私の世界には色がなかった。色盲じゃないの。
色がない。音がない。匂いもしない。何を食べても灰のよう。視界は古いテレビのように砂嵐が入り聞こえる音は雑音ばかり。
最初からそうであれば気にかかることもなかったでしょう。
しかし一番最初、生まれる直前、我が主は与えたのです。色を。音を。匂いを。味を。私が生まれて最初に得た感情は渇望でした。
世間的な赤ん坊も意味は違えどそうなのでしょう。ですが赤ん坊は望めば手に入れることができます。
与えられて奪われた。奪ったのは私を産み落とした主です。幼子が親に逆らうなどできません。私は雑音塗れの世界で生きる他なかったのです。
その日も私は雑音の中を歩いていた。雑音は嫌い。それでもそこへ行ってしまうのは何故なのか。私をこんな世界へ引きずり出した人間のいる方へ行ってしまうのは何故なのか。
「……わ」
唐突に目の前に人影。反応が遅れて思い切りぶつかってしまった。舌打ちされるんだろうか。心の中で何も聞こえないの一点張り。
「あっ、大丈夫ですか!」
すみません、ぼーっとしてたら、と私を気遣うような言葉が続けられた。掛けられたのは舌打ちでも怒号でもなく。謝られることに慣れていない私はひたすらそれを聞き流していた。ふと、謝罪を続けていた男が何かに気付いたようで言葉を止める。
「……随分薄着ですね」
「?」
言われて自分の身体を見下ろす。セーターとジーパン。冬ならこれで十分じゃないの?分からないけど。
「身体も冷たいし」
男が私の手に触れてきた。無遠慮に触れられたというのに、嫌な感じはしない。それよりも主に優しく触れられる方が余程堪える。これが人徳の差という奴か。
家近いから寄って行きませんかと誘われて私は主の元へ帰りたくなかったから付いていくことにした。
どうやら私はかなり冷えていたようで男の家につくなり布団達磨にされた。暖まるより先に圧死しそうである。
「ココア飲みますか」
男が聞いてくる。ココアは確か、甘い物。飲んだことはないけれど、甘い物だという。きっとそう刷り込まれているんだ。
味なんて分からないし飲んだところで泥水と変わることもなし。普段であれば断ったのだろうけど、首は縦に振られていた。
「どうぞ」
暫くすると男がマグカップを二つ持って現れた。片方を差し出されたので受け取って口を付ける。
何ででしょうね、そのココアはとても甘かった。
それからたまにその人と会っていたんだけど、その人がいると世界に色ができて視界や耳に入る音から煩わしいノイズが消えて食べ物がおいしく感じるようになった。世界ってこんなに鮮やかだったのね。
一回そんな世界を見てしまえばずるずると私は彼のそばに居続けてしまう。麻薬にはまる人ってこういう気持ちなんじゃないかって思う。
「お前がしたいようにすればいい。ただあまり帰りが遅くなるのは良くないな!」
私の制作者曰くそういうことらしい。父親みたいだと思った。尤も最後の言葉は確実にふざけて言ったものだろうけど。
したいようになどと言われてもしたいことがない。彼の傍で鮮やかな世界を見続ける。それ以外に何かあるのだろうか。
まあいいか。なるときはなる。どう在ったとしても確実に。そういうものなんだろう。だったら私は一秒でも長く色づいた世界を見ていたい。