部室に一番に来るのは、マネージャーになってからずっと続けていることだった。 掃除洗濯、ドリンク作りに備品補充、練習メニューの書き出し、雑用なんていくらでもある。それらをひとつでも彼らにさせないために、早起きするくらいお安い御用だ。 部室の窓をすべて開けて朝の空気を取り入れる。昨日干して帰ったタオルを畳んでいると、珍しく早い時間に扉が開いた。 扉の開け方と、目に入ってきたリドレーのジャージで、声が響く前に誰だかわかった。 「おはよう、新名!」 「おはよう東堂。今日は早いね」 「天気がいいからな、山日和だと思ってな!」 「あんたは毎日が山日和でしょうが」 「仕方あるまい、オレは山神だからな」 髪をふわりとなびかせて、無駄にキラキラしながらお決まりの言葉が放たれる。早朝からよくこんなテンションでいられるものだ。 その言葉には特に反応せずタオルを畳んでいると、東堂が机の上のメニュー表を眺めていた。ふむ、と頷きながらひとつひとつ確認している。 真剣な表情で黙っていれば、本当に箱根一の美形クライマーなんだけどな、と心の中で思う。言葉にするとまたうるさいだろうから。 「今日のメニューも厳しいね、でこっぱち副主将」 「でこっぱちと呼ぶな!尽八だ!……あ、そうだ」 思い出したようにロッカーに向かい、鞄の中から綺麗な袋を取り出した。私が座っているベンチに少し距離を空けて座ると、それを差し出す。 受け取ると、開けるように視線で促され、上品な和柄のシールをなるべく丁寧に剥がしていく。 「昨日、家の使いで馴染みの呉服店に行ったときに見つけたのだ。見た瞬間、これは新名に似合うと思ってな」 「……わ、綺麗……」 袋に入っていたのは、華奢で繊細な造りの透き通った青い髪留めだった。両端には水色の朝顔が描かれている。 「綺麗だろう?新名は髪を綺麗に伸ばしているから、きっと似合うぞ」 「あ、ありがとう……」 「本当ならばカチューシャをプレゼントしたいところだがな!だが以前、頭痛がするから嫌だと言っていただろう?」 「……ああ、そういえば言ったね」 結構前の話だ。髪を伸ばし始めたばかりで、少し俯くと垂れてくる髪に慣れず、しきりに髪を触る私に東堂が「髪をまとめたらどうだ」と言ってきたのだ。 だけど髪をひっつめるとどうしても頭が痛くなってしまうし、それは頭を圧迫するカチューシャでも同じことだった。 「その髪留めなら、両サイドをゆるく後ろでまとめられるからな。ゴムでひとつに結わくより、いいと思うぞ」 「ねぇ、でこっぱち」 「……そろそろ泣いていいか」 「ごめんよ尽八くん。ねぇ、私、今日誕生日でもなんでもないんだけど」 誕生日プレゼントやお土産とかならわかる。でもこれは違う。 備品の買い出しついでにコンビニでお菓子や中華まんを奢ってもらったことはあるけど、そんなのともレベルが違う。 こんな綺麗な袋に包まれていたし、東堂の実家の馴染みというなら、その呉服店もきっと老舗なのだろう。髪留めひとつとはいえ、安物なわけがない。 「それは知っているが……、嬉しくないか?」 「ううん、嬉しい。すごく嬉しいよ」 「ならば貰っておくといい。いつもがんばっている我が箱根学園のマネージャーに、オレからの感謝の気持ちだ」 ふわりと微笑まれて、言葉に詰まった。こういう時に、そうやって比較的静かになるの、本当にずるいんだよなぁ。 「……ありがとう、大事にする」 「うむ」 本当に綺麗な髪留めだ。とりあえず今はしまっておこうと袋に髪留めを戻そうとすると、その手を東堂に遮られた。 「付けないのか?」 「え、いや、私、鏡見ないと髪弄れなくて……、朝練の後に付けようかなって」 「貸せ、付けてやろう」 「出来るの?」 