あなたがいるから、夏が好き。[下]



背が高い。女受けしそうな見た目もしている。人のことを言える立場ではないとわかっているが、明らかに軽薄そうな格好をしている。そもそも綺麗な格好をした女子ひとりを取り囲んでいる図が異様だ。とてもまともな用事を持ち掛けているようには思えない。

────あと半年あれを見るのが早かったら、きっと俺は焦りに支配されて闇雲に突っ込み、なまえをあの輪から引きずり出すんだろうな…。
なんていう、場合によっては彼女を蔑ろにしていると思われても仕方のないことを余裕で思ってしまうのは、ひとえになまえが纏っている雰囲気のせい。

「────だから、彼を待ってるだけなので」
「それこそ彼氏が戻ってくるまでで良いじゃん。なんだって奢るし、花火を見るスポットも良いところ抑えてるよ〜?」
「あなたがたと見る花火に興味はないです」

スマホを見ながら、彼女は顔を上げることすらなく芯まで凍るような冷たい声で男共の誘いを断っている。会話の流れからしてナンパらしいということならわかったが、どう見てもそれが成り立っているようには見えない。

内に入れた相手にはどこまでも楽しそうに、そしてどこまでも許容範囲を広くして好意的に接するなまえだが、逆に自分のモラルセンスに反している相手に対しては極端なまでにバリアを張るところがある。俺自身、ああまで冷たい態度を取られることこそなかったものの、互いの"本気"を打ち明け合うまではわかりやすいと言って余りある"余所行きの態度"を取られていたところがあるので、その辺りの芯の強さは最初から信頼していた。

今のところ、相手が力に訴える様子はない。
とはいえ、もう静観している時間も終わりで良いだろう。いくら彼女が強いとはいえ、ストレスがかかっているのは間違いなし、そもそも知らない男に囲まれている彼女を放置する趣味なんて俺にはない。

「なーんでそんな腰重いの? てか彼氏、戻ってくるの遅くない? もしかしたら彼氏だってどっかほっつき歩いてんのかもよ」
「うちの彼はそんなことしません。安心してどうぞお祭りを楽しんできてください」
「つれないな〜。君がいてくれた方がもっと祭りも楽しくなるじゃん? っていう提案なのに」
「あなたがたが楽しいのは結構ですが、私は彼がいない祭りで楽しめる気なんてしません」
「くっそ…下手に出てりゃ…」

いよいよ男の1人が業を煮やした様子でじわりと身をなまえに寄せる。そのタイミングで俺は男共の隙間から彼女の手に触れた。

「あ、彰人」
「悪い、遅くなったね」
「ううん、大丈夫。お茶買ってくれてありがとうね」
「ああ…それで、この人達は知り合いかな?」
「ううん、関係ない人。じゃあ皆さん、"私の彼"が来ましたので、ここで失礼しますね」

なまえに切迫した危険がない限り、彼女がこのタイミングでどう出るか楽しみにしていた節すらあったので、俺の方もどうなろうが対応できるように外行きの態度で接してみたのだが────。
彼女は最後だけにっこりと胡散臭い笑顔を浮かべ、状況を把握できていないらしい愚鈍な男3人に挨拶を告げた。

一応無理をさせるとはわかっていつつ、人混みに自分達が紛れたと確信するまで早足で歩く。また元の喧騒と、家族連れや健康的な学生達の笑顔が周りに溢れたところで、ようやく後ろを振り返って彼女の表情を確認する────…と、拍子抜けするくらいにケロリとしたいつも通りの顔で俺の方を見ていた。

「悪い、急がせたな」
「ううん。守ろうとしてくれたんでしょ、ありがとうね」
「余計な世話だったか?」
「タイミングばっちりだよ。正直あのくらいなら別に最悪警察呼べば良いしなんてことなかったけど、ピンチに駆け付ける王子様っぽくてキュンとした」
「お前なあ…」

ある程度状況を静観していた俺が言えることではないが、もう少し危機感を持ってもらうことはできないのだろうか。今回は確かに危険レベルとしては低かったのでお互い油断しきった末の茶番になったが、こいつは元から自分が面倒事に巻き込まれた時に平気で他人事としていい加減な対処をしようとする節がある。

