たとえばそれは垂れてきそうな蜂蜜色の月の下に、
ジジッ・・・と仰向けに転がって青白く照らされる蝉の一足一足、その動きを
じっと見守ってやりたいような、蹴り飛ばしてジャリッと踏みつけてやりたいような。




【クレイジー・エラへ捧ぐ】


たった1日違うだけで暑さに変わりがでる筈はない。けれど9月1日の太陽は、昨日までの夏の開放感をどこかに置いてきてしまったような気がする。
と、いうのは、夏休みなんてものを満喫して育ったせいで、大人になってもその感覚は身体のどこかに残っている。
開け放った縁側の向こうから、ひぐらしの遠い声が響いてきた。

「だからって艶女はないだろ」
「いやリーダーが是非にと言うから・・・ウチとしてはそういう生徒の自主性をだな」

チリーン・・・とそよぐ隣の家の風鈴が涼しい。音色泥棒め、と言ったら風流のうちだと一時の家主は笑った。ここひと月ほど住んでいるこの家は、風通しが良くて気に入っているらしい。
神楽が昨日まで通っていた書道教室の先生は、夏のあいだの丸眼鏡と大きく結いあげた髪をすっかり元通りにしてしまった。べたつくような暑さのなかでもさら、と肩にかかるそれが憎らしい。
習字が課題なんて、小学生の冬休みだけかと思っていた。お世辞にも字が上手いとはいえない神楽は、1カ月ほどで見違えるような整った字を書くようになった。特に画数が多くてアデージョな感じの文字はお気に入りで、良く持ち帰ってきた。提出したのは、もうちょっとマシな(それでも大分アレな)言葉だったようだが。

「そーいや沖田は何でいたの?」
「ああ、なんか艶男って書きにきた。書かないうちに終わったがな」
「エッちょっと何ソレ、まさかアイツウチの神楽ちゃん狙い?艶男に艶女なの?足りてねーよイロイロなモンが」
「何ィィィ駄目だダメダメ!ウチのリーダーに男女交際などまだ早い!!今度リーダーに指一本触れたらたたっ斬ってくれるわ!」
「いやそれがさァ神楽こないだカレシとか連れてきて」
「かっ・・・!?オイ銀時貴様ちゃんと殴りとばしたろうな!」
「するかバカ。まー諦めてお国に帰ったけどよ・・・そういうオトシゴロなのかねアイツらも」
「みっ認めんぞ・・・俺は認めん、リーダーが・・・リーダーがお嫁にィィィ」
「やりません!!気が早ぇーんだよオメーは!」

泣き崩れた桂の熱に溶かされるように、グラスの中の氷がカランと揺れた。来たころよりも少し薄くなった麦茶でちびちびと唇を湿らせて、それでまた、次の言葉を探している。
ブーン・・・とレトロな扇風機が前髪を揺らしていった。

「アイツ別に夏休みでもねーだろ。よく付き合ってたな」
「そうだな。まあ夏祭りあたりから来なくなってたが・・・昨日顔見せにだけ来たかな」
「暢気だねオマエら。警察とテロリストじゃねーのかよ」

柱の影が箪笥にかかって部屋を少しばかり暗く見せている。
西日が天井を赤く染めて、黒い影もふたつ伸びる。
俺の影が桂の影に重なる、そのいっそう濃いところは、あの祭りの夜と同じ色をしていた。
夏祭りから、ねぇ。
桂と沖田を呼ぶのに合わせて、たまに会いに(というか、見に)来ていた山崎をつっついて肝試しに来させたのは俺だ。夏祭りデートとか、適当なことを言って。たまには別途礼をした。
あの神社は高い階段の先にあって、下からの風が強く巻き上げてくるのは知っていた。あんなに緩く結っただけの桂の髪は解けやすいということも。
けれどいくら時間を合わせたって鉢合わせるとは限らないし、桂の変装には気づかないかも。大体風が吹くタイミングなんかこっちの都合でどうにかなるモンじゃないのだ。
だからそんなものは恋する少年の障害にもならないだろうと、冗談まじりの意地悪だったのだが、まさかサイアクの事態を引き当ててくれるとは。