「昔は姉の髪をよく結わされていたからな」 私の手から髪留めを取り、ベンチから立ち上がって背後にまわる。東堂の長い指が、私の髪を梳く。 こんなふうに男の子に髪を触られるのは、初めてかも知れない。その上、結ってもらうなんて。こんなにドキドキするものなんだろうか。 「全然指に絡まないな。綺麗な髪だ」 「……一応女子ですから」 「一応も何も、女の子だろう、新名は」 サイドの髪をまとめる東堂の指が耳に当たるたび、変に意識する。東堂は一体どんな表情で、私の髪に触れているのだろう。 「……この髪留めには、色違いがあったんだ。桜色で、描かれているのも桜でな」 「うん?」 「女の子だし、そういう色の方が新名は好きかも知れないと思ったが、結局水色にした。箱根学園のカラーだからな」 ああ確かに、髪留めの、澄んでいるけど深い青は、箱根学園の青によく似ている。色違いだという桜色も、相当綺麗なものだったのだろう。 「それに、これは店の人に聞いたことなのだが、朝顔には、固い絆、という花言葉があるらしいのだ」 「固い、絆……?」 「そうだ。仲間に贈るにはぴったりだろう、この髪留めは」 ぱちん、と音が響く。「出来たぞ」と東堂が私の髪をやわらかく撫で、手を離す。 髪留めはとても軽く、痛みも違和感も無く快適だった。頭痛は起こりそうにない。 「朝顔は毎日きちんと咲くから、真面目な新名に似ていると思ったんだ。蔓が支柱に巻き付く姿も、部員に寄り添う新名によく似ている」 「……臆面もなくそういうこと言える東堂、凄いよね」 「山神だからな!」 「関係ないから、それ。……でも、ありがとね」 多分東堂は、全部気付いてるのだろう。私が、部員に対して引け目を感じていることも。自分の時間を削ることで、それを埋めようとしていることも。 どんなに彼らを支えようと思ったって、女の私に出来ることなんか限られている。 自転車が好きで、自転車に乗っている彼らが好きで、だけどそれでも、一緒には走れない。レース前後のサポートは出来ても、レース中には手を出せない。 インターハイメンバーは勿論のこと、そこに辿り着こうとがんばっている部員の力にさえなれはしない。 同じ道の上に居るわけではないのだから。 そういう気持ちを全部見抜いた上での、この青い朝顔の髪留めなのだろう。 固い絆で、結んでくれると言っているんだ、私も一緒に。 「東堂は、見てないようでよく見てるよね」 「別にオレだけじゃないぞ。新名のことは皆、ちゃんとよく見ている。……皆、な」 「ん?」 「……いや、何でもない」 言葉を濁して、クーラーボックスの中からボトルを取り出し、走りに行く準備を始める。 携帯用空気入れなどをポケットにしまいながらこちらに近付いてきた東堂が、髪留めを確認するように私の後頭部を覗き込む。 「うむ、やはり似合うな!透き通るような青が黒髪によく馴染む」 「そ、そう?ありがとう……」 「誰かに褒められたら言ってやるといい、この山神に見立てて貰ったとな!」 「いや、別に言わないし」 「何故だ!?駄目だ、そこは言ってもらわないと、牽制の意味が無い!」 「……牽制?」 「…………あ」 みるみるうちに東堂の顔が赤く染まる。ああ、そうか、そういう意味もあったのか、この髪留めには。 珍しく「くそっ」と荒々しい言葉を吐く東堂が、愛らしく見えてきた。別に牽制なんてする必要も無いのにな、と今は心の中で思うだけにする。 「東堂ってさ、何で変なところで回りくどいの?」 「うるさい!オレは新名に変な虫が付かないようにだなぁ!」 「あんたが一番変な虫だわ」 「変ではないし虫でもないな!」 独占欲を飾りと化して (静かに美しく、けれど確かに、君のことが好きだと主張したいだけ) お互い好き合ってるけど、まだ付き合ってません。 14.10.03 |