「今日みたいな"いかにも"な奴らなら別に心配してねーけどよ、もしあいつらがもっと悪質で狡猾だったらそれを判断する前にお前、もっと酷い目に遭ってたかもしんねえんだぞ」
「その辺は雰囲気で判るつもりなんだけどな。もっとヤバそうな人だったらすぐ逃げるか彰人のこと呼ぶよ」
「そこは警察を呼べ」
「警察より彰人が早い」

…こういうところで変な信頼を寄せられても困る…と言いたいが、実際こいつが危険に晒された時に真っ先に駆け付けるのはいつでも俺でありたい。警察より役に立てる自信はないが、彼女が一番最初に頼ってくれるポジションに自分が据えられていることが、(倫理的にそう思って良いのかわからないが)少しだけ嬉しかった。
でも、あくまで第一は彼女が少しでも危険に巻き込まれないよう俺が常に隣にいることだ。あの冷たい顔も声も嫌いじゃないが、やはり彼女にはいつも笑っていてほしい。

きょとんとした顔をしている彼女の頬にぺちりと手を当ててみると、反射のようにその頬は弛緩した。恐怖まではなくとも、どこかにやはり緊張があったのだろうか。溶けるように目尻と共に下がっていった頬の筋肉すら愛おしく、なぜ自分の頬に俺の手が当てられているのかわからなくなったなまえが首を傾げてみせるまで、ついそのまま少しずつ上昇していく頬の熱を存分に味わってしまった。

「? もしかして、まだ心配してる?」
「いや、なんにも」

守りたい気持ちはあるが、守らなくたって十分強い女。でも、こうやって頬を一撫でするだけで猫のように懐いた顔を見せる子。
心配することなんて、あるものか。むしろ普段の話でいえば俺の方が心配されてばっかりなのだから、たまにはこちらにだって心配させる機会をくれよ。

「変な輩に捕まったせいで時間食っちゃったね。そろそろ花火のところ、行く?」
「そうだな」

周りの人が少しずつ一方向へ歩いて行くのを見ながら、俺達も同じ方へと向かう。何度目の繋ぎ直しかはもうわからないが、次に2人の手が重なる時はどちらからともなく、とても自然に指が絡まった。
早いところだと、売り切れたと思われる屋台がもう店じまいを始めていた。逆に小さな子供を抱えている家族も人によっては帰り支度に入っているようで、まばらに逆方向へ進む姿も見える。

さっきまで豪勢に鳴っていた太鼓や笛の音も、今はどことなく遠くに聞こえるような気がする。そうすると却って花火の号砲の音がはっきり耳に入ってくるようになり、彼女はいよいよ鼻歌に加えて足取りまでそのリズムに合わせ始めた。ドン、と鳴った時に大きく踏み出し、ヒューという細い音で爪先をトントン叩く。全身で音を感じているその様があまりにも楽しそうだったので、気づけば俺も繋いだ手の指先で小刻みにリズムを作っていた。

「なんかセッションしてるみたいだね。楽しくなってきた?」
「まあ、それなりにな」

悪い気分はしない。2人とも違うタイミングで叩いているのに、ひとつの新しい曲を作っているみたいだ。
開けた場所に辿り着くまでにはそうかからなかった。既にビニールシートを敷いて空を見る準備をしている組もいたが、2人で腰を下ろす分の隙間ならまだそこらにある。大きな広場の向こう側には小さな川が流れており、その向こう側、この祭り会場とは関係のない道端にも人が点在しているのが見えた。

「どこに座りたい?」
「んー、あの辺。ちょうど川に映った光も見えて、すっごく綺麗」
「良いな」

その河岸から5mくらい離れた場所に小走りで先に着き、そう距離のない俺に向かってちょいちょいと手招きをするなまえ。元々花火が打ち上げられているポスターを見て「行きたい」と言い出したのだ、そりゃあこのイベントを一番楽しみにしていたのだろう。祭りの会場に足を踏み入れた時と同じくらい、顔が綻んでいた。

