2人の特別
11月12日、午後12時25分。
念の為15分前にメッセージは送っていたのだが、それが読まれた形跡はない。いつもはきっかり時間通り待ち合わせ場所に現れる彼女だ、そもそも遅刻してくること自体が珍しい。その上自分が送ったメッセージに対して何の反応もないとなると……。
(なんかあった、んだよな…)
彰人は溜息をつき、不本意ではあったが電話をかける。
────今日は彰人の誕生日だから会いたいと、そう言ってくれたのは彼女の方からだった。付き合い始めてから約8ヶ月、なんとなく2人で会う機会が増えた頃からの期間も含めれば約1年。
彼女の方から誘われたのは、この日が初めてだった。
いつも連絡は彰人から。
元は、中学生の時に仲良くなったグループの中で、特に会話のテンポが弾むと思ったのが彼女だった。期間限定のスイーツ展、新しい服の買い物、目に留める看板やショーウィンドーが似ている。だから、最初は本当に何の気もなく「一緒に行くか?」と誘ってみた。そうしたら、簡単についてきた。更には最後の帰り際には、「次は秋葉原の方に行こうよ。気になってた人が来月に個展開くんだよね」なんて軽やかな約束を取り付けるだけ勝手に取り付けて帰っていく始末。断る理由が見つからなかった上、そこにスケジュールやら何やらの具体性を求めてくる気配もなかったので、後日特に苦もなく彰人の方から当日の話を持ち掛けた。
それがなんとなく続き、卒業の時期へ。勇気を出して告白をしたら、当たり前のような顔をした承諾の返事が来たのはまた別の話として────偶然通うことになった同じ高校の同じクラスに入って、初めて迎えた誕生日が、今日だった。
いくらなんでも、自分の誕生日を理由に時間を作って祝われようとは思わない。そもそも彰人は自分から進んで"彼女に会う時間を作ろう"と思っているわけではなく、"これを彼女と見たい"、"ここに彼女と行きたい"と思ったから誘っているだけなのであり、その先における彼女の反応に何かを求めたことはなかった。
だから当たり前のように分かれ道で「じゃあまた月曜な」と手を振ろうとしたのだが、どこか思い詰めた様子で「あの、明日…昼過ぎ、空いてないかな。ほんの30分とかで良いんだけど」と言われた。積極的に祝われようとは思っていなかったが、流石に誕生日の前日に起きる"初めての向こうからのデート(仮)の誘い"において、その選択肢を外すような鈍感さもまた、彰人にはなかった。
「空け…いや、空いてるけど」
あまりにも直前だったので、1日まるまる空いているわけではなかった。午後からいつも通りVBSのメンバーとの練習があるし、夜には噂程度とはいえ既に出回ってしまっているゲリラライブの様子を見に行こうか、なんて話を冬弥ともしていた。冬弥はその時点から「当日はお前の誕生日だからな、大したことはできないが祝わせてくれ」と言ってくれてもいるので、確かにあまり彼女との時間を作ることはできないかもしれない。
でも、あまりにも意外な申し出だったことと、そこで初めて自覚した「彼女の方が初めて誘ってくれた」という事実が思いのほか衝撃的だったせいで、たとえどれだけの隙間になろうとも「空ける」という答えしか出てこなかった。
「練習が15時から入ってるから、悪い、それまでの時間しか空けられねえなんだが…何か行きたいとことかありゃ、多少は調節できるぞ」
「ううん、練習の邪魔したくないから、終わりの時間は絶対守る。逆に何時からなら空いてる?」
「そういうことなら、俺は別に何時でも良いぞ。朝一は自分の自主練があるから難しいかもしれねえが……10時くらいからは空けられる」
「本当? じゃあ12時に渋谷集合で良い?」
「おー」
…と、そういうわけで、12時に待ち合わせの約束を取り付けたのだが…。
発信音が鳴ること、5回。
ようやく、通話の繋がる音がした。
『あっ…待っ て、もしかして…』
彼女が今の時間を正確に把握しているのかはわからないが────"俺からの電話が来る"という時点で、自分が遅刻したことを察したらしい。
言葉こそ要領を得ないものなのだが、嫌でも焦っているのは伝わってきた。
「…大丈夫か?」
遅刻の理由が、"緊急事態"以外に考えられない。まず候補に挙がるのは、体調不良。あるいは、家の都合。ちゃらんぽらんなようでいて、人との約束事にはしっかりと責任を持つ彼女が前もって連絡を寄越さないというのは、つまり"寄越せない"事情があったから。
