「ただいまぁー……」 「おかえりー、……大丈夫か、酷い顔だぞ」 「世に蔓延る全てのクレーマーが、手早く且つ手酷く葬られて欲しいと願う一日だった」 「……おぉ、お疲れさん」 玄関を開けてすぐの台所に立っていた純太は、私が帰宅するなり吐き出した暴言に少し困ったような笑みを浮かべた。 だけどそんな言葉を吐かずにいられないほど、本当に最悪な一日だった。家まで帰れたことを褒めてやりたいくらいにはくたくただ。 盛大な溜息と共にほとんど頽れる形で玄関マットに座り込む。靴を脱ごうとするもスニーカーの紐が上手く解けず、それだけのことで舌打ちが出る。 解けないなら切ってしまえばいいんじゃないかと思い付いたあたり、人の思考回路というのは疲労している時が一番恐ろしい。 一旦落ち着こうと息を吐いたのと同時、背中にずしんと重力が圧し掛かる。痛いし重いし邪魔だというのに、不思議と舌打ちは出なかった。 「うわ、おまえ身体冷たッ。飯より風呂が先だなぁ」 「お風呂……、めんどくさ……」 「そう言うなって。面倒なのは入るまでだ。入っちまえば極楽なんだから」 純太は私の隣に身体を寄せ、「さぁ、姫、おみ足を」なんてふざけながら靴紐を器用にするりと解いていく。 そんな指先を見ていたからか、それとも足元の窮屈さが無くなったからか。精神的に張り詰めていたものまで緩んでしまったようだ。 ぽたぽた落ちる滴に気付いた純太が、膝立ちになって私を抱き寄せた。純太の腕の中はあたたかくて、瞼が更にじんわり熱くなる。 「よしよし、きつかったな」 そう言って私の後頭部と背中を優しくぽんぽんたたいた。そこに涙腺を刺激するツボでもあるのかってくらい、涙が溢れて止まらない。 一人だったらきっと、泣いたりしなかった。ささくれ立った気持ちのまま、溜息吐いては舌打ちして、眠りに就いてまた明日を迎えていたのだろう。 純太が同棲の話を持ち掛けてきたときは、正直うまくやれるか不安だった。一人暮らしの心地好さにすっかり慣れてしまっていたからだ。 だが今となっては、そんな不安もどこへやら、だ。大体この手嶋純太という男が、うまくやれそうもないことを持ち掛けてくるわけが無いのだった。 「ほんと疲れた……」 「泣いて愚痴って、すっきりしろよ。しかめっ面して舌打ちかますより、ずっと健康的だろ?」 「ん……」 「クレーム処理ほど面倒なもん無ェからなぁ。オレよく駆り出されるんだけど何なんだろうな」 「口が巧いからな、純太は」 「頭が回るって言ってくれよ」 くつくつ笑いながら私の髪を梳くように撫でる。そのまま、後ろで小さく結わえていたゴムとシュシュが外された。 「さて、風呂だ風呂!こういうときは身体温めて美味いもん食べて泥のように眠るに限るぜ」 「……ごはん遅くなるけどいいの。純太、お腹空いてない?」 「待ってるよ、大丈夫。つか、唯の方こそ食欲はあんの?」 「お昼を食べ損ねたので胃袋すっからかんです」 「……先にメシのが良いか?」 「んー、お風呂のが面倒だし先に済ませる」 「そっか。オレが入った後そのままだから、お湯足して、しっかり温まって来いよ」 差し出された手を取り、立ち上がる。涙と寒さのせいで鼻水がだらだら溢れてくる。 何やらいい香りがする台所を通り抜けて諸々準備をし、浴室へ向かう途中、純太がペットボトルに入ったポカリを渡してきた。 「さっきの涙の分。水分補給はしっかりな」 「……こんなには泣いてないでしょうよ」 「まぁまぁ、湯船に浸かって、ごゆっくりティータイムをどうぞ」 どっからどう見てもティーじゃないけど、喉は渇いているし有り難く受け取っておくことにする。 口の巧さに加えてこの気の回し方だ。そりゃあクレーマー対応に駆り出されもするだろうと思いつつ、普段より少しだけゆっくりお風呂に入った。 お風呂から上がると、ドライヤーを手にした純太に出迎えられた。