────と、そこで俺は、自分がとんでもない過ちを犯していたことに気づいた。
…俺、ブルーシート持ってきてねえ…。

彼女の浴衣の淡い色地に、土や草の塊が付着するのは避けたい。彼女は何も気にせずそのまま座ろうとしているのだが────ああ、だからもう。自分が着飾ることや、自分に似合うお洒落をすることには長けているのに、どうしてこう変なところでガサツなのか。
ビニールシートを持ってくることを忘れたのは俺の失態だったが、まあ…ハンカチ程度でも、土が直接綺麗な浴衣の布地に付いてしまうよりかはマシだろう。

「ちょっと待て」
「え?」
「ほら、これ敷いて座れよ。汚れるだろ」
「いやいや、それなら彰人がそれ使いなよ。せっかく浴衣着てるのに」
「それはお前もだろ」

えーと口を尖らせつつも、俺の顔を立てようと思ってくれたのだろうか。思っていた以上の駄々をこねることはなく、なまえは「それじゃあ…」と遠慮がちに俺のが先に地面に広げていたハンカチの上に腰を下ろした。

「洗って返すね」
「別に気にしねえよ。どこで洗濯しようが一緒だろ」
「やだ。"してもらう"ばっかりなのは性に合わない」
「へーへー、いつものやつな。じゃ、洗濯は任せるわ」

この女にまともな彼氏面をしようとしたところで、うまくいった試しがない。別に少しくらい上手に出させてくれたって良いだろうに、どうしてもいつだって強情に"対等"の関係を望んでくるのだ。────まあ、目指しているものが同じ、付き合い始めたきっかけもきっかけ、お互いを尊重し合ったが故の今の関係ということを考えたら、俺がここで変な気遣いアピールをするのも冷めるってもんだろう。

「それより、彰人のお尻が…」
「だから俺は良いっつってんだろ」
「私のハンドタオルで良ければ貸すのだけれど…」
「残念だがケツには収まんねえだろうな」
「ごもっとも」

────流石にそこまで無理をして物理的に対等にしようとするな、くらいなら思っても良いだろ。

浴衣の相場なんて知らないが、どうせこっちは安物だ。なまえに見せるために着てきたって言ったって過言ではなかったものなのだから、そこで淡い期待に応え喜んでくれた彼女の顔を見られたなら、あとはもうこの布がどうなろうが、正直俺はどうでも良かった。

地面に座り、ぼんやりと暗くなった空を眺める。祭りの会場はあちらこちらに提灯や電球がぶら下がっていたせいで眩しいほどの光で満ちていたが、こちらはそれに比べてかなり明度が落ちている。あるのは夏のお陰でまだ黒く染まりきっていない空から漏れる灰色の自然光のみ。とはいえもう太陽は沈んでいるので、雲にぼやけた月だけが唯一の光源だった。

ここまでの移動中、明るい電車の中でならその姿をじっくり眺める時間もあったが、日が暮れてからは何かとバタバタしていたせいでそういえば彼女のことを理由もなく見つめる機会がなかったな、と夜の薄闇に紛れた横顔を見ながら思う。

日の下にあった彼女の装いは、淡い色が光を照り返してとても眩しく見えた。髪も服も顔も、本当にキラキラ輝いているように見えたのだ。
それが今はどうだ。まともな灯りがない中、目が暗順応した頃にその姿を見ると、却ってその仄かな光を彼女自身が吸い込んでいるように見える。瞳に反射する白い月光、ハイライトが入った部分と元々染められている綺麗な髪の合間に揺れる僅かな色彩の揺らぎ、色白な肌と地続きになったような薄い藤色の衣。なんだか、この世で当たり前に生きている分にはそう出会えないんじゃないかと思うような────そう、言ってしまえばこの女は、およそ現世で命を燃やす同じ生き物には見えなかった。

カラコンのせいか? 宵の光に映る瞳の色が、やけに俗世離れしているように見える。
朧げな白色に染められている彼女の髪だって、確度によって同じ色味のカラーパレットから選ばれた何色もの微妙な違いを出しているように思えてならない。よく街にもカラフルな髪型をしている奴らはよく見かけるが、こうも────そうだな、光と闇の両方を持っているような────クサい言い方をするなら"精霊"というもはや人外としての判定が入ってしまうような、とても曖昧な蜃気楼のような…そんな、不安さえ覚えるほどの微細な変化が入っているのだ。
明るい時にもよく似合っているとは思っていた浴衣だが、灰色の世界に咲く刺繍の蝶には尚更目を惹くものがあった。淡い色合いに混ぜられた夜の蝶は、夜が更けていく度にその色気を増していく。

