「権兵衛ちゃん、そろそろ起き」
「んー…?」
時刻は朝の七時。ベットの中ですやすやと寝息を立てていた権兵衛の身体を揺すりながら、声を掛ける。自主練の後にこうして幼なじみ兼恋人を起こしに来るのは、御堂筋の毎朝の日課と化していた。権兵衛の寝起きは悪いわけではない。なら何故御堂筋がわざわざ起こしに来るのか、なのだが権兵衛は目覚ましでは起きない。正確には起きても目覚ましを止めてまた寝る。しかも無意識でその行動を行うので、本人は止めた覚えもなければ起きた記憶もない。なので離れた場所に目覚まし時計を設置しても意味が無いのだ。
そのことが判明してからは、ずっと御堂筋が権兵衛を起こしている。恋人になっても、高校生になっても続く、小さい頃からのこの日課のことを、御堂筋はそれなりに気に入っていた。面倒だと思ったことは不思議とない。むにゃむにゃと幸せそうな寝顔を見られるのも、こうして起こしに来る自分の特権だと理解している。
「ほォら、はよ起きんとご飯食べる時間なくなってまうで?」
そして何より、
「うぃ…起きた、起きたで…おはよー、翔くん」
寝起きに見せるこの、力の入っていないへにゃりとした笑顔が好きなのだ。
その締まりのない顔を指でつつけば、柔らかい頬がへこむ。相変わらず高い体温がじんわりと御堂筋の低い体温に移っていく。つつかれているのも別に気にならないのか、へにゃへにゃと笑ったまま、「お腹へった」と呟いた権兵衛の頬から指を離し寝癖でくしゃくしゃの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「とりあえず着替えや。」
「そうするー…」
のろのろとベットから出る権兵衛がクローゼットの前に移動したのを確認し、御堂筋は権兵衛の部屋から出る。寝起きのアレに羞恥心など存在しないが、生憎と自分の頭はハッキリしているし、それなりに年頃の男なので生着替えなど目に毒だ。
そう思って小さく「キモォ…」と呟くと、べろりと御堂筋の特徴の一つである長い舌を出す。そのまま階段を下りてキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けると二人分の朝食のオカズがラップをかけられて入っていた。
それを取り出し電子レンジへ入れ、温めボタンを押す。次にコンロの火をつけ、味噌汁の入った鍋を温め、軽く鍋をかき回し、食器棚から汁椀と茶わんを2つずつ取り出しておく。電子レンジの皿を取り出してもうひと皿を代わりに入れてまた温めボタンを押した。
自分の家ではないが、手馴れたものだ。権兵衛の両親は中一の頃に海外へと旅立った。年頃の娘を放って何をしているのかと思うだろうが、行かないと泣きわめいて暴れ回ったのは権兵衛である。
その理由が翔くんと会えなくなるのは嫌だ、なのだからなんとも言えない。それなら仕方ないか、と承諾した権兵衛の両親も両親であるが、御堂筋としては嬉しいことだった。それからというもの、事あるごとにここへ呼ばれる御堂筋は、家の勝手を熟知している。
くつくつとし始めた味噌汁をまた軽く掻き回して火を止めると、階段を下りてくる音がした。
「お腹すいたー」
キチンと制服を来て、髪もとかした権兵衛が顔を洗い終えキッチンへ入ってくると、そのまま炊飯器の中のご飯をしゃもじで混ぜている御堂筋の背中に抱きつく。ぐりぐりと背中に額を押し付けてくる権兵衛に「動きづらいわ」と言っては見るが、ふふーと笑うだけで離れる気配はなかった。そのまま背中に権兵衛をひっつけたままご飯をよそったふたつの茶碗をテーブルへと持っていく。ことりと茶碗を置いて、またキッチンへ戻ると、温め終わったオカズの乗ったふた皿を持ってテーブルへ。皿を置き、またキッチンへ戻ると、腰に回る手を軽く叩いた。
「ボクゥお味噌汁持ってくから、権兵衛ちゃんお箸持ってきてや」
「分かったー」
背中から暖かい温度が離れていく。少し残念な気がしなくもないが、今は朝食を食べて学校に行くことが優先なので気にしないことにして汁椀に味噌汁を注ぐ。豆腐とわかめの普通の味噌汁だが、出汁のいい匂いがした。それを持ってテーブルへ向かうと、後ろからお箸とコップ二つ、それとお茶の入ったボトルを持って権兵衛がついてくる。
持ってきたものをテーブルへ置いて、向かい合わせに席に着くと手を合わせ、「いただきます」の言葉の後食べ始めた。
「なぁ翔くん、今日の1時間目なんやったー?」
「数学やろ。権兵衛ちゃん今日当たるんちゃう?」
「え゛」
そんなたわいない会話をしながら二人でとる食事は、相変わらず美味しい。昔は料理が得意ではなかった権兵衛がここまで上達したのには、御堂筋とのとあるエピソードが関係しているのだが、それは御堂筋の中であまり思い出したくないものだった。今は普通以上に料理が出来るのだから、まぁそれでいいかと納得しつつ味噌汁を啜る。
