inzm | ナノ

※パラレル
未来の話で同棲してます



ベッドの上からカレンダーに書かれた数週間後の予定を見つめて、あたしは深いため息をついた。
カレンダーの隣にあるコルクボードに、上品で硬質なハガキが貼られている。鉛筆が勝手にくねくねと動き出したみたいな字が、白い平面に躍っていた。
ハガキは円堂からの、結婚式への招待状だ。
数週間後、あたしと秋は円堂の結婚式にいく。
それが決まってから、あたしはびくびくしながら日々を暮らしている。一緒に住んでいる秋の様子をいつも伺っている。
何故そんなに怯えるのかっていったら、秋はあたしの恋人で、中学生のときの秋は円堂が好きだったから、である。
円堂は確かにいい男だ。優しいし逞しいし明るいし楽しいし、あたしの自慢の友達だ。当時の秋が好きになっても、全然違和感がなかった。むしろ二人はお似合い、だった。
だからこそ、秋と恋人になったあたしは円堂の結婚式が不安なのである。
もし結婚する円堂を見て、秋が円堂を好きな気持ちを思い出したら、どうしよう。やっぱり円堂くんが好きなの別れよう塔子さん、なんて言われたら、あたしはもう、だめだ。
きっと式場で、あたし、円堂に心からのおめでとうが言えない、最低な奴になっちゃう。
なら行かなければいい、なんて言うかも知れないけどさ。もちろん行くよね塔子さん、だなんていい笑顔で言われたら断れない。
あたしは秋があたしを嫌う可能性なんか、耐え切れないんだ。
さようならだなんて、

「ゼッタイ駄目だあ!」

枕に顔を埋めて叫ぶ。ベッドの上でばたばたと足を動かす。
顔を押し付けた清潔な白いスーツに石鹸の匂いが染みている。染みこんでいる。秋の円堂への恋心は、秋の隅々まで染み込んでいるんだきっと。
あたしの染みこむ場所なんか、ないのかも。

「塔子さん、何してるの?」
「うわあ!」

背中からいきなり声をかけられて、あたしは跳び上がった。秋が帰って来るのはもっと後のはずなのに、と振り返る。
寝室のドアの前、キャリアウーマンの見本みたいな、OLの模型みたいな、スーツ姿の秋が笑っていた。
ああ、何回見てもイイ。

「おか、お帰り、秋!」
「ただいま」
「水曜日は遅いんじゃなかったっけ?」

うん、と笑う秋はあたしをからかうみたいだった。あたしは首を傾げる。

「なに笑ってんの?」
「ふふふ、やっぱり忘れてるんだ」

一体、あたしは何を忘れてるんだろう。何も思い出すようなことがない。
意味がわからなくて、一人首を傾げて唸る。
円堂の結婚式はもっと先で、秋の誕生日もあたしの誕生日も終わった。

「リビングにおいでよ」

含み笑いの秋はそっと寝室のドアからに離れ、リビングに向かった。
あたしは大慌てで、ベッドのスプリングを利用して跳び起きた。あたしを放って離れていく秋が、妙に悲しかったのだ。
優しい橙色に包まれたリビング。テーブルには、あたしの好きなケーキ屋さんの白い箱があった。あんまり甘いのは好きじゃないけど、ここのならいっぱい食えるかも。昔、秋にそう言ったケーキだ。

「あたしの好きなケーキ屋だ……」
「うん、好きだって言ってたから選んだの」
「でも、なんで?」

かなり、高いケーキ屋なのに、なんで?
節約と無縁なあたしに対して、堅実な秋はあんまり無駄遣いをしない。高級なケーキを意味もなく買ってくるなんて、有り得ない。
あたしは身構える。
もしかして、これって、別れ話ではなかろうか。
最低最悪の悪夢。目も耳も鼻も塞いで逃げ出したくなる。
すっかり怯えたあたしは、ゆっくりと近寄ってくる秋に気づかない。

「もう、やっぱり完全に忘れてる」

悪戯っぽい表情の秋が、優しい声で囁いた。びくりと体が震える。
思わず近い秋に驚いた。息がほのぬるくてくすぐったい。ふんわりふんわりと秋の香水が香り、あたしの昔の記憶が甦ってきた。
そのぼやけた記憶を辿ると、あたしの頭の中にとある日付が渦巻く靄を振り払って現れた。
あたしはカレンダーをちらりと確認する。
…ああ、思い出した。

「今日はわたしと塔子さんのお付き合い記念日なんだよ?」

肩に手を置かれて、口紅を乗っけた秋の唇と化粧なんか全部落っこちたあとのあたしの唇が、ぴったり合わさった。
唇の柔らかさに体がじんわりと震えた。
そして唇が離れた途端に、すさまじい申し訳なさが襲ってきた。

「ごめんなさい、あたし、忘れてた!」
「そうかなと思ってたよ。だって最近、円堂くんの結婚式のことばっかりなんだもん」
「ごめん、せっかく記念日なのにあたし、スエットだし、なんもしてないし」

完全なるお休みモードに入っていたあたし。SPとでっかく書かれたスエットに、完全無欠のドすっぴんである。

「大丈夫だよ。わたし、塔子さんがいるだけで幸せだもん」

人を安心させるような笑顔は、今はひたすらに、あたしにだけ向けられていた。
なんだ。心配しなくても、秋はあたしが好きなんじゃないか。
円堂への恋心が染み込む一方で、あたしとの恋人生活も、着実に秋の中に染み込んでいたんだ。

「いつもありがとうね、塔子さん」

こちらこそという台詞が、じわっとしみてきた涙で掻き消されてしまう。だって感無量なんだから、仕方がない。
そういえば去年もあたしは泣いたんだっけ。去年はあたしがありがとうって言って、自分で泣いたんだ。
とんだ泣き虫みたいじゃないか。
思い出したら、なんだか笑えてきた。