昼の花、夜の蝶。
昼の陽光、夜の月光。

そんな喩えを思いついてしまった自分の発想力があまりにも恥ずかしすぎて────でも、彼女の今のありのままを伝えるのならそんな言葉を尽くしてもなお足りないくらいで。

俺が惚れた女は、いつだって、誰よりも綺麗だった。
俺が尊敬したいと思えた女は、いつだって、誰よりも凛としていた。

そんなところがどうしようもなく好きで、他の誰より傍にいたくて────気づいたら、こんなところまで惚れ込んでいた。

「…彰人? さっきからどうしたの?」

いい加減視線に気づいたなまえが怪訝そうにこちらを見る。

「…なんでもねえよ。それよりもうすぐ始まるんだから、お前は空でも見てろ」
「彰人は私のことばっかり見てるのに?」
「────気づいてたのかよ」
「うん。だって私も、彰人のことこっそり見てたから。明るいところにいるいつも通りの彰人ももちろん好きだけど、こうやって日が暮れる中でゆっくり2人で座りながらじっくり横顔を見ることができる機会って、そうそうないなって」

────考えていることは一緒だった、ってか。

そう考えたら、勝手に口角が上がってしまった。別にどちらがどちらに合わせているわけでもないのに、一緒にいる時間が増えていくにつれて、お互いの思考回路が似通っていく。それはきっと、"俺"と"なまえ"の2人が本気で向き合い続けたから成り立った結果。

この人と一緒に歩み続けた先の道に、こんな奇跡があるのなら。
きっと俺は、彼女の手を取り、彼女に手を取ってもらえるよう努力したそのルートをきちんと正しく歩めたのだろう。

────やがて、遂に花火大会の会場専用の軽快な音楽が流れ始める。号砲の音はいつしかまばらになり────…急に、鮮やかで真っ赤な大きい大輪が空に咲いた。

「わあっ…!」

花火大会の始まりはいつだって唐突だ。いくら前もって音を聞いていても、突然始まるこの初手から大きく打ち上げる花火には、いつだって少しの驚きがもたらされていた。

左側に座っている彼女が、左手を口元に当てて堪えきれない笑みを零している。それを良いことに、俺はそっと地面に乗せられ空いていた彼女の右手に自分の左手を重ねた。
なまえはチラリとこちらを見たが、きっと懐疑心や抵抗感を持たないでいてくれたのだろう。俺の大きな掌の中でぐるりと手を翻し、そっと俺の手に再び指を絡めてきた。

繋がった体温に心まで温められながら、空に打ち上がる大きな花を見上げる。花弁のひとつずつはとても小さくて細かい。でも、この世界のどこに根付く花よりも大きな広がりを見せていく。空いっぱいに色とりどりの炎が命を燃やすように花を咲かせ、そして散っていく。

一瞬の刹那、その身を業火で包んだ後、瞬きをした時には消えている、夏の儚い命。
この一瞬のためだけに、一体どれだけの人がどれだけの時間をかけて、どれだけの努力をしてきたのだろう。たったの1日、たったの数秒のためだけに彼らは人生を懸けている。たとえ傍目には毎年同じ演出に見えたとしても、きっとそこに込められた思いは毎度違うはずだ。

────こう…どうにも盛り上がっているシーンでその裏にいる人のことを考えてしまうのは、やはり性分なのだろうか。当日これだけいるたくさんの人間全員が顔を輝かせるためには、それ相応の準備と覚悟が必要だ。
周りを見渡すと、皆が夜空に広がる夏の花を見上げていた。どの顔も笑顔だ。子供も大人も、女性も男性も。

そこに、ちょっとした憧憬の念を抱いてしまったのは────きっと、目指しているものがどこか似通っていたからなのだろう。
その場にいる全員を、沸かせたい。自分達が懸けてきた全てを出しきって、言うなれば────そう、その成果を見せつけてやりたい。どこかで「すごい」と言われてきた自分より格上のものを、超えてみたい。

