日が傾き、街灯にぼんやりと灯りが灯る頃。 珍しく定時に帰れるよう仕事を終えた私は、軽い足取りで会社を出る。 その時、コートのポケットに入れておいた携帯が鳴った。 そのメロディーに、思わず胸が弾む。 「もしもし?緑川さん?」 『今会社帰りか』 「え、はい…そうですけど…」 出るや否や、私が今何をしているのか言い当てる緑川さん。 まさか彼にエスパーの才能があるとは思わなんだ。 何で知ってるの?というのを沈黙に込めれば、彼が電話の向こう側で低く笑った。 『右、見てみろ』 私は携帯を耳にあてたまま、言われた通り右を見る。 車道を挟んで向かい側に、見慣れた車が一台停まっている。 あ、と私が短い声をあげるのとほぼ同時に、その車のウィンドウが開いた。 緑川さんが柔らかな笑みを浮かべながら、此方に手を振っていた。 『俺も丁度帰りでな、良かったら送ってくぞ』 なんならこのまま俺の家に行っても良いがな。 意地悪そうな声でそんなセリフが聞こえて、私は笑いながら是非、と答えた。 「いつもこの道を通るんですか?」 「いや、今日が初めてだ。世良を病院に送ったついでに寄ってみた」 「え、世良君どこか悪いんですか?」 「ああ、くしゃみが酷いらしくてな。風邪かもしれないから一応医者に診て貰った方がいいと思って、さっき病院で下ろしてきた」 「えー…大丈夫なんですか?」 「帰りはタクシー拾うからいいらしい」 「いや、そうじゃなくて。風邪ですよ、風邪」 アスリート…ましてや、いつもぴょんぴょんと飛び跳ねるように元気な世良君が風邪だなんて…。 まあ、ここ最近寒かったり暖かかったりはっきりしない気温だったし、季節の変わり目は体調を崩しやすいと聞く。 「緑川さんも気を付けてくださいね、貴方一人の体じゃないんですから」 「え?」 「サポーターやクラブの人達に心配かけちゃいますからね。緑川さんの存在って大きいんですよ、ほんと」 「…ああ、そういう…」 「え?なんですか?」 「いや、何でもない」 はは、と緑川さんが苦笑する。 何だろうかと不思議に思ったが、見えてきたマンションに心臓がドキリとはねて、それ以上深く考える事は出来なかった。 「久しぶりですね、緑川さんの家」 夕陽が差し込んで赤く染まった部屋の電気を緑川さんが付ける。 薄暗かった部屋を蛍光灯が照らした。 緑川さんがソファーに座って、その隣をぽんぽんと叩く。 私は促された通りに彼の隣に腰を下ろすと、緑川さんがそのまま私の方に手を回してきた。 体が密着するほどの、あまりの距離の近さに思わず顔が熱くなる。 久しぶりに会ったからというのもあって、尚更恥ずかしかった。 「今日は泊まってくのか」 不意にドリさんが声をかけてくる。 恥ずかしさのあまり頭が回らずにいた私は、一瞬反応が遅れた。 「…へ?あ、あー…どうしましょう…」 「明日休みだぞ」 「いや、着替えとか…」 「下着なら、前に泊まりに来た時に置いていったものがあるが」 「え!?」 「安心しろ、ちゃんと洗濯してある」 「い、いやいや、そうじゃなくて…っていうか洗濯って…!!」 緑川さんとの距離で恥ずかしいというのに、その話を聞いて余計に顔が赤くなる。 そう言えば下着が一組無くなっていたなぁ、なんてのんびり考えていたあの頃の私の馬鹿! 余計恥ずかしくなって俯くと、緑川さんの手が私の顔に触れた。 その手は私の頬から顎へと滑り、そしてくっと顔を持ち上げる。 必然的に交わる視線。 彼の眼がすっと弧を描いた。 あ、と思った瞬間に彼の顔がゆっくりと近づく。キスするんだ、と理解して私も目をゆっくりと閉じようと瞼を下ろしたその時、ハッと気付いた。 「待った!」 「え?」 「私まだ手洗いうがいしてない!」 私のその大きな声が、緑川さんの部屋いっぱいに響く。 訪れた静寂、数秒間の空白の後に彼の小さく吹きだす音が落ちた。 「はは、何だと思えば…!」 「わ、笑い事じゃないです!アスリートは体が資本でしょ!私のせいで緑川さんが風邪ひいたら、他の選手やサポーターの皆さんに悪いじゃないですか!洗面所借ります!」 捲し立てる様にそう言い切ると、私はすぐに立ち上がって洗面所へと向かう。 鏡に映った自分の赤い顔がすぐに目に入って、また一層恥ずかしくなった。 くそう、と思いながらカップにお湯を入れてガラガラとうがいをする。喉の奥まで開くようにしながら口内を洗浄し、吐きだす。 流れていく水を見て、この恥ずかしさも一緒に吐きだせればいいのにと思った。 手を洗おうとハンドソープを手に出した所で、鏡に映った緑川さんに気が付く。 鏡越しに目が合うと、穏やかに微笑んでいた緑川さんがゆっくりと私に近づいてきた。 緑川さんの大きな手が私の肩に触れる。 「何もそこまで気にする事無いだろ」 「気にします。緑川さんの大事な体なんですから」 「…なあ、お前、気付いてないと思うがな…」 「はい?」 「それ、プロポーズに聞こえるぞ」 「プ、プロ…!?」 慌てて振り返ると緑川さんがにっこりと笑っていた。 ああ、凄い楽しそう。 「貴方一人の体じゃないとか、大事な体なんだとか…ベタなプロポーズに聞こえるな」 「そそそ、そんなつもりは…!」 「そうなのか?…ああ、そうだよなぁ」 そう言ってふっと不敵に笑った緑川さんが、私の隣に立ってカップにお湯を注いだ。 私は手に付いた泡を流しながらその緑川さんの言葉や笑顔の意味が判らず、戸惑うばかりだ。 緑川さんが豪快にうがいをする音を背中で聞きながら、タオルで手を拭う。 「なあ、ちょっとこっち向け」 「はい……っんむ…」 呼ばれたのに反応して振り返れば、唇に当たる柔らかな感触。 ちゅ、と小さく音をたてて離れていく緑川さんの顔。 一瞬の事で何が何だか分からなかった私に、緑川さんが年のわりに悪戯っぽい顔で笑った。 「俺もこれからは気をつけないとな。お前の大事な体に何かあったら大変だし」 「…え、え!?緑川さん…ちょ…それ、って…」 「うん?こういうセリフは男の方から言うもんだろ?」 プロポーズなんだから。 そうやって笑う緑川さんに、せっかく治まりかけていた熱が再び蘇る。 顔が赤いな、熱か?なんてからかうように彼が私の額に触った。 「風邪なら寝ないとな、じゃあベッドに行こうか」 ゆっくりと私の腰を引き寄せて顔を近づける緑川さん。 風邪じゃないです、と言おうとした私の唇は、彼によって塞がれる。 緑川さんの為なら一生風邪なんて引かないと、彼の腕の中におさまりながらぼんやりと思った。 《風邪はひきません》 Flan:七市さま 戻る |