―――ゴールのところで待っといてや。そしたら、すぐに会えるから。 初めてレースを観に行く前日やったと思う。部活終わりの帰り道、彼が小さくそう呟いたのだ。 言われるままに頷いて、でもふと考えてみればそれは、レース直後に会いたいと言われているようで、思わず一人で赤面してしもたんやっけ。 けど、そっと彼の横顔を窺うと暗がりでもわかるくらい頬も耳も赤らんどって、それが勘違いやないと気付いた。 甘えるのが下手な彼の寄り掛かり方が愛しくて、それ以来ずっと、応援に行くときはゴール付近で彼を待っている。勿論、今日も。 「……唯ちゃん」 「翔くん、お疲れさまっ」 「ん、おおきに」 一番にゴールラインを越えた翔くんが自転車を降りてすぐこちらを振り向いた。いつもは私が駆け寄るまで、触れたら壊れそうなくらいに意識がぼんやりとしとるのに。 準備していたタオルと飲み物を慌てて渡し、選手用のテントへ足を進める。 テントに向かうまでの間に翔くんはタオルで軽く身体を拭きドリンクを飲むから、私が代わりに自転車を押すのがいつものこと。 翔くんの自転車は、私が普段乗っているそれと比べて随分と軽くて頼りない。 何度応援に来てもロードレースのことはよくわからなくて、せやけど、この自転車が翔くんのすべてなんやということはわかる。 だからいつだって緊張してしまう。こうやって、彼の自転車に触れるのは。 「唯ちゃん、今日はゴールの手前で待ってたんやね」 「え、あ、うん。テントのところに居ったんやけど、もうすぐ来るよ、ってスタッフさんが気利かせてくれはって」 何度か挨拶をしたことがあるスタッフさんやった。私が翔くんを待ってること、知ってはったのやろうと思う。 もうすぐ一番手でゴール入ってくるから、見てきたら?と声を掛けてくれはった。今日はテントが奥まった所に設置されていて、ゴールラインが見えへんかったから。 「でもよう見えたね、後ろの方に居ったのに」 「あー……、目に、入ったんや。偶然」 タオルで顔の汗を拭いながら歯切れ悪く答える。翔くんらしくない。 確かにゴール手前で観とった。せやけど今日のレースは関西でもわりと大きな大会で、観客も多かった。ゴール付近は、それはもう特に。 私は翔くんのゴールする姿を観たらすぐに追いかけて一緒にテントに向かうつもりやったから、最前列ではなく、後ろの方で少し背伸びしながら観ていた。 それやのに結構なスピードで走っていた翔くんの目に私の姿が入ったのなら、それはもう愛の力か、彼が最初から私の姿を探していたかのどちらかに違いない。 「……何ニヤニヤしとんの、キモイで」 「キモくて結構やよー」 「変な子ぉやな、唯ちゃんは」 「わぁっ」 呆れたように溜息を吐かれ、大きな手で髪をくしゃくしゃにされる。でもそれも翔くんの照れ隠しの時の仕草やと知っていれば、私を更にニヤけさせる材料だ。 翔くんはスタッフさんや取材陣から掛けられる言葉を適当にあしらいながらテントへ入り、カーテンを閉めるとベンチに座った。 私は彼のバッグからアイシングのスプレーを取り出し、ベンチには座らないまま手渡す。 「すぐ表彰式やよね?」 「もう少し時間あると思うで。まぁ、誰か呼びに来るやろ」 「そっか、他に何か要る?」 「着替えだけ出しといてや。あとは全部片してええわ」 翔くんの言葉に頷き、着替えを取り出すと他の物を仕舞い込む。 テントの外は賑やかや。カーテンを閉めているだけなのに、ここだけ切り取られたみたいに音が響かず、照明も無いから仄暗い。 そんなテント内では、翔くんの「黄色いな」という小さな呟きもよく響いた。 「黄色?」 「唯ちゃんの、その服」 「ああ、これ?先週買うたんよー」 裾と袖に小さな向日葵がプリントされた半袖の黄色いワンピース。お気に入りのショップで一目惚れして買うてしもたのやった。 指先で裾を摘み持ち上げひらひら揺らして見せると、翔くんはどこかぼんやりした目をして「ふぅん」と漏らした。 