※1杯のラーメン回ラストちょい前くらいの話




「そんで、好い人できちゃったの、彼女」

年の瀬の迫る寒空から、逃げるように滑り込んだ屋台の中はもうもうと立ち上る湯気の熱気で随分と暖かかった。
傷だらけの板張り机にだらしなくつっぷして、最後の客が帰っていくのを横目で見送った。ぽつん、と残された屋台に、ザァザァと古いラジオが演歌を流す音がする。

「ン・・・、多分ね」

この時間じゃもうあと客は来ないとふんだ親父がもう何本目になるかわからない熱燗を渡してくれる。
チロリの中はまだ随分と酒が温められていて、彼はぽってりとした猪口をもうひとつ取り出した。どうやら彼は、自分の屋台に居座ってぐずるこの一見して好いた女にフラれたらしい憐れな白髪頭を、今夜の晩酌の伴にしてくれるようだった。


いやいーの、アイツだっていつまでも中学生じゃねーんだからさぁ、恋ぐらいさぁ、

もーむしろね、アレだね、念願の未亡人だからね、今後一生こんなチャンスはねーっつーか

もうずいぶんこうして不毛な呟きをぐずぐずとやっていたせいで、いつからか皿の上のおでんはすっかり冷めていた。
さっき食べた玉子の黄身で濁った汁に残ったがんもを浸して、ちみちみとつつくなんてケチな食べ方をしていたものだから、旦那まずァ食べ方男らしくするってのはどうだいと嫌味を言われてしまう。
男らしく、男らしくね、なんて言いながら、なみなみ注いだ猪口をひといきに飲み干すのは、もうどうしようもなく酔っぱらいの所業だ。

「あーあー」

「・・・・・・ガキの頃から一緒にいたの。
アイツクソ真面目でカッチカチだったからさァ、野山駆け回ってちょっとイイトコみせてやると、目とかキラッキラさせてね」

幼なじみなんだよと、言ったら親父がありがちなこったと苦笑した。
いくら呑んでも気温に嘘がつけない銀時の指先にも、しっとりとした白磁の銚子がじんわりと染みてゆく。
とくとく、と景気のいい音がふたつ響いた。
親父は立ったまま猪口をくいっと口へやって、明日の仕込みか鰹節を大鍋にぐらぐらとぶちこんでいる。聞いているやらいないやら、しかしその方が愚痴るほうとしては話しやすいのだ。

「アイツん中で俺ちょっとしたヒーローだったよ。川で魚とってやると「おまえはすごいな!」とか、近所の雷ジジイん家の柿とってくっと「さすがは銀時」なんてさァ、」

「なんかそんなでずっと一緒にいたよ。・・・戦争も、行ったし」
「旦那攘夷志士だったのかい。いや人は見かけによらないねぇ」

底冷えする足元のせいで、外の雪催いは知っていた。未亡人をモノにしかけている美しい幼なじみに意識をやられているせいで、それからもうどれだけ呑んだかわからない安酒のせいで、あまり気にならなかったけれど。それでもたまに銀時の、その仄かな疚しい期待を冷たい手で拐っていってしまう。
つっぷした薄い机の上で大鍋から立ち上る湯気を寺の線香の煙のように浴びている。鰹節の出汁の匂いじゃ、煩悩はとれやしない。

「10年くらいぶりに会ったの。俺が放ってきたから、恨み言もあんだろと思ったけど」

逃げるぞ銀時、と菅笠の下から変わらない眼差しを向けられたことを思い出していた。あの一瞬で今まで離れていたことが嘘のように、まるで昔の続きのように走り出せて、それがあの時は怖かったのだ、と銀時はもう録にまわらない頭で記憶をたぐっている。
無言で差し出された手に空になった皿を渡した。洗うのかと思いきや親父は鍋から煮崩れた具を適当に盛ってくれている。冷え切ってしまっただし汁はやにわに温もりを取り戻した。
じゅわ、と白いはんぺんが噛んだ先から溶けてゆく。

「あンだろーなァ・・・。しれっとしてさァ、相変わらず構ってくんの。堪んねーよな・・・」

置いていった理由は、銀時しか知らない。いつまでも口を割る気はないのだから、置いていかれた者の絶望も恨み言も、そっくり残っている筈だ。
置いていかれた男の真意は、彼しか知らない。
ザァザァと遥か遠い過去から聞こえてくるかのような演歌は、時々梅雨の晴れ間のように明解になって、また曇る。哀愁のなかから艶を引き出すような、少し掠れた年増女の声が銚子のなかに沈んでいった。