あの花火は、俺達の象徴でもあるんだろうか。
たった一瞬のために全力で輝いて、たとえその後灰となって広い空から消えたとしても、そこにいた人の心には永遠に鮮やかに輝き続けるような、そんな存在を目指す者として────。

「────なんか、彰人みたいだね」

物思いに耽っている俺を見て、隣に座っていたなまえがぽつりと呟く。
空を見上げたまま。三角に折り曲げた膝を抱えて。空で明滅する光を受けて、赤・オレンジ・緑・黄色の光に素直に染まっている。自然の闇と人工の光の両方が交互に彼女を照らしたり、隠したりしている様は、彼女自身の存在をも曖昧にしているようだった。

「…俺、みたい?」
「うん」
「どこがだよ」

同じようなことを考えていただけに、若干自分の声が裏返ってしまった。まさか、考えていたその中身まで同じだったなんて…いや、そんなわけないだろ。どうせ花火のオレンジ色が俺の髪の色に似ているとか、そんなところなんだろうな。

「──── 一瞬の輝きに人生を懸けて、誰からも見られないところで努力を続けて、その成果でその場にいる人全員を惹き付けるの。その輝き自体が一瞬で終わったとしても、きっと皆の記憶には残り続けるようなものを創ってしまうんだろうなって────改めて思った。だって私、今日この時に見た花火のこと、きっとずっと忘れないから」
「────……」

まさかの、まさかだった。
同じことを考えるどころか、彼女はそれ以上の評価を俺に伝えてくれた。

ああ、確かにあの花火のような存在に、確かに俺は憧れを覚えた。きっとあれも俺の夢のひとつの形なのだろうと、そう思った。
そうしたら、なまえがその意図を汲み、その上で俺が抱いた"夢"をそのまま"俺"に喩えてくれた。

「…綺麗だね」

そう言って、彼女は抱えた膝に顎を乗せてこてんと首を傾げながら、こちらを向いてにっこりと笑った。結んだ髪がはらりと顔にかかり、グリッターの乗った瞼がよく見えるくらい目を細め、少し赤味がかったピンク色の唇をきゅっと上げながら。

────とても、綺麗だった。

「…ああ、そうだな」

ドン、ドンと音が鳴る度に、彼女の笑顔がくっきりと見える。花火が散ると共にその顔も暗くなるので、次にまた明るくなるのが楽しみになる。
もちろん光が散った後だって、何も見えないほどの闇というわけではない。全ての色が灰色に染まる中で見る彼女の横顔は、まるでもっと色が世界に増える前に描かれた肖像画のようだった。影になっている顔のライン、ふわふわと風に靡く髪、少しだけ崩れて隙間を見せる無防備な浴衣。首筋にひとしずく垂れる汗が暗くなることで余計に浮き立って見え、それが妙に色っぽかった。

2人、また揃って空を見る。
同じ空を。同じ花を。同じ、輝きを。

花火はそのまま30分まるまる続いた。菊、牡丹、冠、型物、柳、蜂────様々な形を模した命が燃え、最後に圧巻のナイアガラの滝が天から地へと降りていく。
そうして、最後のスターマインで空一面に花が咲き乱れたところで、宴は静かに終わっていった。

「あ〜…終わっちゃった」

言葉こそ残念そうに言うが、彼女の表情は満足げだった。花火の灯りがなくなったことで余計にその顔は暗く見えたのだが、それでもわかるくらいには満面の笑みを浮かべている。

「感動できたか?」
「うん、すっごく」

座ったまま、余韻までもを楽しみ尽くしたいとでもいうかのように、なまえはいつまでも空を見ている。すっかり暗闇を取り戻してしまった夜空は、早々に会場を後にし帰っていくたくさんの人間を見守っていた。