あらゆる事態を想定しつつ、ひとまず無難な言葉をかける。
『ごめん、昨日すっかり夜更かししちゃったせいでうまく起きれなかったみたい…! だいぶ長い時間待っててくれた…んだよね? 私がもうどうこう言える立場じゃないけど、終わりの時間が決まってる以上帰ってもらって全く問題ないし、30分でなんとかそっちに行けるようにすることもできるから、どこかのお店に入っててもらっても大丈夫だし…! ああ、とにかく大事な時間を作ってくれたのに、本当にごめんね』
こういう言葉を聞くと、どこまでも彼女の根は真面目なんだな、と再認識する。
ヘラヘラしているようでありながら、一本芯の通った"自分の意見"を常に持っている。実のところ彰人は、彼女のそんなところにむしろ惹かれていた。普段どれだけ軽口を叩かれようが、自分本位な意見に振り回されようが、今まで一度も不快感を覚えなかったのは、ひとえにその根底にある"彼女の揺るぎない本質"を理解していたから。
「いや、せっかくだから待ってる。どっちにしろ15時までは暇だしな。ゆっくり準備して、気を付けて来いよ。こっちは適当にカフェ入って待ってるから」
『ごめんね…無理やり直前に約束取り付けたのに』
「気にすんなって。────その、俺も────まさか会えるなんて、思ってなかったから」
語尾が、勝手に尻すぼみになっていく。ガラにないことを言おうとしたせいで、いつも最後まで本心を伝えられないのは、自分の欠点だ。
それでも彼女は、電話越しに安心したような溜息を洩らした。そこには、小さな笑みも含まれている。
『じゃあ、できるだけ早く行くね』
「転んで怪我すんなよ」
『うん。…ありがと』
少しだけその声に鼻がかった音が混じっていたのは、気のせいなのだろうか。寝起きであるだけ、なら良いのだが…もし本当に体調を崩しているのなら、そのまま家にいさせた方が良かったのかもしれない、と気持ちが逸るあまり会う方向への約束を取り付けてしまった自分を少しだけ責める。
ただ、ここで「体調が悪そうだから来るな」と言ったところで、あの強情な彼女のことだ。「彰人のスケジュールを邪魔しないなら行く」と頑なに譲らなかったことだろう。
────まあ、この後来てから直接見て判断する外ないか────。
確かに彼女の家からここまで直接最短ルートで来れば、30分と少しの時間で駅自体には着くはず。でも、それはあくまで、「できるだけ急いで行く」という彼女の決意表明に過ぎない。
もし本当に先程起きたのだというなら、準備に2時間はかかると見た方が良いだろう。そうなると本当に、彼女が謙虚に言い出した30分しか時間が取れなくなるのだが……生憎彰人達は、恋愛の優先順位を一番にしないと互いに約束した。お互いの夢のため、目標のため、自分を第一にすると決めた。
だから、急かすこともしないし、自分の予定もずらすことはしない。
彰人はただひたすら、その場で待った。特に何も考えず、何も期待せず、落胆もせず、強いて言うなら彼女に一瞬でも会えることだけを待つ理由として楽しみにしながら、時間が経過する虚空をぼーっと眺めていた。
カフェに行くなんて、ただの気休めだ。彼女が急いで来ると言っているなら、ひとりで優雅なティータイムを過ごすより同じ外の空間で待っていたい。
すると、なんとぴったり30分後。
彰人の携帯が、突然鳴り出す。
表示されていたのは、彼女の名前。
『ごめ、今…着いた、んだけど……どこ、いるかな…?』
やたらと息切れの激しい話し方に、一抹の不安を覚える。確かに元から体力はないが、咳混じりの浅い呼吸の狭間に聞こえる声が、あまりにも乾いていて。
「本来の待ち合わせ場所にいるけど…大丈夫か?」
『えっ、そ、外に、いるの!? …わかった、そっち、行くけど、』
その言葉の尻には、大きな咳がついてきた。吐くのではないかと心配になるほどだったが、駅のホームの音が遠ざかり、階段を上がる音が聞こえ(しかもどうやらヒールらしい)、今度は人の行き交う賑やかな声と車の走るエンジン音に変わる。
「行くけど」、その続きが出てこないまま、彰人を心配させるだけさせて────彼女は現れた。髪と息を乱し、額に僅かな汗を滲ませながら。
「ごめん…!!」
電話をお互いに切らずにいたせいで、機械越しの声と生の声が二重になって聞こえる。その顔が青白いのは、急いで来たせいなのか、それとも────。
