夏のはしりのような虫たちの声が散らばっている。
衣替えをしたばかりの真白いシャツはとろみのついた夕暮れの空気を含んで少しばかり重かった。
奥のグラウンドではまだ野球部が威勢のいい声をとばしていたが、その瞬間ばかりは何もかも無音で、ひりつくような緊張がシャツ越しに腕を刺した。

「先生、」

声をかけて、振り向いたその顔がちょっとでもメンドくさそうだったら挨拶だけして帰ろうと決めていた。
おうヅラ、今帰り?生徒会は毎日遅くまで残ってんなと言う彼の眼鏡の奥に俺を邪魔にするような色はなかったのでホッとする。
先生の帰り道が、駅に向かって伸びる大通りまで一緒なことは知っていた。今日の目標はそこまで二人で歩くことだ。愛用のシルバーのベスパに跨りかけた先生の隣にするりと入り込んでしまえば、彼はエンジンをかけることを諦めて押して歩いてくれる。


【メランコリー・ベイビー】


夕焼けが夜に変わっていく空はまるでテレビの中で見る、丁寧に作られたカクテルのようだ。グラデーションのかかる空はぱっと広がるネイビーのベースに、グレイッシュブルーからオリーブの層、ピスタチオグリーンの底。そのうちにぱちぱちと、スパークリングワインの泡のような星がだんだん昇ってくる。

「もう夏ですね」
「あー衣替え今日からだっけか。いいねオメーら涼しそうで」
「昨日までの暑苦しさを先生にも教えたかったです」
「ヅラが暑いのはアレじゃん、ヅラだからじゃん」
「ヅラじゃありません桂です。先生訴えますよ」

正門を出てすぐに、大きな公園がある。これを曲がって坂を下りると小さな交差点があって、少し向こうのバス停に吹奏楽部員らしき女子生徒が何人か駆け込んでいった。バス停の向かいの神社の隣を過ぎると、ずっと陰になっているせいかそこだけひんやりとして、袖の内側をぞくりとさせた。
大通りに続く細い道を、先生はスクーターを押してそれだけでもう二人ぶんの幅をとって歩いている。
スクーターは重いのだろうか。先生は歩いているときはするすると楽に押していくけれど、信号を待って歩き出すときに「よっ」と必ず声をあげる。

「ん?なに、ヅラもこーゆーの興味あんの?卒業したら免許とれるもんなァ」

じろじろ見ていたのがばれたのか、先生は愛車と俺とを見比べてにやりと笑う。
そういうんじゃないです、と俺は憮然として言い返した。確かに俺は先生のスクーターを見ていたけれど、スクーター自体はどうでもよかった。そのとき俺は先生のスクーターを見ながら、その重さも知らない俺と先生の年の差を、それからそのスクーターに二人乗りをしてその白い背中に思い切り腕を回しても決して噂にはなれないだろう俺と先生の性とを思っていたのだ。
寄せた眉根を慰めるように、夜の涼しさを含み始めた風が額を通って髪を散らしていく。このまま一緒に流れて先生の髪を撫でたい、と思った。

人が住んでいるのかいないのか知れないような古いあばらやに、「よしず あります」と何度か雨に晒されてごわごわになった紙が貼られている。鳩が中を歩く音が聞こえるくらい穴だらけでボロボロになったアーケードの下で小さな書店が学生のために細々と店を開けている。商売になっているのかわからない安値できゅうりを売っている八百屋の軒先を他愛もない話ばかりしながら二人で歩いていれば、まるで同じクラスの同級生と一緒に帰っているようだ。けれど、先生が見えないように慎重に会話を選んでくれているのがわかるので、たっぷり気分に浸ることができない。
先生と生徒であることを押し出したら、俺が思いつめてしまうことをきっとこのひとは分かっている。
トタン屋根の古い民家の前を通り過ぎたら、換気扇に押し流されてその家の匂いと味噌に溶かれたニボシの出汁の匂いが鼻をくすぐった。何故だかよくわからなかったが、その瞬間ひどく泣きたくなった。

「あー、腹へったな」
「そうですね」
「お前こんな時間まで学校残ってて、母ちゃんから文句でないの。晩飯とか」
「まあ、高校生なんて皆こんなもんじゃないですか」
「・・・それもそーか」