「少し人が捌けてから帰るか」
「そうしよ。ゆっくり帰りたい」
「結構歩いてたし、休む時間があるとはいえまだ足も疲れてるだろ」
「ううん、それは大丈夫なんだけど」

足をそっと隠すように、膝に回している腕をぐっとおろして更に小さな姿勢を取ると、彼女は歯切れの悪い調子で視線を逸らす。

「けど、なんだよ」
「うーん…」

何か言いづらいのか────それか、単に帰りたくない理由でもあるのだろうか。

「────彰人とせっかく一緒に花火を見られた大事な日だから、できるだけ一緒にいたいなって思って」

迷った挙句に出された言葉は、俺の予想を遥かに超えるようなものだった。

"俺と一緒に花火を見られた大事な日だから、できるだけ一緒にいたいと思って。"

間抜けなことだとはわかっていつつ、一言一句彼女の言葉を反芻する。
そして────彼女がそう言った"裏"の想いに、俺はようやく気付く。

毎日毎日、練習に明け暮れる俺となまえ。
コンクールに向けて、イベントに向けて、かなりの短いスパンで毎度小さくも大きな"目標"を抱え合うもの同士。

良い意味で、俺達は一緒にいる時間を削り合う仲だった。お互いに好きだから、付き合う。お互いに尊敬しているから、その姿を誰よりも近い場所から応援する。
でも、そのためには。好きになった相手が輝く姿を見たいから、遊びを我慢する。応援したい相手が必死になる姿にまた惚れ直すから、ひとりにさせる。

そこに不満を持ったことはないし、なまえと付き合う時には彼女自身も「お互いに一番優先するのは、自分の夢。私達は恋人であると同時に、相手の夢を一番前で応援するファンでもある」という主旨のことを言っていた。

もちろん、俺達だって24時間音楽をやっているわけじゃない。休憩だってあるし、オフの日だってある。特になまえはソロで音楽をやる人間だから、コンクール前で詰めるようなことがない限り休みをできるだけ合わせようとしてくれている。
だから、放課後ちょっとしたカフェに立ち寄ったり、少し遠出していわゆるデートスポットと呼ばれるようなところへ行くことも決して稀なことではないのだ。

ただ、いつも時間は決まっていたから。
日が暮れたら、彼女のことは家に帰してやりたいと思っているから。
彼女自身の安全のために。そしてついでに、彼女の親御さんに"悪い奴と付き合っている"と思われたくない、という我欲もあったりして。

だからこんなに遅い時間────とはいっても21時、常識的な時間では一応あるのだが、19時くらいに解散していた普段と比べればお互いにちょっとした"特別感"が生まれるのはその通りなのだろう。

花火を一緒に見るのも初めて。普段着や制服以外の"らしい"格好で会うのも初めて。夜まで一緒にいて、帰る時間が遅くなることへの大義名分が立つ日も初めて。
────なるほど、そりゃあ何よりも大事な日にもなる。

なまえの意思によっては早めに帰る準備もしようかと考えてはいたのだが、こんなに可愛らしい彼女がこんな"いつでも作れる1日"を"特別で大事な日"にしてくれたのだ。
俺は少しだけ尻の位置をずらし、彼女に身を寄せる。

らしくないとはわかっていたが、そのいじらしさがあまりにも愛おしくて、どうしてもその気持ちを伝えたくて────少し深く座り込んでから、自分の頭を彼女の肩に乗せてみた。

「彰人?」

なまえは驚くことも逃げることもせず、優しく俺の名を呼んだ。

「…良い日だったな」

きっともう、それ以上の言葉は要らない。

「……うん。一緒に来てくれてありがとう」
「……誘ってくれて、ありがとな」

普段はあんなにうるさくて、俺を振り回すことばっかりで、こうと決めたらてこでも動かない頑固者で。
それでも、その内側にあるのは、相手に気を遣わせまいとする尊重の姿勢と、俺ならNOがはっきり言えるからという信頼と、自分の目標や夢に対するぶれない軸。

こいつは本当に優しいやつなんだよ。強くて、堂々としていて、いつだって前を向いているんだよ。
だから好きなんだ。顔や体型は、あくまで後から付随してきたもの。今ではどこの誰より可愛いと本気で思っているが、俺が元々惚れ込んだのは彼女の持つ強さと本気。

誘ってくれてありがとう。の裏側に込めた、"いつも俺の傍にいてくれてありがとう"、"出会ってくれてありがとう"という気持ちは、果たして彼女に伝わっただろうか。





21時を随分と回った頃、ようやく周りの人もかなりの数が帰路についた。
──── 一緒にいられる理由が、なくなってしまう。

それでも、腰はやたらと重かった。少しの時間を置いてからなまえがトントンと優しく俺の頭を撫でる。

「そろそろ、行こうか」
「────そうだな」

仕方ない。頭を上げて見上げた彼女の顔は、まるで赤子でも見ているかのように優しかった。…こいつ、たまに俺のことを子供か何かだと思ってねえか?

