潮風はべたべたするから好きじゃないけど、そんなことも言っていられない。 部活の日じゃないのに家に自転車が無くて、電話が通じなくて、高橋さんにも行き先を告げていないとき、彼が居る場所なんてそこしか無いのだ。 海沿いの堤防をなぞるように自転車を走らせていると、堤防が途切れた柵に立て掛けられた青色の自転車が見えた。 ご丁寧にがっつりと地球ロックされたスコットに自分の自転車を横付けして、砂浜に続く階段を下りる。 「海水浴には向かない季節だと思いますけどー」 「……海水浴をしに来たように見えますか?」 「いや全然」 怪訝な表情で振り返った私の愛しい恋人は、呆れたように溜息を吐くとまた海の方へ視線を戻してしまった。 階段の一番下の段に腰掛けている俊輔の五段ほど上に腰掛けて、私も同じように海を見つめることにする。 風があまり無くて、静かだ。車の通りも少ないこの場所は、さざ波の音だけが耳に響いて、波間に揺られているような錯覚に陥る。 「っ、ひっ、くしっ!」 「……しゃっくりですか、くしゃみですか」 「しゃっくりかと思ったらくしゃみだった」 「有り得るんですか、そんなこと」 有り得たのだから仕方ない、自分でもびっくりだ。確かに、時季外れの海風は冷たいし、寒い。自転車に乗るからと厚着はしてきたけど、それでも。 そういえばさっき自販機があったなと思い出し、静かに立ち上がって向かうことにする。動いた方が身体もあったまりそうだ。 カフェオレとココアで悩んで結局前者にした。取り出した缶はとても熱くて、危うく落としそうになる。 俊輔にも何か買っていこう。何がいいだろうか。まぁ温かくて甘くなければ何でもいいか。私のお金だし、文句は受け付けない。 「へい、そこの彼氏。お姉さんとお茶しない?」 「……何ですかその下手くそなナンパは」 「ナンパ術に長けてる彼女なんて嫌でしょ」 そう言って、俊輔の隣に腰掛けながら微糖のコーヒーを渡す。ブラックは飲めるかわからなかったから。 「……ありがとうございます」 「どういたしまして。ちゃんと甘くないやつ選んだんだよ、出来た彼女でしょ?」 「別に甘いのでも良かったですけどね」 「なんだ、じゃあおしるこにすればよかった」 「極端」 俊輔はしばらく缶で手を温めた後、かしゅっとプルタブを起こし開け、一口だけ含んですぐにまた海に視線を投げた。 私は両手の中でくるくると缶を回しながら手を温め、彼と同じように海を眺めた。 青くて、静かで、だけど時折荒々しさを見せるそれは、彼の大切で大好きなものにひどく似ている。 俊輔は何を思って海を見ているのだろう。少なくとも私みたいに、隣のひとを思っているわけではなさそうだ。別にそれに対して、不満は無いけど。 そう思いながら彼の横顔に視線を送っていると、海に向いていた視線が私の手元に流れてきた。 「……飲まないんですか、それ。ぬるくなりますよ」 「あー、うん」 「……何」 「見て、これ」 そう言って、少し伸ばした爪を鮮やかに彩るフレンチネイルを俊輔に見せる。3連休に入る前日である昨晩、自分でがんばって塗ってみたのだ。 「割と上手に出来たと思うの」 「まぁ、綺麗ですけど」 「でしょ?剥がれちゃったら嫌だなと思って」 「……オレ、そういうの疎いんで、言ってくれないとわからないですよ」 俊輔が傍らに置いた缶が、かこんと音を立てた。そして私の手から缶を奪い、プルタブを開けて返してくれる。 「ありがとー」 「先輩、ペットボトルって知ってます?」 「知ってるよ、バカにしないで」 「知りながらにしてそっちを買わなかったあたり、バカなんじゃないですかね」 「違うの、こう、自販機のボタンを押した人差し指を見て、爪塗ったことを思い出したの」 「……バーカ」 「何おぅ!?」 楽しげに緩んだ俊輔の口元は、すぐにいつものスカした表情に戻ってしまった。それを見て、私も口を閉じる。 海に居るときの彼は、すごく切ない表情をする。ここに来るときはいつだって、そういう心境のときなのだろう。 そもそも私は、身体が冷える頃合に「帰ろうよ」って促すためにここに来たのであって、隣に座るつもりではなかったのだ。 レースのこととか、チームのこととか、一人でいろいろ考えたいであろう俊輔の邪魔にはなりたくないし。 「……静かですね」 「シーズンじゃないからねぇ」 「違う。海じゃなくて、唯先輩の話」 「……あぁ、そっちか」 「そっちですよ」 「だって、静かな場所が好きだから、ここに来たんでしょ」 「うん」 「だから静かにしてあげてるの。出来た彼女でしょ?」 ふふんと少し胸を張りながらそう言うと、俊輔は何故か眉根を寄せ、「はぁ」と相槌と溜息の中間みたいな声を出した。 「わかっているようでわかっていないんだなってことがわかりました」 「え、なに、もうちょっとわかりやすく言って」 「間抜け」 「ふぉ!?」 「もうちょっと可愛いリアクション出来ないんですか……」 今度ははっきりと溜息を漏らして、少し距離を詰めたかと思うと、私の肩に寄り掛かってぐぐぐと体重を預けてきた。 「ちょっと、重たいんですが」 「でしょうね」 「体格考えなさい、181センチめ」 「……風、強いし、冷たいし」 「うん」 「だから、風除けになってあげてるんですよ。出来た彼氏でしょ」 風向きから考えて明らかに風除けにはなっていないのだけど、触れている部分は温かいし、素直に受け取っておくことにする。 カフェオレを飲もうと口を付けた缶があまりに冷たくて、顔を顰めてしまう。半分ほど中身が残っているであろう俊輔の缶も、きっと冷えているはずだ。 「やっぱりペットボトルにすればよかったかな」 「何で」 「だって冷めちゃったし。飲んだら身体も冷えちゃうよね。ペットボトルなら持ち帰れたじゃん、ごめんね」 「別に。飲み終わるまで一緒に居られるって思えばいいし」 「……うん? 何か今すごく可愛いこと言った?」 「でも確かに身体冷えるし、帰りにコンビニであんまん買ってあげますね」 「ちょっと」 「チョコまんの方がいいですか?」 「あんまんでいいですけども」 「そうですか」 「ねぇってば」 静寂の半分を奪うひと (君の声と言葉が丁寧に響く、ただそれだけで静かな場所には価値がある) 静かだけど、寂しくはないよ。 15.12.02 |