部活に精を出す奴、塾通いの奴、バイトする奴、遊ぶ奴。みんな理由はさまざまあれど少なくともうちのクラスの連中で早々に帰っている奴がいるようには見えない。クラス担任である先生が彼らの顔を思い出さなかった筈はなく、俺の言葉にもどこか遠くを見て苦笑した。
二人と一台は古めかしい細い通りを過ぎて、突然平成の世に放り出すような大通りへ続く横断歩道を渡った。家路を急ぐ車が何台も通りすぎ、その廃風に煽られて生き急ぐような気持ちになる。
早く卒業したい、と突然そんなことを思う。

「・・・先生は、」

駐車場を過ぎて、コンビニを過ぎて、もう閉まってしまった銀行の角まで来たとき、俺は足を止めた。
この四つ角を先生は曲がらない。あの信号が青になったら、俺は横断歩道を渡ってひとりになる。
あの信号が青になったら。

「仕事、遅くなって文句でないんですか」

空はすっかり深海のような色のカーテンを敷いてしまった。その底で魚たちが息づく気泡が昇るようにささやかなビジューがそこここに散っていたはずだけれど、無粋な音をたてて通り過ぎる車のヘッドライトや街灯のけばけばしい光が邪魔で、よく見えない。だけどその白々しい光に上から横から照らされる先生の横顔は秘密を隠した大人の男の顔で、もうどうしても縋りついて泣きたくなった。

「・・・自由な独り身だからね」
「・・・」
「お前、そこ曲がるの。俺は真直ぐ行くけど。信号変わってんぞ」
「もう、点滅したから。・・・一回だけ見逃していいですか」

点滅した信号に背を向けて、俺は先生に向き直った。
後ろではきっと信号が赤い光を点している。赤いライトが点るたび、心のなかにも赤い染みが落ちてくる。
それはどんどん膿んで、じゅくじゅくと嫌な音をたてながら俺のなかにしたたり落ちてくる。
もういっそこのなかに溶け込んでしまいたかった。そうして先生のシャツに消えない染みを作ってしまいたい。神なぞ信じてはいないけれど、ああでも神様、これが恋じゃありませんように。こんな、どうしようもなく息苦しくて、胸に顔を埋めてみっともなく泣いてしまいたくて、その腕の動きや目線のひとさしに生殺与奪の権を握られているような、こんな気持ちが恋ならもう恋なんてしたくない。

空が秘密を隠すように世界を深海の底に沈めたせいで、空気はすっかり変わってしまった。困ったように、少し泳いだ視線の先生の表情がそれを物語っている。しばらく言葉を探していて、やがて諦めたように溜息をひとつつくと、がしがしと頭を掻いた。
俺はその様子をじっと見ていて、やがて少しいらいらしてきた。これだけ得体のしれないものでこちらを振り回しておいて、自分も戸惑っているかのようなふりをする。じれったくなるのは、いつだって未熟な少年が先なのだ。
そうしてその問いかけひとつで、深海の底にいる俺の呼吸の一切を奪ってしまう。

「・・・独り身はこたえんぞ。お前もいいトシんなったらさっさと結婚しちまえ。大体がお前恋とかしたことある?」

それはたとえば、授業中に教科書の陰からちらりと俺のことを見てきたり、手伝いを請われて行った国語準備室で一挙手一投足に絡みつくような視線を遣られたり、手元を覗き込んで耳元で喋る低い声に不自然な熱が籠っていたり、そういうことをする人の気持ちと似ていますか。
あるいは、その白い癖っ毛を掻き回して、眼鏡なんてすっかり外してしまって、その腕に絡めとられてその唇に身を任せたいと、今俺が思っているような、そんな気持ちですか。
恨みがましい目をして、よっぽどそんな意地悪を言ってしまいたかった。けれどそれじゃあまりにも露骨すぎて、かえって言いたいことから外れていってしまう気も、した。
さっきまで逃げようとしていたくせに。突然、俺にこの気持ちの吐露を求めるようなことを言う。もしかしたらさっき赤いライトに溶け込んだ俺の染みは、すでにどこか先生のところへついていってしまったのかもしれなかった。

車の動きが止まった。ふ、と、振り向いたら横断歩道の信号は二度目の青に変わっていた。ああきっと、俺の赤い染みはもう一切合切あの青い波に誘われて、先生へ寄せていってしまったのだ。


「・・・先生、俺は、もう一度あの青信号を見逃したいんです」



群青の海の底で、呼吸を奪われたもの同士、赤も青もわからないほど溺れてしまえたら、こんなに幸せなことはないと思っている。
後ろからバックライトを浴びた先生のシルエットが、ひゅっと息を呑んだ。
最後の泡沫がぱちんと消えていく音がした。



































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