遅刻することがないのは前提として、普段から慌てたり急いだりするような挙動を見せない彼女がここまで乱れている姿には、単純に不安を煽るものがあった。
「いや、良いんだけどよ……。それよりお前、そんなに急いで来なくても…」
「嫌だよ、私、絶対彰人との待ち合わせには遅刻しないっていつも言い聞かせてるんだもん。まさかの電話で起きた上に、そこから更にここまで待たせるなんて…本っ当にごめんね!」
怒りを露わにするその様は、自分にストイックな彼女らしいものといえばそうなのかもしれない。しかし、いつまでも息が安定しないことと、顔色がなかなか好転しないことを見ていると、安易に「落ち着けよ」とも言えない。
ただ、まあ。
「…今日が"今日"だから、こうやって隙間時間を縫ってでも来てくれたんだろ?」
そこで「今日って何の日だったっけ」ととぼけられるほど、彰人は愚かではない。「サプライズができないから面白くない」と言われた時は少しくらい可愛こぶった方が良いのかと思わないでもなかったが、結局今こうやって生死の瀬戸際にいる彼女に声を掛けろと言われるなら、やはりある程度のものは察し、気を遣う体制を作っておいた方が自分にとっても良いことだと思うのだ。
「そう、なんだけど…」
「ありがとな、そんなに急いで来てくれて」
そう、だから気持ちは嬉しい。の、だが────…。
「この後の練習も少しくらいの遅れなら許されるし、一旦息整えろよ。飲み物買ってくるから」
顔面蒼白、呼吸がいつまでも落ち着かない状態の彼女に、いつも通り接することは、"気持ち"だけではあまりにも難しかった。なんなら、飲み物を買うと言ったは良いが、その1、2分だけでも今の彼女から目を離すことが怖いくらいだ。
「ううん、大丈夫────。今日はこれを渡したかっただけだから…」
まだ喉から出したような掠れた声で、鞄をまさぐるなまえ。中から出てきたのは、鞄に入れられていたせいで端の少しへしゃげた紙袋だった。
「あっ、やば…紙袋ごと入れたせいでぐちゃぐちゃになっちゃった…。でもボックスは硬いもの入れてるから、中身自体は大丈夫、のはずだよ」
どうしようかと、一瞬彰人は思案に入る。本当ならこんな寒空の下で唇を真っ青にしながら無理に笑う彼女のことを放って、その手にあるプレゼントを喜んで受け取るなんてことは絶対にできない。どこか温かいところに入るか、それこそせめて飲み物なりなんなり、こちら側から彼女を正常な状態に戻してからじゃないと、受け取るものだって受け取れない。
いつもそうだ。
会いたいと言われたこともない。好きだと言われたこともない。
いつだって、何かをするのは彰人の方から。
それが嫌だと思ったわけじゃない。
彼女の様子に「彰人から好意を示してくれないと不安になるから私からは何もしないの」なんて不健康なものは見られないし、彰人だって意識して会う約束や自分の気持ちを伝えているわけじゃないのだから。ただ、それを口にするかしないか、それだけの違いがあるだけで────気持ちは同じなのだと、信じていた。
でも、それは時折悪い方向にも作用する。
こうやって彰人のスケジュールに気を遣うあまり、自分の体調が悪いことを言ってこない。自分の目標のためなら他の約束も欲望も抑えることができるのに、それが"人のため"となると、どれだけ自分が無理をすることになっても、限界を試しにいこうとする気がある。
気持ちはわかるのだ。
自分だって、仲間や大切な彼女のためにできることがあるなら、自分に多少苦労が伴うことがあったとしても気にせずになんでもしたいと思っていたことだろう。
だからこそ────"そこに伴う負担"がわかってしまうからこそ────今、それを背負う彼女の心労を想わずにはいられない。
「────サンキュな。…なあ、気持ちはすげえ嬉しいんだけど…今のお前、傍目に見ててすげえ心配なんだよ。だからさ、お前が俺を気遣って時間内に色々間に合わせようとしてくれてるのはわかるんだけど、このまま俺を心配させないって意味でも、一回ちょっと落ち着いた店入んねえ?」
差し出した紙袋が素直に受け取られないとわかるなり、その皺と同じように顔をひしゃげる彼女。でも、やはりその顔色は不自然に悪い。化粧のせいなどではない────むしろ急いで家を出てきたことがすぐにわかるくらいの薄化粧の中で、その体内に流れている血が全て失われたかのように肌は青白く、それでいてまだ辛うじて留まっているその体内の大切なものでさえ口からまろび出てしまいそうなほど息遣いは荒い。
