雨の日の練習は、晴れの日と比べれば断然疲れる。タイヤが滑らんよう、普段以上に繊細なペダリングが要求されるし、視界が悪い分、集中力も必要。 何が言いたいかというと、市街地に練習に出て部室に戻ってきたとき、僕はとにかく疲れとった。 そして普段雨の日はそのまますぐ自転車乗って帰るけど、今日は水田くんに「今日冷えるし、風邪ひいてまう」とシャワールームに押し込まれた。 渋々シャワーを浴びて着替えた僕は、晴れの日同様、髪が乾くまでの間、その日の練習のまとめやらメニュー表の作成やらの仕事を片付ける。 自転車のこと考えとると、良くも悪くも、周りがよう見えんくなる。音も、遮断されとるような気がする。 脳内にレース展開を巡らせながらシャーペンを走らせていると、途中で芯が切れた。そういえば、替え芯も切らしとったっけ。 「唯ちゃん」 「……はい?」 思えば、この時の唯ちゃんの反応で気付くべきやった。いつもの甘ったるい声の「ん?」や、「なぁに?」やない、戸惑った返事で。 普段、僕は最後までペダル回しとるから、シャワーも最後に浴びる。当然、最後まで部室に残るのは、僕ということになる。 そして髪が乾く間にやる仕事を、マネージャーである唯ちゃんは傍らで別の仕事、時には宿題なんかしながら待っとる。 せやから、僕がこの作業をしているときは、二人きりという状況が当たり前で。はっきり言えば、気が緩んどったのやと思う。 「シャーペンの芯、持っとる?」 「替え?あるよ」 「ちょーだい」 短くなった芯が詰まらんようにカチカチと取り出しながらそう言うと、背後で唯ちゃんが鞄を探る音がする。 「0.5で大丈夫?」 「ん、ええよ。おおきに」 肩越しに渡される芯のケースを受け取り、一本頂戴して補充した。 芯がきちんと出ることを確認しながら、髪から机にぽたりと落ちた滴を見て、「そういえば」と言葉を漏らす。 「ボク、今日自転車押して帰るから」 「う、うん?」 「シャワー浴びて、制服にまで着替えてもうたし。また濡れるん嫌やから、歩いて帰る」 「そ、か」 「せやから、いつも通り家まで送って行けるから」 「あ、あのっ、御堂筋くんっ!」 「何ィ?苗字やめ、……」 そこまで会話を交わしてやっと手元から目線を上げた僕は、視界に入った複数人の影に言葉を失った。 ああ、成程、これは甘ったるい声も出せへんし、部活中のみに限られた苗字呼びにもなるわなと頭の隅で冷静に理解する。 頬杖をついていた片腕を額に当て、頭を抱えてまう。僕、何を言うた?名前を呼んで?家まで送る言うて?何より、どれ程やらかい声を出しとった? 付き合うとることを隠しとるわけやないけど、部活中はずっと苗字で呼び合って、適切な距離を保っとったのに。 「何でまだ居るん……、早よ帰れやザクが……」 「み、御堂筋くん、それ八つ当たり……」 唯ちゃんの遠慮がちな声に、尚更溜息が出る。視界の端にはおろおろしとる石垣くんやら山口くんが入り込んで、ウザい事この上ない。 「す、すまん御堂筋」 「……謝られても困るんやけどォ?その、見たらあかんもん見たァみたいな顔やめぇや」 「いや、もう、その通りの感情すぎて何とも……」 「張ッ倒すで、キミィ!?」 「ちょっ、御堂筋くん!」 思わず椅子から腰を浮かせた僕を、唯ちゃんが両腕を広げて「まぁまぁ」と宥めてくる。 その抑制だけで気持ちが少し落ち着く自分が憎たらしくて、けれどそれを悟られんようにどうにか口元を引き締めた。 「ボク、まだやらなあかんことあるし、キミら早よ帰りィや」 「御堂筋くん、そんな急かさんでも……。あの、ゆっくりで、大丈夫ですから」 唯ちゃんが部員たちの方を振り返って言葉を掛ける。 僕の胸元で揺れ動く髪から、嗅ぎ慣れた甘酸っぱいラズベリーの香りがして、思いがけず頭がくらくらした。