「変?ちょっと子どもっぽすぎたやろか」 「……いや、ええよ、かぁいらし。よう似合うとる」 「……そう、かな」 「こっち、来て」 真っ直ぐな褒め言葉に戸惑っていると、手招きをされる。目の前まで歩みを進めたところで、手首を掴まれた。 「汗かいとるけど、堪忍な」 そう言って、翔くんは私の腹部にぽふりと頭を押し付けてきた。表彰式とか、誰か来るとか、色々思いが過ったけれど、そのまま受け入れることにする。 レース後、彼はたまにこんな風になる。空っぽになるまでペダル踏んで、回して、進んで。その空っぽを満たすのに、時間が掛かるんやろうと思う。 今日は幾分軽度な方かも知れない。テントに着くまで、一切言葉を発しひん時もあるから。 様々を独りで抱え込みすぎなんやよとたまに叱り付けたくなるけど、叱っても聞きひんやろうから、こうやって時折甘やかす。翔くんが、壊れてしまわないように。 「翔くん、優勝おめでとう」 「……今頃かい」 「言うてなかったと思って。ごめんね」 「ええけど。……おおきに」 お腹にぐりぐり頭を押し付けられて、こそばゆい。距離を詰めて翔くんの頭を胸元に抱き寄せ髪を撫でると、身体を摺り寄せてくる。 本当に少し甘えたなだけのようや。良かった。会話も出来ず、身動ぎひとつしない翔くんは、痛々しくて見てられへんから。 私の胸に耳を当てた翔くんは、袖の部分を引っ張り、プリントされた向日葵を指先でなぞる。 「表彰式で貰う花束、唯ちゃんにあげるわ」 「ええの?」 「このレース、黄色い花束貰えるんや。向日葵かは知らんけど。唯ちゃん黄色尽くしにしたる」 「ふふ、目痛くなりそうやね」 「……でもボク、黄色好きやよ」 そう言うと翔くんは腰を浮かし、私の肩口に一度頬を擦り寄せると、顔を上げて視線を絡める。 唇が触れ合いそうに近付いた瞬間、テントの外から「御堂筋くーん、居ますー?」と呼び掛ける声が届いた。 不機嫌な顔で舌打ちをした彼が横をすり抜けカーテンを開けて対応する。……惜しかった。いや、ちゃうわ。心臓ばくばくいいよる。 翔くんがぶつくさ言いながら戻ってきた。どうやら表彰式が始まるらしい。ドリンクを一口飲むと、彼は再度私を抱き寄せた。 「行かんの?」 「行く。あと10秒だけや」 「……何やの、それ」 ふ、と吹き出すと、ぎゅうっと強く抱きしめられた。ごつごつした翔くんの身体が、少し痛い。心拍が、上がる。 言葉通り10秒間私を抱きしめると、ゆっくりと離れ、「行ってくるわ」と言いテントを後にする。 残された私は翔くんが置いていったタオルを畳んでバッグに仕舞い、ふと目に入った翔くんの自転車に、そっと触れてみた。 家に帰ったら、またすぐ整備するんかな。翔くんは自分の身体の休息より、自転車の整備の方が先や。本当に本当に、大切にしている。 翔くんの性格上、大切なものや好きなものは、数えるほどしか無いように思える。自惚れてええのなら、私もそのひとつなのやろう。 捨てて、拒んで、削って。そのくせ、大切なものを独りで抱え込んでは慣れへん重さに押し潰されそうになったり。とことん不器用で愛おしい。 テントの外から歓声が聞こえる。表彰式が始まったのやろか。ああそうや、写真を撮らなくては。別に頼まれてはいないし、翔くんは嫌がるやろうけど。 撮ってるのがバレるとあからさまに嫌そうな表情しはるから、ちょっと遠目から撮ったろ。 そして、彼が大切にしているもののひとつである久屋家のみんなに見せたげるのや。 「きっと、恥ずかしいくらい大騒ぎするやろなぁ」 彼女たちの喜ぶ表情と翔くんの照れる表情を思い浮かべて小さく笑い、カメラを片手に彼のもとへと走る。翔くんの大好きな、黄色を携えて。 いつだって願っているよ (どうか君の大切なものと好きなものが、ずっと君の傍に在りますように) ヒロインの願いは、京伏クラスタの願い。 14.10.16 |