どれだけ表情で不満を露わにされようが、彰人に引く気はない。数秒の無言の攻防の末、それを察したなまえは負けを認めた。ここで争ったところで余計に彰人に無駄な時間を使わせることはわかっていたのだろう、「じゃあ、あそこでお茶一杯だけ飲んで帰る」と、スクランブル交差点の一角にあるオレンジ色の、菓子店に併設されたカフェの看板を示した。
渋々承諾したにしては珍しく具体的だ、と思いながらも、こちらはいつも通り断る理由がなかったので、彼女のことを常に視界に入れ、その危なっかしい肩に手を添えつつ彰人はカフェに向かう。
────本当なら、今すぐにでも帰した方が良い。なんなら、家に着くのを見届けるまで────自分の心が落ち着くまで────彼女の弱々しい姿を誰よりも傍で見ていたかった。その背を支えるのは、いつだって自分でありたかったから。
大きな交差点を渡り、カフェに入る。昼時とあってかそこそこの人が中にいたが、どちらかというと食後のデザートやアフタヌーンティーの用途で使われることが多い店なので、待たされることなく着席することができた。
「彰人は何か食べる?」
「そうだな…まだ練習まで時間はあるし、朝食ったきりだから…少し腹に入れとくか」
「時間は大丈夫なの?」
「大丈夫だって言ってるだろ。どっかの誰かさんが無理して早く来たお陰でな」
「そもそも遅刻してるんですが…」
「だから気にしてねえって。お前もなんか食えよ…食えるなら、だけど。とりあえず何か飲み物は頼んどけ。息、まだ荒いぞ」
「体力がなくてお恥ずかしい限りでございます」
茶化した調子で言うが、その顔が声と合っていないせいで、無理をしているのは丸わかりだ。わかりやすく「息が荒い」とは言ったが、どちらかというと彰人は彼女の顔色の方がずっと気がかりだった。呼吸が乱れているのは走ったせいと理由がつけられるにしろ、顔色が良くなるどころか悪化しているのは、どう説明をつければ良い?
「────なあ」
彰人には、頼んだサンドイッチ(と、プラスして頼んでいた小さなデザート)。なまえには、アイスのアールグレイティー。それが届くまで、彼女はずっと無言だった。そこで遂に業を煮やした彰人は、自分の声が深刻になっていることを知りながらも違和感に迫ることにする。
「お前、体調崩したろ」
どうせ回りくどく「元気か?」なんて聞いたところで、冗談交じりに元気だと返されるに決まっている。確信に満ちた直球の言葉を投げると、案の定グラスにかけられていたなまえの手が止まる。
「………あー…」
うまい言い訳が思いつかなかったらしい。嘘をついてもすぐにバレる、というよりここで何を言おうが彰人が「なまえは体調が悪い」という"事実"を突き付けている以上、どれだけ繕おうともそれは却ってボロを出すだけになる。彼女もそれはわかっているのだろう、目を逸らすだけに留め、それ以上余計なことを言おうとはしなかった(こういう無駄な茶番を暴走させて空元気を出されるより、余程こちらの方が好感が持てる)。
「風邪か?」
「…情けない話なんですけど、寝不足で」
ああ、そういえばそんなことも言っていたっけな、と冒頭の会話を思い出す。
「なんかしてたのか?」
別に普段から早寝をしている習慣はないのだが、かといって過剰な夜更かしをするようなタイプでもない。一体どれだけの時間起きていたのだろう。そして、何のためにそこまでの夜更かしをしたのだろう。
「その…あー、えーと…その、緊張してしまいまして…」
「緊張…?」
ここまでのどこに彼女の緊張する要素があったのだろう。流石にそこまで察することはできず、彰人は素直に首を傾げる。するとなまえは一層照れくさそうな表情を浮かべ、気まずいことがある時特有の仕草として手指をもじもじと絡ませた。
「彰人の誕生日だって思ったら、なんか…うまく、寝れなかったの」
「は?」
彰人の誕生日。自分が年甲斐もなくそわそわとした挙動を見せるならまだしも、彼女の方がそこまで焦る必要はないようにしか思えないのだが。
「なんでお前が緊張してるんだよ」
「だって彰人の誕生日を初めて私ひとりでお祝いできるんだよ? 本当はもとあれこれやりたかったんだもん。…まあ、全部台無しになっちゃったんだけど」
ストローを不満げに咥えたまま、ふがふがとなまえが文句を垂らす。言われてみれば、その目もいつもより腫れているかもしれない。"いつもと何か違う"要素も、"寝不足"という原因に当てはめてみると、全て納得ができるような気がする。
