梅雨を過ぎて若葉はいよいよ青く茂り、日差しは勢力を増してくる。
6月も半ばを過ぎて、夏の足音が聞こえてきた。


【シーラカンスに伝言 6】


『えっ』
「何だ、俺では不満か?」
『そんなことないです』

斉藤はノートが揺れるほどぶんぶんと大きく首を横に振った。
もう定番になった2人の帰り道。最近バイトを始めたらしいエリザベスは、昇降口で桂を待っている斉藤をひとしきり殴ったあと、急いで帰っていってしまう。近所のスーパーのバイトらしいのだ。あんなのがレジにいたら怖いし商品陳列のために通り道を塞いでいたら著しく邪魔ではないかと斉藤は思うのだが、今のところ特段の問題もなく続けているという。ご近所のマダムの人気者なのだぞ、と桂はまるで我が事のように誇らしげな顔をしてみせた。
だが今そんなことはどうでもいい。斉藤は途端に乾きだした喉の奥で何とか言葉を探そうとした。

『散らかって・・・ますけど』
「構わん。いずこも同じだ」
『あと、親が共働きなので、帰りが遅くて』

6月も半ばを過ぎて、学生たちの一部は定期試験のテスト勉強に励みだしていた。進学の目安、友達と競争、留年の危機。皆さまざまに理由はあれど、それなりに頑張っている。そしてそれは進学を予定している桂も斉藤も同じだった。学年も違うので普段一緒に勉強することなど無かったが、斉藤が数学が苦手だと言ったら桂が教えてやると、こうきたのである。更に図書室では話ができないからと、帰り道の途中にある斉藤の自宅で、とご所望が入ってしまうに至り、斉藤の動揺はMAXに達しているのである。
自分の書いたノートを見て、その続きに斉藤は窮した。親の帰りが遅くて、の後に何て書けばいいのだ。『それでもいいですか』とウッカリ書きそうになった。親の帰りが遅いけど、2人っきりだけどいいのかなんて、それはもうアフ狼になっちゃいますよと言わんばかりだ。友達になりたいなんて思っていた頃の自分に張り倒されかねない煩悩に負けそうだ。しかしそんなあからさまな下心は、

『・・・お構いも、できませんが』
「ふ、別にもてなしてもらいに行くわけじゃない。構わんさ」
『はい』

勿論出せるはずもなく、斉藤はその後桂とどんな話をしたのかも思い出せないまま、気付くと桂を自室に招いていた。

「お邪魔します」と律儀にことわって桂が部屋に足を踏み入れる。桂がいる、というだけで、自分の部屋が突然知らない空間のようになるのが不思議だ。そもそも人を招いたことなどない自室だけれど、それが、まさか、よりによって、手が届かないはずのこの人だなんて。
一応簡単に片づけたけれど、掃除機をかけたほうが良かっただろうか。芳香剤も置いてないけれど臭かったりしないだろうか。見られて困るようなものは置いていないと思うけど長く住んでいるともうドコに何があるやら、と斉藤は気が気ではない。けれど桂はお茶を運んできた斉藤に「ありがとう」と礼を言っただけで、特に何か詮索するようなことも見たり聞いたりしてはこなかった。

「では始めるか。早速だがどこでつまづいてるんだ」
『この問題の・・・解説が何を言っているのか理解できなくて』
「ああ・・・。では少し遠回りになるが、教科書のこのへんまで戻って」

小さなローテーブルを囲んで、教科書を覗き込む桂との距離はいつになく近い。そのほっそりとしたしなやかな指に、伏せる睫毛の長さに、ドキッとしない訳ではないけれど、それでも斉藤が勉強に集中できたのは、ひとえに桂の教え方がとても分かりやすいからだ。
前提になる知識を根気よく教科書を遡って確認してくれる。トリッキーに見えた問題も、どこから出てきたのかよく分からない式が唐突に前提のように出てくる解説も、そうした前提知識と新しく習った知識の積み重なっていくさまを丁寧に説明してくれる。

『すごい』
「ひとつひとつは難しいことはない。それぞれがどういうロジックで繋がっているのかを理解できればな」
『塾とか、行ってるんですか』
「いいや。国立大の入試問題はどんなに難しくても教科書の知識の応用で解けるようにできている。教科書の記述を正確に理解することと、あとはひたすら問題を解いてみることだ」

俺は私大を受ける予定はないし、と桂が呟いた。桂が早くに両親を亡くし、祖母とエリザベスの3人(?)暮らしだということは、斉藤も以前桂から聞いていた。国立大に絞っているのは経済的な事情もあるのだろうが、とはいえ桂の第一志望大学は斉藤にとっても少々難関だ。斉藤だって学力に問題がある訳ではなかったが、桂を追いかけるためには相当努力しなければならないと焦っているのである。その焦りがこの状況を生んでいると思えば、いくらでも頑張れそうな気もしているのだが。