「・・・意外と運は悪いのかね」
「ん?何か言ったか銀時」
「麦茶おかわりって言った」
「横着するな。自分で注げ」

ここは桂の家で、俺は客人のはずなのにこの扱い。それでもへーへーと言って重い腰を持ち上げるのは、礼に厳しい桂がそんな態度をとる客はたぶん世界で3人だけで、そのなかでも俺は1番遠慮のない1人だからだ。
それがどういうことなのか、俺も桂もわかっている。

暗い台所でグラスになみなみと麦茶を注いで、開け放された襖のへりから見下ろした桂の頭は西日に照らされていた。橙色の縁取りに鉛色のシルエットが、卓袱台の向こうにのんびりと座っている。箪笥の上の時計の、秒針の音が妙に響いて、なんだかそこだけ時間を切り取ったみたいだった。
扇風機があるのに、手持ち無沙汰なのかたまに右手で団扇を揺らしている。濡れた手でピアノ線をなぞるようなひぐらしの声が、揺れた風に融けていった。
外の、水分をたっぷり含んだ土の匂いが畳の匂いと混じって、扇風機に流されてとりついた。
西日の差した、桂の髪。流水のようにすとんと落ちるその先の白い顔が赤く滲んで、色と憂いの影を目の端や唇の下に落とす。
見慣れた、その顔。

「・・・アイツさ、」

柱にもたれたまま、台所の影を背負って西日を眩しく見ている。
夕陽にたっぷり浸った桂は顔を上げて俺を見た。陽の光から顔を背けて、影になった顔が俺に向かう。
いつか、人待ち顔で夕陽に染まっていた顔を思い出していた。春先に焦がれた目を隠すようにして西日を浴びていた少年は、夏に待ち人の隣で西瓜を齧って、僅かな夏休みを噛みしめた。
「そういうオトシゴロ」の少年は、容赦なく臆病な大人を炊き付ける。

「神楽じゃねーだろ」

俺から逸らされない桂の顔の、その琥珀色が少しだけ揺れるのを、見抜くのは昔から得意だった。けれど影で隠れてしまっている今はそれがよく見えなくて、俺は桂の心境を、少し戸惑うように寄せた眉からしか推し測ることができなかった。
言葉の途切れた隙間に、ブーン・・・と扇風機が首をふる無機質な音だけが滑り込む。

「・・・銀時」
「絆された?」
「賭けを、した」
「あっそう」

何の賭けだか知らないが。
たぶん、博打が勝敗を決したときが俺のタイムリミットだ。2人して色んなモンを抱え込んで、きっと地獄まで一緒にいるだろうこいつに対する、疚しい色の。
互いに抱えている相手に対する執着は、きっと一生俺たちから離れていかないだろうから。
桂は何かを待っているような、悲しげな顔を一瞬だけ隠せなかった。そのすぐ次の瞬間には、いつもの無表情に戻ってしまったが。
でも桂、俺にはそれだけができない。あの瞬間の、あの感触を知ったあの腕で、この腕でお前を抱き寄せることだけは、どうしても、できない。桂も、それをきっと嫌というほど知っている。
こいつを腕に抱き寄せられないのが俺の臆病なら、それを暴き立てて飛び込んでこられないのはこいつの臆病だ。世界一近い俺たちの距離は、世界一長い俺たちだけの時間は、こんな臆病もまるごと包み込んでしまう。だから俺は綱渡りの先をじっと見ていることしかできず、桂はそんな俺を見てみぬ振りすることしかできない。

だから桂は賭けたのだろう。あの少年が、いつか桂のどこかを壊してくることに。


「ヅラ」
「ヅラじゃない桂だ・・・」
「・・・泣くなよ・・・」
「泣いてない・・・」

確かに涙は、出てないけどよ。

いつの間にかひぐらしの声は溶けきってしまっていて、顔を上げた向こうの空から沈むような藍色が伸びていた。
隣の家の風鈴が、またひとつ鳴った。
ひんやりとした西の空気が畳に混じって、それが扇風機にのってやってくる。
桂の前にしゃがみこんで背中を撫でてやりながら、否応なくこいつと歩んでいく先のことを、考えている。




























































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