「ヅラァ、新入りが早速遅刻アル生意気ネ」
「ん、どうした横断歩道を渡れないお婆さんを撥ねたら陣痛起こしちゃったから病院に運んでたのか」
「こういうのは混ぜりゃいいってモンじゃねーや。電車が遅れました」
「貴様徒歩だろう。こういうのは言えばいいってモンじゃないぞ」


【やまのあなたの空とおく】


ジーイジーイジーイ・・・ズィーョズィーョズィーョジィーーーー・・・

今年はン十年ぶりの記録的猛暑だと、今年もお天気お姉さんが言っていた。毎年そんなことを聞いている気がするが、確かに言われてみれば今年の夏は去年よりも暑い。気がする。
今日も全開に襖を開けっ放しにして、小さな書道教室では机を並べて墨を磨っている。エアコンも無い室内がそれでも随分過ごしやすいのは、よしずの作る日陰と、大きな氷を前にして首を振っている扇風機のおかげだろう。最近はあまり見なくなった氷の切り売りも、桂はどこかしらから氷屋を呼んできてオーディオのスピーカーサイズの氷の塊をどかんと大皿に載せる。氷のひやりとした冷気が扇風機の風に乗ってやってくるのは、ささやかながら癖になりそうな清涼感があった。
手元から立ち昇る墨の匂いが畳の匂いと混じって鼻につくたびなんだかいたたまれない。フリとはいえこうして手習いなんかするのは初めてだ。手前に座るチャイナとメガネ、向かいの桂。ここに自分がいるのは何だかひどく場違いで、山崎あたりが諜報資料に撮ってきたビデオでも見ている気分になっている。

「童、墨はそんなにいらんぞ。さてじゃあ貴様はまず平仮名からだな」
「ンなモン書けらァ」
「フフンではやってみろ、意外と難しいんだよォ〜」
「へー。じゃァ書けたらその童ってのやめてくだせェ」
「童だろう。子供扱いはしてもらえるうちにされておけ」
「・・・・アンタにされたかねーや」

ごりごりといつの間にか磨りすぎた墨で硯の中が一杯になっている。山のように積まれて文鎮に押し潰されている半紙を一枚とって「い」の一文字を書くあいだ、気持ちはいつかどこかでしたようなさっきの会話に向いていた。
い、ろ、は、と半紙を墨で濡らしていく。その間も桂はチャイナやメガネにつきっきりで、「リーダー、そこの「エ」と「ロ」は平仮名のほうがいいぞ」とか「「女」がちょっと小さくないか?」とか口を出していた。アイツ何書いてんでェ。

「できたか童。ほら見せてみろ」
「どーでェ。文句あるかィ」

突きつけた半紙の山を、桂は「い」の字から丁寧に見ていった。そして「話にならんな」と見下したようなドヤ顔でニヤッと笑うと、俺の背中に回りこんで二人羽織のように赤い墨のついた筆を握らせた。

「まず「い」はな、こう、ココ跳ねすぎない、あともうちょっと近づけて」

敵将に背中をとられていると思えば、多少なりとも警戒するのが当然だ。童、もう少し腕の力を抜け。と、桂にそう言われてもそれはちょっと無茶な相談だ。
だから身体が強張っているのはおまわりさんとして当然の反応で、絶対そのようなアレじゃない。ねーっつってんだろィ。

「「は」の丸いトコはな、丸じゃなくてちょっと三角気味に書くんだぞ」

添えられた右手は長くてしなやかな、けれど確かに剣を握る男の手だ。いくつか傷跡が見えるけれど、それでもこんなに綺麗な武人の手は初めて見た。
フリのようでも桂は丁寧に教えてくれる。初日に手本を書いて見せたが、こんなに綺麗な手からならばやはり字も綺麗に生まれるのかと、ガラにもないことを思ったものだ。例え手本で書いたのが「人妻」なんて字だったとしても。

「コラッちゃんと集中しなさい!最近の若いコはまったくもォ〜」

怒られた。
桂の添えた手に従って動かしていたつもりだったが、意識が字なぞになかったのは手から容易に知れるらしい。
しかしこんなに耳元で桂の声を聞くのはもう随分、随分遠い昔だったような気さえしていたのだから仕方ない。久方ぶりに聞いた間近の声はするりとあの頃のように入り込んで、最後に声の消える時の息づかいまで憶えていたことに初めて気づいた。たった数ヶ月の、夜の数分間のことを。
最後の電話が切れた日から動きを止めてしまったからくりが、からりと動き出す音が聞こえた。


わかったか?と手を離されて現実に引き戻される。ハッとして視線を上げると、前に座っていたチャイナがこちらを振り向いてニヤニヤと笑っていた。ので、まるで思考を読まれたようなバツの悪さが先にたち、思わず硯をブン投げた。多分大人しく手習いなぞしている自分を笑ったのだろうが。


「おいお前らァァァ!!ちょっと廊下に出なさい!」
「ヅラァ!仕掛けてきたのはコイツのほうアル!!」
「喧嘩ァ売ってきたのはソッチじゃねーか」

早速始まった大乱闘と真っ黒になった畳に桂がブチギれ、折角扇風機が下げてくれた室内気温が一気に上がる。
チリーン、とガラスの風鈴が寄せる涼しげな音に、メガネの溜息がかぶった。











神楽が書いてたのは「燃えろいい女」です







































































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