「誕生日なんて、十数年前に自分が生まれたただの記録だろ。毎年必ず来てるわけなんだし────」
「あのねえ、私がこうなっているのはあなたにいつもその認識が残ってるせいでもあるんですよ、彰人君」
中学の時から、グループの面々がやたらと彰人のテンションを超えて祝ってきていた例年の誕生日を思い出す。言った通り、確かに"誕生日"が自分にとっての記念日であることはもちろん自覚していたが、0時になった瞬間自分の体に何かの変化があるわけでもなし、「おめでとう」の一言が貰えるのは嬉しいもののそれ以上の何かを期待したこともなかった。1日を通して自分が主役でいる、なんてそもそもガラじゃない。
それなのに、それが不満なのだとなまえは言う。
「毎年毎年、サプライズを仕掛けても大抵気づくし…。私まだ、中3の時にはぁちゃんが騒ぎすぎて机ひっくり返した時に彰人が真っ先に先生に謝りに行ったの、根に持ってるからね」
「あれは羽口が悪かっただろ。当たり前のことしてなんで根に持たれなきゃいけねえんだよ」
「主役が一番冷静な誕生日って何事よ」
溜息をついて、眠たそうになまえは気怠げな欠伸をする。
「この日がなかったら彰人は今ここにいない。この日がなかったら、私達と彰人が会うことはなかったし、私と彰人がこうやって一緒に座ってることもない」
トントン、と机を指の端で突く仕草は、怒っているとも呆れているとも取れる。でも、彰人はそこに、なまえのわかりにくい照れ隠しを見たような気がした。
「彰人からすればただの偶然、ちょっと色のついた毎日の中の1日、って思ってるかもしれないけど、私にとって11月12日っていうのは、彰人が生まれてきてくれた日であると同時に、そんな彰人を目の前で2人っきりでお祝いできる"今の私"を作ってくれる大事な日でもあるの。だから私は絶対にこの日を蔑ろにしたくないし、彰人がどう思っていたって関係ないけど、私と一緒にいる間の時間だけはそれを特別だと思ってもらえるように頑張りたい」
それで、緊張をして。うまく寝付けず。顔色を思い切り悪くしながら、それでも30分だけで良いからと無理をしてここまで来て。
「────だから、これも受け取ってほしい」
差し出された、心なしかさっきよりも皺の増えた紙袋。今度こそ受け取って袋の中を見ると、有名なはちみつ専門店の包装紙が鎮座していた。
「はちみつ?」
「牛乳に入れてヨシ、パンケーキにかけてヨシ、食パンに塗ってヨシ。しかも使い切りの消え物だから、余計なスペースも取らない優れものです。────まだ2人きりでお祝いするのは1回目だから、最初はこのくらいの気軽さで渡しておこうと思って」
その店の存在は彰人も知っていた。有名な高級ホテルのレストランがこのはちみつをそれこそパンケーキの材料に使っているとかいって、テレビで特集を組まれていたほどの評判を呼ぶ店のものだ。実店舗もあるがほぼ毎日昼過ぎには在庫が売り切れ、オンラインストアでもゆうに1ヶ月は待たされると聞く。
品こそ手軽なものに見えるかもしれないが、彰人はこのプレゼントがいかに希少なものなのかをよく知っていた。それが決して「気軽さ」に便乗して手に入るものではないことを。
「…ありがとな」
いつから準備をしていたのだろう。
「私にとって11月12日っていうのは、彰人が生まれてきてくれた日であると同時に、そんな彰人を目の前で2人っきりでお祝いできる"今の私"を作ってくれる大事な日でもあるの」
最初は、友達として。何人かいるうちのひとりに紛れて、勝手に教室を飾り付けたり、校則の限りないアウトゾーンを狙いながらお菓子を持ちこんだりして。
それが、今回は2人きりで。ありふれた1日の隙間から「30分だけ」抜き取って。
「だから私は絶対にこの日を蔑ろにしたくないし、彰人がどう思っていたって関係ないけど、私と一緒にいる間の時間だけはそれを特別だと思ってもらえるように頑張りたい」
"特別"を作って。前日には眠れないほど緊張していたくせに、今に至るまでそこまで感情が揺れていたなんて全く気づかせずに。
「気軽なんて言うけど、買うの大変だったろ、実は」
「いやいや、そこに込めた気持ちの重さに比べたら全然お手軽なものですよ」
「さらっと怖いこと言うな」
まったく。ははは、と笑うその男性的な表情は、一体誰に似たものなのか。
しかし、彰人が呆れつつも箱の中身を取り出そうとすると、急になまえは取り乱した様子でテーブルから身を乗り出した。