カランコロン、と橋の上を高下駄で通う音がふたつ過ぎていく。

「戦争出てたんなら、もう10年近く経つかねぇ。そんだけの間よく気持ちが保ったモンだ」
「・・・いやそれまでイロイロ遊ばなかったとは言わねーけどさ・・・」
「はっはァ、初心でもねぇのにこんなンなってんじゃ、旦那相当惚れてんねェ」

不機嫌そうに唇を尖らせて乱暴に首元を掻いた銀時の、その耳元が赤くなっているのを同じく酔っ払いの親父は慣れたものといった風情で見抜いてみせた。うるせー親父この屋台寒ィんだよ、と猪口をひといきに空にしてみせると、親父は我侭を言う子供に根負けしたような苦笑でもってチロリから酒を銚子に足してくれる。その間にもたまにちらちらと小雪を含んだ風が暖簾と赤提灯を僅かに揺らして、ぽっぽと熱の篭る銀時の身体を少しばかりか冷やしていった。
熱い酒を流し込んだら、喉元から仄かな甘さがアルコールの蒸発とともに鼻に抜けていく。それに酔ったふりをして、銀時はカン、と気持ちだけは勢いよく猪口を机に打ちつけた。

「わかるでしょー?ムダにカワイイ顔したのがずーっと構ってきて「すごいな」「さすがは銀時」なんて言われ続けてさァ、調子乗っちゃってさァ、」

挙句の果てにはこのザマだよ、とどんどん萎んでいった銀時の呟きは最後まで聞き取れたものか知れない。
にわかに勢いを取り戻してはあっという間に沈んでしまった酔っ払いを鍋の片手間に相手にしながら、「そりゃ男ってモンだ、どうしたってしょうがねぇや」と親父は身に覚えのある風でかかっと笑った。
ぐらぐらと煮え立つ大鍋の湯気にまな板の上の大根が揺れて見える。
しかしねぇ。親父の呟きに乗って大きな大根がぶつ切りにされていく。ちらりと前を見ながら、銀時は結んだ昆布を奥歯でなんとか千切った。使い込まれたまな板に、瑞々しく白い丸太が並んでいく。
女ってのァたまにどうしようもねえほど馬鹿だが、それが可愛いところじゃねぇか。花にゃ盛りってモンがあるんだからよ、暇じゃねぇわな。それをよ、え、追っかけてきてずーっと構ってくるなんざぁ惚れた男相手でなきゃやってらんねぇだろうよ。そりゃ旦那、腰のひとつもかき抱いて口のひとつも吸ってやんなきゃ男じゃねぇやな。旦那のほかに惚れた男なんざあるものかってんだよォ。
するすると手元の大根の皮が落ちていく。気風のいい親父の啖呵にそうだそうだ、と一瞬だけ盛り上がって、しかしその勢いも酒の一息で萎んでいってしまった。


「言ったじゃん、俺アイツ放り出してさ・・・、
・・・・・・好きだョ、なんて今更、」

机にだらりと伏したまま、しばらくもう言葉もなく中身の減った銚子がどんどん冷えていく。だし汁ばかりたっぷりの皿と薄青の線の入った白磁の猪口と目線をおんなじにして、ぼろの机のキズを数えていた。
猪口の底に少しだけ残っていた、冷えきった酒をぐっと煽って。喉にべたっとした甘ったるさを感じながら、またつっぷした。
瞼を閉じれば懐かしい顔が浮かんでは消える。険しいツラばっかしやがって、目っから笑うってことをしねーからオマエはカワイくねーんだ、あ、うそ、嘘ばっか言った今、何たってオメーは一等カワイイ、とびきりだ・・・。
身にまとわりつく酒臭と鰹節の匂いにまどろんで、思い出したように揺れる赤提灯を後ろに白い背中が丸くなる。ちらりと椅子の下に目をやればちらちらと舞い込んだ小雪が真っ白で、それがまるで花嫁衣装のようだ、と滲んだ視界に映しこんだ。




酒の温かさが抜けていって、ぞくりとした寒気を腰元に感じたものだから、やっと帰ろうという気になる。
親父に金を渡す頃には酔いは随分醒めていた。
明日の仕込みをとうに終えた親父はザァザァと聞こえない演歌を聞きながら、鰹節の匂いにまみれてちびちびと杯を重ねている。
屋台から出ていく足元に、ザァザァと演歌が追いかけてきた。




「彼女、家どっちなの」
「あっち」
「情けないねェ」
「・・・愚図なモンで」








【祭りのあと】



(悪さしながら男なら 粋で優しい馬鹿でいろ)































































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