触れたい、と、思ったが最後。 「唯ちゃん」 「……は、い……?」 部員の前とわかっても尚、少し優しめの声で名前を呼び掛ける僕に、唯ちゃんが戸惑いの表情を隠せずにいる。うん、おもろい。 「唯ちゃんはァ、ボクとふたりきり、……なりたない?」 「っ、な、何……っ!みど、」 「ああ、それとも、」 口をぱくぱくさせている唯ちゃんを無視して、彼女の腰にするりと片腕をまわす。 やらかく触れると、僕以外には聞かせたないような可愛い声が出てまうから、敢えて少しだけ力を入れて自分の方に抱き寄せた。 「みんなが帰った後、ボクらが何してるか、……見てもらおか?」 唯ちゃんの耳元に口を寄せながらも、僕ら二人に視線を向ける部員らに聞かせるように、言葉を紡いだ。 案の定、僕の腕の中の唯ちゃんは勿論、部員全員の目が丸くなる。面白さに堪え切れず口元が緩みかけたその瞬間、彼女がじたばたと暴れ出す。 「何、って!別に何もっ!してへんしっ!」 「ププッ、顔赤いで、唯ちゃん」 「赤ないっ!もぉっ!はーなーしーてー!」 「いつもみたいに、翔くん、って呼んでくれたら離そかな」 「なっ!?……いじわるしないで!」 「ボクは別にええよォ?キミが想像した、顔が赤ァなるようなこと、ここで今すぐやっても」 「想……ッ!?そんなん、してへん!」 人目も憚らずじゃれ合っていると、「んんっ」という、下手なわざとらしい咳払いが響いた。察するに、辻くんから。 部員の方に視線を向けると、その咳払いによって意識を取り戻したかのように、井原くんたちが慌ただしく荷物をまとめ始めた。 「み、御堂筋ッ、オレらもう帰るから!な、石やん!」 「あ、あぁ、そやな」 「ほら、ノブもボーッとせんと、早よ荷物まとめっ」 「え、え、二人、付き合」 「ええから、早よ!」 ガタガタと派手に乱暴な音を立てて、全員がどたばたと部室から出て行く。 はふりと溜息を吐いて力を緩めた僕の腕から、唯ちゃんが勢い良く離れた。赤いまんまの顔で、キッと睨まれる。 「何であんなこと言うたの!」 「べぇつうに」 「みんな帰ってもうたし!」 「キミさえ居ればどうでもええわ」 べーっと舌を出しながら椅子に腰掛け、唯ちゃんに向かって腕を広げると、小さく唸りながらも僕に近付いてくる。 肩口に顔を埋めるように抱きつくと、ラズベリーの香りに包まれた気分になった。 「ボクゥ、街中でイチャつく世の中のバカの気持ちが、ほんのちょーっとやけど、わかった気ィする」 「……出来れば、一生わからずに居て欲しかったですね……」 「けど、さっきのは嘘やよ」 「さっきの?」 「唯ちゃんが想像したこと、みんなの前でしたってもええよ、ってやつ」 「なっ……!何も想像してへんって言うたやろっ!」 「へぇ?」 彼女の肩口から顔を上げ、指先でゆっくりと唯ちゃんの唇をなぞった。わざと、視線を絡めながら。 「ほんまに?」 「っ、ほんまにっ!」 「ふぅん、困ったなァ。ボク、素直な子ォが好きなんやけど」 口元緩めながらそう告げ、後頭部に手を伸ばし引き寄せて唇を寄せると、少し戸惑いながらも目を瞑ってくれた。なんて素直。 薄く開いた唇を、隙間埋めるように重ねて、僕のシャツをきゅっと握る指先を、手のひらで包み込んでみたりする。 さっきは確かにちょっと面白かったし楽しかったけど、やっぱり、誰にも見られずに触れた方が、断然ええ。 (こんな表情、見せたるわけにいかんしなァ) 長い睫毛が小さく揺れるのを見つめながら、独り占めの心地好さに酔い痴れて、僕は唯ちゃんに気付かれないように、小さく笑った。 君さえ知らない、僕だけの君 (口付けの最中の表情が一番可愛いなんて、僕以外は誰も知らなくていい) 開き直り可愛い。時季的には脱皮前くらいのイメージ。 15.03.17 |