「ま、待って!」
「あ?」
その時にはもう、中身が見えるよう工夫された包装の四角い箱を出してしまっていた。何か仕掛けでも凝らされているのかと思ったが、特段その見た目に変わったところは────と、そこで箱の下、ひしゃげた袋の底に張り付いている封筒に気づく。
手紙、のようだ。『彰人へ』と書かれたその宛名は、自分。差出人は、考えるまでもなくきっと彼女。
「…なんだよ」
見られるのが恥ずかしかったのだろうか。確かに、付き合う前もその後も、手紙なんてアナログなもののやり取りを交わしたことはなかったように思う。彰人自身も改めてなまえに直筆でメッセージを書け、と言われたら、その内容に困っていたかもしれない。
────"そこに込めた気持ちの重さに比べたら"、ねえ…。
「お前の寝不足の一番の原因、さてはこれだろ」
「あー……そうですね、ハイ…」
「中には何書いてくれたんだ?」
ふざけてその封筒も取り出すと、いよいよなまえは手を伸ばして彰人から手紙を取り返そうとし始めた。「俺に渡すつもりで書いてくれたんじゃないのか」、とわざと意地悪ぶって彼女の手の届かないところまで腕を後ろに伸ばすと、今や顔を真っ赤にしたなまえが、取り返すことを諦める代わりに不機嫌極まりない顔でドスンと椅子に座り直す。
「だから、それを見られたくなくて止めたのに…! 気づくのが早すぎるんだよ、こういうのは家に帰ってじっくり見た時に初めて目に留めるものでしょ!」
彰人からすれば今日はただの偶然が訪れた日、ちょっと色のついた毎日の中の1日。それはそうなのかもしれない。もちろん冬弥をはじめとする仲間が祝う気持ちを作ってくれたのも嬉しかったし、今日になってから祝いのメッセージを送ってくれたのも全て大切に目を通している。偶然とはいえそれ────つまり彰人が生まれたことが"起きた"のは事実だし、色を付けてくれたのは周りの友人や家族達だ。
最初から、なんでもない1日と思っていたわけではない。
でも、この日に対する彰人の気持ちを完璧に理解した上で、完璧に覆してくれたのはなまえだった。
「私にとって11月12日っていうのは、彰人が生まれてきてくれた日であると同時に、そんな彰人を目の前で2人っきりでお祝いできる"今の私"を作ってくれる大事な日でもあるの」
彰人の記念日を、同時に自分の記念日にもしてくれたのはなまえだった。
────このまま更に意地悪を重ねて手紙を開いてしまおうか、と思ったそんな子供心は、そっと胸の内にしまうことにした。
彰人はまだ不安げな顔をしているなまえを見て思わず笑いながら、先にはちみつの箱を袋に入れ、その上にそっと────折れてしまわないよう────彼女の"どうやら重いらしい"愛を乗せた。
「悔しいけど、特別にならねえわけがなかったよ」
「…え?」
「ありがとな。時間作ってくれて。無理やりにでも駆けつけて────直接、こんな良いもん渡してくれて」
むず痒い気持ちになるばかりだったが、それでも感謝はきちんと伝えなければ。体調を気遣うのも、彼女の無茶に呆れるのも怒るのも、今は違う。普段なら自分のためにそこまで自分を追い込むな、と思ったのかもしれないが、今日だけは別だ。
だって今日は、"彰人となまえの特別な日"なのだから。
素直な気持ちを言葉にするのは、彰人にとってあまり簡単なことではない。
でもきっと、彼女も同じだ。誰か一人のために手を尽くすことも、彰人を長く待たせることも、正直な気持ちを文にしたためてくるのも、本来なら得意ではなかったはず。そうでありながら、今彼女が目の前で照れながらそっぽを向いているのは、"今日が彰人の生まれた日"だったから。30分だけ欲しい、と謙虚に言われていたにも関わらず、気づけば彰人達はごくごく自然に2時間を共に過ごしていた。
それならこれは、お互いにとっての特別にしよう。
30分という短い時間になるはずだった思いがけない2時間という時間のプレゼントを、お互いにとって何にも代えがたい思い出にしよう。
「────あ、それと」
そっぽを向きついでに、店の壁にかけられた時計で時間を確認したらしいなまえが、自分の醜態を帳消しにするかのように、鞄から今度は綺麗な状態のまま保たれた掌サイズの3つの小箱と、それがちょうど入るくらいの小さな袋を3枚取り出す。それはちょうどこの店の一階にある持ち帰り用のボックスに入ったクッキー達だった。トイレに行っている間にでも買ったのだろうか?
