも弾いたから、そんなに練習しなくても大丈夫ー」 「…………はい?」 もっと練習時間が欲しいよねと言った口と同じ口から、今このひとは何を言ってくれたんだ。 「ねぇ、新名さんも食べなよ、これ」 「……何で。葦木場くん全部食べていいよ」 「だってこれ魔法かかってたら、新名さん、オレのこと好きになるかも知れないし」 ね?と笑顔で首を傾げられて、思わず溜息が出た。まさかとは思うけど、彼は本当に私の想いに気付いていないのか。天然なのか鈍感なのか馬鹿なのか。 付き合うの大変そうだなと苦笑しつつも想いが薄れることはなく、そんな自分に対しても苦笑が漏れる。 別に食べなくたっていいのだけど、食べたほうが想いは伝えやすくなるかも知れないなと、やっぱりずるい考えが頭を過った。 「じゃあ、一個だけ」 さぁ一体どんなふうに魔法にかかった振りをしてやろうかと思案しながら、彼が差し出したチョコを迎えるために、私は口を開くのだった。 溶けたチョコレートの解けない魔法 真波からあざとさを引いたのが葦木場という認識。 15.02.14 |