壁にかけられた時計をちらりと見ると、少し急いだ方が良さそうな時間だった。権兵衛もそれに気づいたのか、少し食べるペースを早める。
「喉詰まらせんようにしいや」
「んー」
味噌汁を啜りながらそう返事をした権兵衛に些か不安げな視線を送りながら、すっかり中身の空になった汁椀と箸をテーブルに置くと、コップに注がれたお茶を飲み干した。「ごちそうさまでした」手を合わせてそういうと皿を重ねて流しへ持っていく。蛇口をひねって水を出すと、食器にみるみる水が溜まる。少し溢れたところで水を止め、テーブルの方へ戻ると権兵衛のカバンから黄色いシュシュを取り出してまだ食べ終わっていない権兵衛の背後へ立つ。肩甲骨の下ほどまでに伸びた髪を撫でると、くすぐったそうに狭い背中が揺れた。
「髪、伸びたなぁ…」
「切ってないもん」
「切らへんの」
「んー…切らない」
「なんやあるのん?」
「髪短くなったら、結んでもらえんやんか」
背後にいてよかった。いきなり言われた言葉に御堂筋は心底そう思った。もし正面にいたら、この緩んで赤くなった顔を見られてしまっていただろうから。そんなことになったらキモイを連呼するどころではない。穴でも掘って隠れなければならない事態になるであろうと思いつつ、出来るだけ優しくその長い髪をまとめていく。確かに、この手触りのいい髪を触る口実がなくなるのは自分にとっても少し残念かもしれない。いや、触りたければ髪の長さなど関係なく触るが、それでもなんだか嫌だった。
「…キモォ」
「? なんかいうた?」
「なんでもないわ」
右側に首の辺りで緩くまとめた髪を撫でると、シャンプーのいい匂いがする。思わず体をかがめて後ろから抱きしめると、ぴくりと権兵衛の肩が揺れた。嫌がる素振りはないので、そのまま首筋に顔をうずめれば「ふふ…」と擽ったそうな笑い声が聞こえる。抱きしめる腕を少し強めれば、その腕に暖かい手が触れた。ぽんぽん、ぽんぽん、と宥めるように優しく腕を叩かれる。御堂筋の胸には、じんわりと優しい黄色が広がっていた。この腕の中の存在は、自分を拒否しない。この腕の中の存在は、いつでも自分の傍にいる。離れていくことはない。置いていかれはしない。権兵衛の傍は、いつもそんな安心感で満ち溢れていた。
「(…権兵衛ちゃんは、ボクゥのもん。)」
そう思うと口元がにやける。ぐりぐりと首筋に額を押し付けてやれば、優しく頭をなでられる。普段人前でベタベタすることはないが、誰もいない二人だけの時には、御堂筋はわりと権兵衛に甘えることがあった。たった1つだけ、ロードのために捨てようとしたけれど、どうしても捨てられなかったこの存在は、今は何より自分を支えるものになっている。
「あんな、翔くん」
「なァんや」
「遅刻するで?」
そう言われてばっと顔を上げると、時刻は既に遅刻ギリギリ。後五分以内に家を出ても間に合うかどうか。やばい。自分だけなら余裕だが、なにせロードに乗らない権兵衛の登校手段はママチャリである。あかんやばい、そんなことを思いながら俊敏な動きで二人分のカバンを持ち、玄関へ急ぐ。玄関からデローザを出していると、少し遅れてお弁当を持った権兵衛が玄関へ。前日の夜にお弁当を作っておく権兵衛の習慣には感謝した。玄関にかけられたママチャリの鍵を取りデローザを外に出して、次にママチャリの鍵を開けると、靴を履いて出てきた権兵衛の自転車のかごに彼女のカバンとお弁当を突っ込む。
「間に合うやろか?」
「権兵衛ちゃんがロード乗らはったらええんや…」
「無理やわー、こけてまう」
そんなことをいいながら頑張ってへダルを回す権兵衛に速度を合わせて走る。権兵衛は、昔から絶対にロードに乗ろうとはしなかった。御堂筋の走る姿を見ているだけ。何度か両親に要らないのかと聞かれたことがあるそうだが、その度に首を横に振っている。前に一度だけその理由を尋ねたことがあるのだが、その時権兵衛は少し困ったような笑顔でこう言った。
『わたし、あきらくんまってる』
『わたしは、ロードのってがんばっとるあきらくんのやすみばしょなんよ』
『あきらくんがもし、うごけんくなったときあきらくんかついで行けるように』
『わたしは、じぶんの足でええんや。』
『でも、みてるだけはさみしいやんか』
『やから、』
『わたしのこころ、あきらくんがもっといてや』
そう言って笑いながら、渡された黄色の花のついたヘアピン。権兵衛が、とても大切にしているものだった。これをもらっていいのかと少し戸惑ったが、それと同時にとても安心した。自分が権兵衛の心をもっているということは、ほかの誰にもそれが奪われることはない、ということだ。
だから自分はいつでも全力でペダルを回せる。多少無茶をしたって、自分の帰りを待っていて、怪我をしたら手当してくれる。そんな存在が、何より近くにいるから。隣で「うあーはやいーきついー!」と叫びながら走る権兵衛を見ると、これがあの時自分にああ言ったのかと少し笑えてくるが、そのあと自分がやったことを思い出せば、まぁおあいこだ。