それはいつだって唐突に始まるものだ。
母と歩いていた。線路の前を通ったときに、線路を走る電車が燃えていた。燃えながら走っているのだ。余りに異様な光景に暫し呆然としていた。
「なにあれ」
と口を開いたときにはもう電車はいなかった。
しかし母が違う方向を見て息をのんだ。何事かと私も振り返るとそこには道幅ぎりぎりまである車だった。大きさのせいかゆっくりと進んでいる。ゆっくりとは言っても車の前についた上下する大きな刃物は速度が遅いと言うことの気休めにもならない。
私はともかく、母がいて逃げることはできるだろうか。不安になっていると、母が両手を広げた。
「大丈夫、向こうに逃げなさい」
向こうとはどこ、いつもの私なら訊ねるのだろうがそんな余裕もなく、ただ反対方向に走った。
何が大丈夫だというのか。母はきっと死ぬでしょう。あの大きな刃物に頭から切り裂かれて。大丈夫だなんていえないよ。認めたくはなかったのですが私たち母子は依存関係にあったのでしょう。母がいなければ生きることなどできません。大丈夫ではありません。
次の日は学校だった。
何も起こらず平和な学校。昨日見た車は何だったのか。昨日は母さんが帰ってこなかったからお昼は購買で買わないとなぁとか考えながら校門を通った。
広がっていたのは赤い色と絶対的な格差。
殺した側と殺された側。
媚び諂う者が生き残り逆らう者は殺される。如何にしてこのような図式ができたのか。すべては何かの感染によるものだと何の根拠もなく理解していた。
感染した者とそうでない者の差など一目で分かった。人の頭に足を置き高笑いしているのが感染者、死体を抱いて泣くのがそうでない者、私はどうすればいいのか。
こんな状況にも関わらず授業は行われた。きっと先生も感染しているに違いない。
そんなことを考えながら黒板を書き写していたら消しカスを払おうとして消しゴムも落としてしまった。座ったまま拾おうとしたけど床まで手が届かないから椅子から下りて消しゴムを拾いに行った。
拾おうとして消しゴムを掴んだ瞬間、手の甲に痛みが走った。革靴で踏まれているらしい。痛い。ぐりぐりと踵の辺りで抉られる。踏んでいる本人は踏んでいることに気づいているのだろうけど変わらず友人たちと談笑を続けている。
手を引き抜こうと引っ張っても抜けるどころか更に強く踏んでくる。おいやめろ、愛のないSMに用はない。
そうこうしていたらチャイムが鳴って、私はすぐに教室を出た。他の教室もそんな感じである。外に出ているのは恐らく感染していない生徒だけ。
彼らは一様に上を目指していた。下なら逃げられる範囲も広いだろうに、何故上に逃げるのか。きっと彼らにも何か策があるのだろう。知らない人ばかりだけど、感染していない人間などはいるだけで心強い。私は彼らの後を追いかけて行った。
それでも上の階にも生徒はいる。感染している者もしていない者も含めて。
昨日の車と同じように感染者はゆっくりとした速度で追いかけてきた。漸く分かった。ゆっくり動くのは、いつでも殺せるという余裕の表れ。舐められているみたいで腹が立つね。
上っていく内にいつの間にか囲まれていた。ゆっくりとした足取りで、余裕の笑顔を浮かべた彼らに。
終わったな。死ぬなら人として死にたい。それが私の望みです。
みんな微妙に違いはあれどこんな風に考えてたんじゃないかって思うよ。
「大丈夫、私がここで足止めするよ、だからみんな屋上に行って」
大丈夫、だって。どこかで聞いたことあるね。
人間を置いていくのに躊躇する彼らに、感染者を足止めすると言った女子が笑いかけた。余裕のある笑顔ではない。死ぬ覚悟はできてるけどこの人たちは守ってみせるという献身的且つ闘争心溢れる笑顔。
「ほら、あとから行くから、屋上で待ってて」
屋上で待っててなんてそんな告白でもするんですかロマンチック。
みんな彼女の言葉を聞いてそれでも躊躇していたけど、一人が屋上に向かうと、みんなついて行った。屋上で取りあえず落ち着いてから聞いた話だけど、一番最初に行った人は献身的な彼女の恋人だったんだって。
みんなを生き残らせるのが彼女の願いなら自分はそれを助ける。あの人たち本当に学生なのかな?関係が大人すぎる。
ふと屋上から下をみると辺り一帯錆びてしまったみたいな微妙な色をしている。錆ではなく人の血なんだろうけど。
ここにいれば当分は大丈夫なのかな。男子たちがドアの前にバリケードを築いている。食事も寝る場所もないこんなところ、長期戦には向いてないだろうに、だからと言って短期で終わらせられるような相手や人数でもない。
屋上が血の海になるのも時間の問題か。
異物が入ってこないという状況にみんな安心している。斯く言う私もそうなのだから。
時折人が増える。余所から来るらしいが、どうやって判別をしているのだろう。
人を招き入れる度に男子はバリケードを組み直さなければならないしドアを開けた瞬間などは非常に危ない。なのになぜそんな危ない思いをしてまで助けようとするのか。
彼女の思いを引き継いだ恋人はもはや無我の境地に至っている。無我と言うよりも茫然自失というか。そこまで深く愛し合っていたのか。私たちにできることは彼女が感染者になっていないことを祈ることだけ。
またドアが開いて生徒が入ってきた。今度は女生徒か。
でも何か違和感。彼女はなかなか屋上に入ってこないし、笑顔を浮かべている。あの、余裕のある笑顔を。
それを理解した別の女子が「じゃあね」と呟いてそっとドアを閉めようとした。
次の瞬間には、ドアを閉めようとした彼女は空を舞っていた。舞うというより飛んでいた。跳んでいた。呆気に取られた彼女は悲鳴すら上げられず落ちていった。
ホロコーストの始まりだ。
我ら旧人類は新人類誕生の生け贄として天に捧げられました。