レースが終わった夜、久々に唯ちゃんが泊まりに来た。
ソファに座ってロード雑誌をぱらぱら捲る僕の左手を、お風呂上がりの彼女の少し湿った手がやわらかく包む。
邪魔をされても何も言えずただ首を傾げることしか出来ひんのは、惚れた弱みやろうか。

「指、テーピング負けしてるよ」
「あー……ほんまやなぁ。まぁそのうち治るやろ」

練習中とかレースの序盤とか、身体のあちこちにテーピングするようになって、随分経つ。
特別肌が弱いわけやないけれど、強く巻きすぎたり大量に汗かいたりすると時々こんなふうになる。
微かに赤くなった僕の指をゆっくり撫でながら、唯ちゃんは心配そうに僕の顔を覗き込む。

「お薬、塗ろ?」
「要らんよ、別に」
「だって次のレースの時もテープ巻くんでしょ」
「まぁ、そやね」
「治らないまま巻いたら悪化しちゃうよ」
「そない目立たんし、気にならへんよ」

実際気にしとらんかったのや、今まで。周囲に気にされることも、無かったし。
多少痒みがあっても、自転車に乗ればそんなことすぐ忘れてまう。
そう思って断れば、唯ちゃんは唇を尖らせ不満げに僕をじっと睨む。全然怖ァないけど。

「…………」
「……何やの」
「…………」
「……ハァ……取ってや、薬」
「!」

無言の圧力に耐え兼ねて、わざとらしく大きく溜息を吐いてから、薬箱の方を指差す。
待ってましたと言わんばかりに立ち上がり、長い黒髪を揺らしながら薬箱を開ける唯ちゃんはどこか満足そうに見える。
軟膏を手にソファに座った彼女が、半ば強引に僕の手をぐいっと引き寄せた。痛い。

「塗ってあげる」
「そらどうも……」

ここまでくると、どうにでもしてくれ状態や。ほんまに、僕はとことん彼女に弱い。
多分無意識であろう鼻歌とともに、優しく丁寧に僕の指に薬が塗られていく。
自分で出来ることを人にしてもらうというのは、何だかくすぐったくて、変な感じがする。全然慣れへん。

「よし、終わり。沁みなかった?」
「ん、平気」
「治るまで、ちゃんと毎日塗ろうね」
「……心配性やなァ」

そんな大して目立つわけでもなく、怪我とも呼べないただの赤みを、ここまで心配されるとは。

「翔くんは、すぐ自分のこと蔑ろにしちゃうからね」
「……身体には、気ィ遣とるつもりやけど」
「自転車乗るためのコンディションに関する部分だけ、ね」
「充分やんか」
「充分とちゃいますー」

下手くそに真似た京ことばで返す彼女をじっと睨み、力を抜いた指で頬を引っ張ってやる。
「いひゃい」と間抜けな声を出され気が抜けた僕が手を離すと、彼女は再び僕の手をやわらかく包んだ。

「私はね、翔くんが好きなの」
「……何やの、急に」
「誰だって、好きなひとのことは、大切にしたいでしょ?」

……なんだっていつもこの子は、こんなふうに、さらりと。僕を幸せにするような言葉を紡げてしまうんやろうか。

「無茶しても怪我してもいいけど、心配くらいはさせてよね」
「……勝手にしたらええわ」

突き放したような言葉の何が嬉しいのか、唯ちゃんは笑顔のままでいる。
何だかふわっとした気持ちでいっぱいで堪らず、指の薬が彼女の服に付かないように、腕を伸ばし彼女を抱き寄せた。
遠慮がちに背中にまわされる腕の感覚に、彼女もまた、指先の薬が僕に付かないようにしているのだと気付き、それが更に僕をふわっとさせる。
同じシャンプー使とるとは思えへん特別ええ香りがする髪に唇を滑らす。頭、くらくらする。
唯ちゃんは手の置き場所が見つからないのか、数回もぞもぞ身体を捩り、結局薬の付いてない左手だけ僕の服を掴んできた。なんてもどかしい。

「気にせんでええよ、手」
「んー……でも、ベタベタするしにおいも付くし……。翔くんだって、触らないようにしてくれてるし」
「阿呆か。唯ちゃんの服に薬が付いたら、ボクの指に塗った意味が無くなるから触らんだけや。逆の立場やったらベッタベタに付けとるとこやわ」
「ひどい……!」
「何にせよ、もう少し強う抱きついてくれた方が嬉しいんやけど」

そのまま言葉を奪うように口付けて、数秒味わって唇を離した瞬間、一気に我に返った。
――何を言うた、今、僕は。少なくとも、頭の回転の速い彼女が直ぐには言葉を返せないほど、らしくないことを言うた。
薄く唇を開いてじっと僕を見つめてくる唯ちゃんから顔を背け、腕の力を緩めて距離を置く。
アカン、顔熱い。手の甲で口元を隠すけど、多分もう既に隠し切れとらん気がする。

「い、今の無しや」
「……今のって、どれ?」
「今のは今のやろ!察せや!」
「なぁに?キス?」
「……知らんわ。ええから手ェ洗っておいで。もう寝るで、ボクはレースで疲れてんのや」
「疲れてるから、抱きついてほしかったの?」
「っ、やかましなぁッ、はよ寝んと、唯ちゃんこそ肌荒れても知らんで」

終始からかうような笑顔を浮かべた彼女に、ペースが乱される。いや、そもそもそんなものあったかどうかも解らない。
洗面所に走っていった彼女がまた鼻歌まじりに手を洗う音を聞きながら、薬が塗られた指に簡単にガーゼを巻いた。
薬箱と雑誌を片付けベッドに横になると、戻ってきた唯ちゃんがすぐに隣にもぐりこんでくる。
猫みたいに胸元に擦り寄ってくる彼女の髪を撫でると、不思議と一気に眠気に襲われた。

「……唯ちゃん」
「ん?」

名前を呼ぶと顔を上げた彼女の唇に、先程よりも少し長めに自分の唇を押し当てる。
色々と制御が効くうちに唇を離し、再び胸元に抱き寄せた。

「おやすみ」
「ん、おやすみ、翔くん」

彼女のやわらかいアルトボイスで一日を終わらせられると、安心する。絶対に言いひんけど。
レースの疲れとか、負の感情、そういうの軽く吹っ飛ばす程度に、この細くてやわっこい小さな身体に救われとるのや。柄にも無い。
自嘲気味にひとつ溜息を吐くと、僕の腕の中で早々と寝息を立て始めた彼女に誘われるように、目を閉じた。



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(時として甘い毒薬、薬漬けは必至)


リードしててもされてても似合うから困る。
14.09.06

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