春雨じゃ、濡れて参ろう―――
 
半平太でも気取りたくなるような、晩春の雨の夜だった。
しと、しとと控えめに振り出したそれはしっとりと髪を湿らせて、夜のアスファルトを一層色濃く見せ始めている。
傘をさしてもささずとも、どうせそう大した違いは無いさ。そう思って踵を返したその矢先、隣からぽんっ、と春に似つかわしい軽やかな音がして、可愛いウサギの傘が開いた。

「濡れちゃうわよ、九ちゃん」
「妙ちゃん・・・」

夜道歩きが危なくないように、最近本数の増えた外灯がそこだけ取り残されたように照っている。丸いシェードの上半分だけ緑やオレンジに彩られているのが、この旧い商店街と相俟って奇妙なほどレトロだ。下り坂になった視界の向こうを、まだまだ続くのだと告げている。
結構距離のあるこの通りに、一軒だけあるコンビニ、そこだけが煌々とアスファルトまで光を伸ばしていた。

「珍しいのね、九ちゃんがこんな時間に出歩くなんて」
「いや・・・ちょっと寝付けなくて。妙ちゃんは今帰りなのか」
「ええ。一緒に帰りましょ」

いつものように優しく微笑んだ彼女は、そのまま隣で歩調を合わせて添ってきた。
ほとんど降ってもいないような雨の下、ふたりがひとつ傘のうち。思わず彼女に視線を遣ると、またにこりといつものように微笑むので、どうにも照れて視線が下へ向いてしまう。
何だか気持ちが浮き立って寝付けずに、ふらりと散歩に出た証拠が左手にのしかかる。別に欲しくもないのに、あの誘蛾灯のような光につられて入ってしまったコンビニ。適当に買った飴やペットボトルのお茶なんかがこの夜の寄る辺無さを何より雄弁に物語っていた。くしゃりと手元で軽い音がする。
昼間はそれなりに人通りのある商店街、けれどこんな時間にはまるで世界は昨日終わったのだと言われたように静まりかえっていた。
ばらばらばら・・・と、時々思い出したように音を立てる雨が、二人の傘を閉じさせない。

「妙ちゃん、喉渇いてないか」
「大丈夫よ。ふふ、コンビニってつい色々買っちゃうのよね」
「うん・・・」
「九ちゃん、いつもこんな時間に出歩いてるの?」
「いつもという訳じゃないが・・・、まあ、時々」
「ダメよ、危ないし・・・女の子なんだから」
「・・・・妙ちゃんこそ」

言ったら、私今日はたまたまよ、と返される。
ぱたたたた、と弱々しく雨粒を受け止めたパステルイエローの傘越しに見る夜空は明るかった。
どれだけ、もうどれだけ想ってきたのか知れぬひとと、ふたりでひとつ傘のうち。
シャッターの閉まった家具屋に自転車屋、時々邪魔な電柱をふたりなんとか避けて通った。彼女の握ったままの可愛い傘、それをさりげなく受け取って。
シャー・・・と通りの向かいを、大きな荷物を籠に乗せた青年が立ちこぎのまま通り過ぎて行った。その後姿がカーブの向こうに消えていくまで見送って、まだ暖簾を垂らす焼き鳥屋を通り過ぎる。

女の子なんだから。

「本日の診察は終了しました」と札のかかる古めかしい内科診療所の、暗い窓の内が気に掛かる。何か人ならざるものが覗いていそうなそこを敢えて視線は合わせずに、白くぼやりと浮かぶ壁から離れた。水曜日・金曜日は燃えるゴミ、と、緑のアミがかけられているのに彼女が足を取られないか、自分が先に歩いて知られぬようにエスコートしながら、女の子だなんて、と思っている。
女の子だなんて。まるでその言葉は彼女に恋をしてはいけないと言われているようで好きじゃない。

「妙ちゃん?」
「もう車なんて来ないでしょ。車道の真ん中を歩くのって結構気分良いのよ、誰もいないステージみたい」
「妙ちゃん、濡れてしまう」
「春雨よ、濡れていきましょ」