「あとは教師を最大限利用することだな。ウチの学校質問に来る奴なんて滅多にいないから、喜び勇んで教えてくれる。高校の学費だけで家庭教師をつけるようなものだ・・・ああでも、」

桂は少し苦笑するような、困ったような顔で笑った。

「銀八先生は気をつけろよ。すぐ話が脱線するから・・・あと数学だと坂本先生もな。熱心に教えてくれるのはいいんだが、デカい声で1時間でも2時間でも喋るんだから」

放課後に、
ひとり教科室を訪れて、銀八先生に他愛もない話ばかり振られて焦れる桂を、何時間も坂本先生の話を聞いている桂を、斉藤はあまり想像してみたくはない。
それは教師と生徒の理想的な姿のはずなのに、どうしてか心が急いて、じきに頭を振ってそんなものを追い出してしまう。桂のことになると随分と器が小さくなってしまって、そんな自分の心の稚拙さにほとほと嫌気がさしている。だって、きっと、そんな小さな男のことを、桂が好いてくれるはずはないのだ。
憂う横顔に西日が差して、チカッと反射した日光が目を刺した。
思わず顔を背けた斉藤に気付いて、桂は窓辺に視線を向ける。そして挑発的にちかちかと光る、ひび割れだらけの薄いガラス細工に目を見張った。

「・・・あのビードロ、」

淡いオレンジ色のビードロは、ガラスが割れてもう涼やかな音など出せそうにない。けれどひび割れは丁寧に繋ぎ合わせられていた。
修学旅行の帰りに、桂が斉藤に買ったものだ。沖田に囃されて、長谷川に宥められて、真っ赤になって怒りながら、結局。
そこまでして買って来たのだからと、帰りをハチ公のように喜ぶ斉藤に、自信たっぷりに渡したのだった。忘れられない。あの、箱を開けた斉藤の、反応に困った顔を見たときの、胸の締め付けられる思い。
取り扱いには注意していた筈なのに、バスや電車の中で揺られたのが悪かったのか、斉藤が開けたときにはきらきらとオレンジ色の破片が白い箱の中に散らばっていた。
その時の自分の落胆ぶりを桂はまだ昨日のことのように思い出せる。ガラスと同じ色の髪を揺らして、おそるおそる、ぽぺん、とビードロを吹く斉藤を見てみたくて買ったのに。箱の中に散らばるガラス片を見て落ち込む桂を、斉藤は必死にフォローしようとしてくれていた。そんなことをさせたかった訳ではないのに。

「自分で直したのか」

思わず席を立って窓辺に向かった。本棚の上に置かれた歪なビードロは何とか自立しています、といった危うげな姿でコースターの上に飾られている。遠目で見れば綺麗に見えたけれど、近づいてみると継ぎ目はズレているし、何とか接着剤で繋がりましたというような風体だ。きっと、手先が器用な方ではないのだろう。怖い顔をして、一生懸命繋ぎ合わせようとする斉藤の顔が目に浮かぶようだ。
桂は触れてみることはしなかった。自分が手を出してまた壊れてしまったら、きっと今度は泣いてしまう。けれど斉藤の戸惑いがちな手の入ったビードロは自分が買ったときよりも、ずっと綺麗で愛しい姿になっている。

「・・・そうか」

ゆるゆると口角を上げて、優しげに目を細めた桂、を、斉藤は見ていられなかった。知られぬように目を逸らし、罪悪感の紐で心臓を締め上げられている。
そんなに嬉しそうに見ないでほしい。恥ずかしくて、居たたまれなくて、死んでしまいたくなる。
歪になったビードロはまさに自分の心のままだった。せっかく桂が綺麗な姿を望んでくれたのに、一度砕けたそれはどれだけ時間をかけても歪んだまま。もう元の綺麗な姿を桂に見せることはない。ビードロを割らずに渡してくれていたって、きっと、そんな綺麗なものは自分が触れたら壊れてしまうのだ。それでもまだ繋がりを求めるように、粉々になったビードロを繋いで接いで、飾り続けるこの身の浅ましさを憐れんでほしい。

『桂さん、・・・送ります』

嬉しそうな顔のまま振り向いた。長い髪の毛筋がさらりとビードロに触れた。
その美しい画を見るだけで汚してしまいそうで、誤魔化すように視線をノートに落とした。




【今日は有難うございました】19:27既読
【ああ。お互い期末では良い結果が出るといいな】19:28既読
【桂さんが教えてくれたので、きっと大丈夫です】19:28既読
【また分からないところがあったら言うんだぞ】19:29既読
【はい】19:29既読









 























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