「これは、VBSの皆さんにちょっとしたお詫びを…。練習前にこんなバタバタ呼び出しちゃったから彰人のコンディションも整ってはいないと思うし、少なからず練習に遅れるなんてことがあったらあまりにも申し訳ないから」
「あいつらはそういうんの気にしねえから、別にそこまで気を遣わなくても良いはずなんだけどな」
「じゃあ、日頃彰人がお世話になってますっていうお礼も兼ねて」
「お前は俺の母親かよ」
「は? 彰人のお母様みたいな素敵ママになれるわけないでしょうが。私は足引っ張りまくりの外野彼女だよ」
何が外野彼女だよ、と彰人は収めたばかりの説教がまた喉元までせり上げってくるのを堪えなければならなかった。VBSのメンバーは全員、なまえの存在を快く許してくれている。恋愛…とは、本来確固たる目標を持っている彰人には足枷にしかならないもののはずなのだが、彼女のスタンスは彰人の"目標"を最大限尊重し、どこまでいっても彰人の"明日を頑張る気力"を与えてくれる存在だったのだから。
『そんなに理解のある彼女、今時あんまいないよ〜。ほんと、大事にしなね』
いつか言われたそんな杏の言葉が蘇り、本当にその通りだ、と再認識する。
ああ、なるほど。菓子店に併設されたカフェに誘われたのは、ここでメンバーへのお土産を持たせるつもりだったのか。自分が正常でない時ですら、こういう気遣いを忘れない姿勢にはいつも脱帽する。
「…悪いな、メンバーにまで気を遣わせて」
「ううん。彰人の目標と熱度は、きっとメンバーの皆の次に私が知ってるから。だから、他のメンバーの人にも、"この彼女邪魔だな"って思われたくないし…あくまで純粋に応援してるんだ、ってことを伝えられたら良いなっていう…まあ、はい、打算ですね」
「そこまで乾いた言い方しなくても、全員お前にはいつも感謝してるぞ」
「本当? それなら良かったな。────っと、そろそろ時間だよね。すっかり長居しちゃった。30分だけ、って言ってたはずなのに、結局ギリギリまで拘束してごめん」
そう言われても、彰人はもう何も文句など言う気を持っていなかった。
「────ギリギリまで一緒にいてくれて、嬉しかった」
珍しく感情をストレートに出した言葉に対し、なまえは一瞬目を丸くして────それから、今日一番嬉しそうな笑顔を浮かべてくれた。
支払いを済ませて、外に出る。
温かい店内にずっと居座っていたせいなのか、吹き付ける風がやけに冷たく感じられる。その温度差に体が順応するには時間がかかりそうだ────そう思った矢先、なまえがわかりやすくくしゃみをする。
「寒いな、流石に外は」
「うん…くしゅっ…。ええと…マフラー、マフラー…多分持ってきてるはず…」
寝不足、緊張(がようやく解けた頃だろうか)、寒暖差の激しさにおそらく体の体温調節もうまくできていないはず。有体に言えば、なまえの体力ゲージはそろそろ限界を迎えているはずだ。
ありがとう。でも、頼むからこれ以上の無理はしないでほしい。
俺達の特別は、きっと夜までずっと続く。でも、直接対面して作ったこの2時間は、いつまで経っても互いの記憶に残り続ける"最初の特別な時間"として、また同じ記念日が来た時には何度だって振り返れる良い話になるのだろう。
彼女のことが、やっぱり好きだ。そう思った。
お互いに、自分を第一に考えられるその勇気も。
それでありながら、相手のために多少自分を削っても最大限のことをしたいと思える優しさも。
どちらかというと振り回されることの多い彰人を、ちょうど良い距離感で引っ張ってくれる勢いも。
勢いがあるくせに、最終決定権は常に彰人に委ね、逃げ道を常に与えてくれるその頭の良さも。
この人に出会えて良かった、この人を選んで、選んでもらうことができて良かったと、心から思う。
────だから彰人は、マフラーを探しているらしいなまえに対し、自分がつけていたマフラーを外して躊躇いなくその細い首にかけた。今まで自分が巻いていたものだし、多少は温かさも残っているだろう。
「ほら、俺の使えよ」
「あっ、あった! …って、え? わ! え!?」
鞄の中から取り出した、最近の女子にウケが良いマフラーを見つけたなまえが嬉しそうな声を上げるのと、彰人のマフラーが彼女の首にかかるのは全く同時のことだった。
「っくく…なんだよ、そんなすぐ見つかるんなら別に俺の首寒くしてまで渡す必要はなかったな」
「うう、申し訳ない…。あ、じゃあ私のマフラー彰人に貸すよ」
「────…なんでそうなるんだよ」
「え、だって私、せっかく彰人のマフラー貸してもらえたのにそんなすぐ返したくないし。かといって、彰人に首寒いまま練習行かせたくないし」
「あのなあ…」
こういうところで欲望に素直なのは、良いことのようでもあり…彼女のマフラーを巻いて練習場所に行ったが最後、杏に茶化されるのはわかりきっているので恥ずかしくもあり────…。
「…彰人さ、私がマフラー探してるの見て、一刻も早く私に防寒義渡そうとしてくれたんだよね。────体調、あんま良くないから」