晩ごはんのビーフシチューを温めている間に髪を乾かしてくれるという。 テレビには最近よく見るが名前を覚えることの出来ないタレントが映っている。ドライヤーの音で何を喋っているのかは聞き取れないが楽しそうだ。 髪を乾かしてもらった後、すぐに食卓を整えた。シチューとサラダ、それからバスケットいっぱいのパン。惣菜パンが中心だ、嬉しい。 「朝メシみたいなメニューになったけど勘弁な」 「いや、全然。シチューもだけど、パンめっちゃ美味しそう」 「田所さんとこのパンだからな、食べると元気出るぞ」 「凄いな、何の根拠も無いのにめちゃくちゃ説得力ある」 「だろ」 それから、くだらないテレビ番組を観ながらどうでもいい話をして、やっぱり普段より時間を掛けて食事を済ませた。 片付けはすると言ったのに、結局純太が手伝ってくれた。パンもシチューも残ったから、明日の朝食も同じものだな、なんて笑いながら。 歯磨きを済ませ、ニュース番組を観ながら、肌の手入れをしたり爪を整えたりした。面倒だけど、習慣染みてしまっていて、やらないと気持ち悪い。 その間、純太は私に寄り掛かってスマホを弄っていた。音から察するに、最近ハマっているRPGゲームをやっているのだろう。 「唯さぁ、明後日休みだよな」 「そうだよー」 「じゃあ明日の夜さ、デートしよっか。まぁ時間がアレだから、最悪、メシだけになるかもだけど」 「……純太は明後日仕事でしょ?」 「うん。オレ、明後日の仕事、修羅場の予定なんだよ。だから、頑張れるように、充電させて」 果たしてごはんを食べるだけのデートが充電になるのかと甚だ疑問ではあるが、デート、という響きが心を軽くすることは、身を以て理解している。 「わかった、いいよ」 「やった、じゃあ駅前待ち合わせな」 待ち合わせをするのも久しぶりだ。たまに休みが合ったときのデートは、もちろん一緒に家を出るし。 純太は、自然と無くなっていきそうなものを、ふわっと日常に呼び戻すのが上手だ。それは見習うべき点であり、大好きでたまらない点でもある。 折り畳み式の鏡を閉じ、ふあ、と欠伸を漏らすと、寄り掛かっていた身体を離して純太がスマホを充電器に差し込んだ。 「よし、寝るか」 「ゲーム途中だったんじゃないの」 「クエストはもう消化してたから。ほら、電気消すから布団入って」 そう促され、もぞもぞと布団に潜る。純太がテレビと電気を消すと、一気に部屋が真っ暗になった。 少し遅れて布団に入ってきた純太が「冷てぇ」と声を漏らす。布団のことか私の足のことなのかわからない。両方だろうか。 目覚ましを設定しながら明日の仕事のことを考えると、自然と今日の出来事が脳裏に甦ってきてしまった。 だけど、帰宅早々漏らしたような暴言は出てこない。もう大丈夫だよって伝わるといいなと思いつつ、軽い口調で最後の愚痴をこぼす。 「あーあ、明日は変な客が来ないといいな」 「こら、寝る前に嫌なこと思い出すなよ。夢に見るぞー」 「え、嫌だ、助けて純太」 「助けてって言われてもな」 困ったように笑いながら、私の少し長めの前髪を分け、額を露わにする。「これぐらいしかしてあげられないんだけど」と言い添えて。 純太は毎日寝る前におやすみのキスをする。と言っても、口にではない。左右の瞼と額の、計3回。 瞼に口付けられた私は自然と目を閉じることになり、その後の額への口付けで、不思議といつも眠りに誘われてしまう。 最後にひどく優しい声で紡がれる「おやすみ」は、魔法みたいに、私の耳の奥の方でじんわりと溶けていく。 そして私はいつも、ちゃんと彼に届く声になっているかもわからない「おやすみ」を返して、溶けた声に似た、ひどく優しい夢を見るのだった。 君にしか使えない魔法 (種と仕掛けがあるならば、多分どっちも、愛ってやつかな) タイトルは、ヒロイン視点でも手嶋くん視点でも成り立ちます。 15.11.27 |