外灯が白く明かりを落とすのに雨粒が照らされて、淡い黄色の兎の傘は光のシャワーを浴びていた。若い男たちが何やら酔って騒いでいる声が通り向かいの長屋から聞こえてくる。
不意に、傘の下を彼女が離れて、誰もいない車道にその身を躍らせた。
濡れてしまうと、最初に自分に傘を差しかけてきたのは彼女なのに。最近流行りの舞台の台詞回しでもって、彼女は深夜のステージにひとり躍り出ていった。
すらりとした伸びやかな肢体は外灯のスポットライトに照らされてまるで舞台の主演女優だ。白い、滑らかなその肌。ちらりと袖から見えるそれがどんなに綺麗か、多分自分が一番知っている。抱いた訳ではないけれど。

(ヒーローのいない舞台だなんて)

傘の細い柄を握り締める、この腕が憎らしい。確かにどんな男にも負けぬほどには、この身体はよく動いてくれはするけれど。
重苦しい胸元、スカートなぞ穿いて心もとないのは何より自分の性を物語って、今この舞台に踊り出ていって彼女の手を取ることを阻んでいる。彼女が一言イエスといえば、こんな身体はいつだって捨てる準備ができていた。重たい身体を引きずって、それでも惨めに女の性でいつづけるのは、これを捨てることに彼女がひどく悲しい目をするからだ。
軽やかに、アスファルトの白線の上を辿る彼女の足はいつもながらに美しい。自分が戯れに丈の短い女物の着物なぞ着るのとは違う、慎ましくエロティックな足首。ばらける悩ましい紅色の裾。

(いつか誰か知らない男が、攫ってしまうときがくる)

それはたまたま今日ではなかった。もしかしたら明日やもしれぬ。
この誰もいない彼女の舞台に、いつか立てる誰かがやってくる。そしてそれはきっと逞しい、男の姿をした誰かなのだ。
パカパパ・・・、と、外灯が心もとなく点滅した。けれど彼女はそんなことお構いなしに上機嫌で白線の上を下駄で辿って、ミュージカルさながら、鼻歌なぞ歌っている。ああこれは彼女の好きな、昔から好きだった映画の主題歌。彼女が好きならと自分も観てみて、いつの間にか歌えるようになってしまった。いっしょに歌うことはできるのに、そのステージには立てないなんて。

(けれどこの恋が叶わなくても、)

バラバラと時折思い出したように傘を打つ雨と、その先に伸びるアスファルトを見つめている。
このみすぼらしい旧い道路がステージで、今にも倒れそうなぼろぼろの長屋たちはセットだ。遅くまで店を開けている呑み屋の提灯が照明で、響いてくる下卑た笑い声はBGM!このくすんだ外灯たちが女優を照らすスポットライトだなんて、彼女に出くわす前の自分が考えただろうか!
寄る辺なく彷徨った夜の商店街を、ブロードウェイのステージに変えたのは彼女だ。女の子ならね、好きなひとといたらどこだって最高のパーティなのよ、と昼間テレビの向こうでセレブが訳知り顔で話していたが、違いない。今自分は夜の街で、極上のミュージカルを特等席で眺めている。
女の子だ。どう足掻いても否定しても、こんなに心ときめくのは自分が恋をする女の子だからでしかありえない。女の子が恋をしたんだ、相手の性別なぞどうだって!

「九ちゃん!?どうしたの、どこか痛いの?」
「何でもないよ、妙ちゃん」

終わっていくだけの恋。それでも世界は輝いた!
せっかくの特等席が、うまく見えないと思ったらなんだかぼろぼろ泣いていた。自分のためだけの女優が、世界のトップスターが、自分を見とめて慌てて駆け寄ってくる。この幸福感!
バぁッカでぇ・・・とひときわ大きな酔っぱらいの声。次いでどっと沸く呑み屋の笑い声。なんでかどうにも、なかなか世界は幸せそうじゃないか。

「何でもないんだ」

交差点の看板に点いてたライトが消えてしまったって、焼肉屋から香ばしい匂いがしていたって、古びた外灯が延びてゆくこのさびれた商店街はどこまでもきらめく劇場のステージだ。
世界は今夜こんなにも瞬いた。いつかこの恋がどんなに悲しく終わったって、このきらめきさえ憶えていたら、幸せだったさと笑えるような気さえするんだ。



パチン、とひとつ幕を下ろすように、小さな傘を下ろして閉じた。パステルイエローの外れた世界は相も変わらず彼女の傍で輝いたから、麗しい大女優には一度だけ微笑んで、彼女を誘うようにステージへひとり躍り出ていくことにした。地面を踏んだら靴の感触さえ特別で、頬を濡らしたまま笑っていた。







【ラブストーリーに傘はいらない】

































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