「…あー…まあ、そう、だな…。この際お前が無理をしてまで来てくれたのは正直にありがたく思うことにしてるけど、またそれとは別の問題だろ。ここまでもてなしてくれたんだから、最後くらいはせめて温かくして帰ってすぐ寝ろ、っていうのが俺の本音だな」
「────ありがとね、いつも私のこと、大事にしてくれて」
そう言いながら、彰人がいつか惚れ込んでしまった、優しくこの世の全てを包み込むような笑顔でなまえは自分のパステルカラーに彩られたカラフルなマフラーを彰人の首に巻く。少し背伸びをしてにっこりこちらを見る表情は、相変わらず青白いものの、やっぱり彰人の大好きな表情のままだった。そして、マフラーが首にかかった瞬間仄かに香った彼女が気に入っている香水の匂いも、どこか彰人を安心させてくれる。
────傍目には、随分と滑稽に映ったことだろう。
グレーの男物の長いマフラーをぐるぐる巻きにする彼女と、どう見ても女物の可愛らしいマフラーを巻いている自分。惚気を見せつけている、いわゆる"バカップル"と思われたって仕方がないようなことをしている、その自覚はあった。
「練習、頑張ってね。んで、良かったら練習が終わってお家に帰った後、あったかいはちみつミルクでも飲んでみて。きっと疲れが取れるよ、私、そういうお祈り込めたから」
「…ははは、そりゃ頼もしいな」
それから彼女を駅に送るまで、2人は並んでゆっくりと歩いた。どちらからともなく手を繋ぎ、「彰人のマフラーあったかいね」、「お前のマフラーはなんか薄っぺらいな」なんて他愛もない会話をして。
────ああ、特別だ。
誕生日ってのも、悪くないものなんだ。
彰人はそう思いながら、帰りの電車へと乗っていく彼女の姿を見えなくなるまで見守り続けた。
さあ、この後は仲間が待っている。
俺の"特別"は終わりだ。
また"いつも通り"、伝説を超えるための練習に励むとしよう。
『彰人へ
お誕生日おめでとう。そして、生まれてきてくれてありがとう。
彰人があの年のあの日に生まれてきてくれていなかったら、きっとこうやって手紙を書くこともなかったんだろうね。
人にお手紙を書くなんて、小さい頃に親戚に当てた年賀状くらいのものだったから、なんだかとっても緊張しちゃってる。今ね、実は何を書いたら良いのかわからなくて困ってるところなの。
とりあえず、こういう今の関係で、私だけが彰人の誕生日を祝える瞬間ができたことが本当に嬉しい。毎日忙しいのに、時間を作ってくれてありがとう。
本当はプレゼントにはもっと服とかアクセサリーとか、せっかく彰人の好みを知ってるんだからそういう"私にだから贈れるもの"を送りたかったの。
でも、私達って付き合い始めてからはそこまで長くないでしょう。
"恋人からもらって嬉しいもの"って言ったら何かな、って考えた時、いきなりそういうものを渡すと却って今後のハードルを上げちゃうかな、なんて尻込みしちゃったりして。
消え物なら遠慮なく使ってもらって、使い切った後には…ちょっと寂しいけど処分することもできるから、まずはそこから少しずつ彰人の欲しいものをリサーチしていこうって考えて、はちみつを贈ることにしました。
だから、その代わりの気持ちを、ここで伝えるつもり。
彰人、私と出会ってくれてありがとう。
何の下心もなく誘った遊びに毎回付き合ってくれてありがとう。
中学を卒業する時、告白してくれてありがとう。
私みたいな人を好きになってくれて、本当にありがとう。
多分私、普段から彰人をデートに誘ったり、好きだって言ったりしてないと思う…っていうのは自覚してる。告白をもらった時だって、私は単に「彰人とこれからも一緒にいたい」って思ってたから、"好き"っていう気持ちはもちろんずっとあったけど、それ以上に「会うことに理由がなくても良い関係になれるんだ」っていうことがわかったのがとっても嬉しかったから、つい淡泊な返事をしちゃった。
いつかその時の気持ちも、今後のお手紙で書いてみるね。
正直な気持ちを伝えるのは彰人と同じであんまり得意じゃないんだけど…でも、せっかくこうして恋人としての繋がりを持てているんだから、頑張るよ。
私には私の目標があって、彰人には彰人の目標がある。
だからいつか、私達にどれだけ気持ちがあっても別れなきゃいけない時が来るかもしれない。
あるいは、彰人が私を見限る日だって来るのかもしれない。
でもせめてそれまでは、年を重ねて、記念日も重ねて、私は私にできることを、贈れる最大限の気持ちを、いつも彰人に渡し続けていたいなって思っています。
1回目ははちみつだったけど、そのうち手紙だけじゃなくてプレゼント自体も重たくなっていくかもしれないから、覚悟しててね。
ずっとずっと、好きだよ。
本当にありがとう。
なまえ』
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