「帰り、また家まで送る」
「大丈夫だよ、駅にわざわざ降りるの大変でしょ」
「いつもより時間も遅えし、いつものことだろ」
「────それなら、お言葉に甘えて」

仕方なく立ち上がり、同じく立ち上がろうとする彼女の手を取る。彼女は地面に敷いていたハンカチを拾い綺麗に畳むと、鞄の中にそっとしまった。
手を取ったその勢いのまま、手を繋いで花火大会の会場を出る。
通ってきた屋台はもうすっかり全ての電気が消え、遅くまで開いていたのであろうところがようやく店じまいに入ったところだった。歩いている人間はこれから帰る人だけ。

まばらな人の進行方向に倣い、俺達はいつも以上にゆっくりと歩き出した。彼女の足が疲れているはず、それもそう。でもきっと、2人で共感しあった"できるだけ一緒にいたい"という想いが、勝手に歩みを遅くしていた。

きっと明日からは、また"お互いの"日常が始まる。
音楽に打ち込んで、その時ばかりは相手のことも忘れて、ただただ自分の夢を見据える毎日が。

でもきっと、この記憶が消えることはないのだろう。
ふとした瞬間に思い出して、あの色気と可愛さが混じり合った表情を頭に浮かべながら、明日を過ごすんだ。だって彼女は、他のことに手を回している余裕のない俺の心にするりと入り込んで、決して邪魔にならない場所でいつもこちらに手を振ってくれた唯一の存在なのだから。

駅に着いて、電車に乗る。流石に座れる席はないようだったが、俺が何か言う前に「良いよ、この辺で立ってよう」と彼女の方からの提案があったので、ドア近くの邪魔にならないスペースに2人で立った。
明るい電灯の下で、汗ばんだおくれ毛がうなじに張り付いているのが見えた。高揚と暑さで少しだけ紅潮した頬を見た。それでも瞳の煌めきは変わらない────むしろ集まった時より輝いていて、そして────俺のことを、そんな目でずっと見つめていた。

「…なんだよ」
「毎日浴衣着てれば良いのになって思って」
「それはそれでどうせすぐ慣れんだろ」
「そうしたら次はタキシードに変えてもらう」
「結婚でもさせる気か?」
「もちろん、相手は私でお願いいたします」
「じゃあお前はちゃんとウェディングドレス着てこいよ」
「え〜…学校に〜? 学校の地面汚さそうだからドレスすぐ汚しそうで嫌だな」
「…お前、俺に学校でタキシード着せるつもりだったのかよ。つーかお前の問題点はそこなのかよ」

なんなのだろう。周りが明るくなった瞬間、彼女の言葉も口調も表情もいつも学校で見ているふざけたものに戻ってしまったようだった。

────日常が、戻る。

彼女の最寄り駅に向けて、ひとつずつ電車が停まる度、あの非日常感が薄れていく。
それでも時間は残酷に過ぎていくもので、内容の何もない雑談をしているうちに、あっという間に彼女の最寄り駅に着いてしまう。

当たり前のように改札を出て、彼女の家の前まで街灯の乏しい住宅街を歩く。
電車を降りた頃から、また2人とも無言の時間が増えるようになった。でも、なんとなく考えていることはわかる。────きっと、今日という大事な日に、いや、どんな日だろうが"2人で過ごした時間"に終わりが来てしまうことが、惜しくて、寂しくて…すぐにまた会えるとわかっていても、そんな感情が払拭できないんだ。
だって、次に会う彼女は、今日の彼女じゃないから。

それを良いものと捉えるべきだと思える日だってもちろんある。
毎日少しずつ変わり、少しずつ成長し、少しずつ距離が縮まっていく過程を思い返すのは楽しい。

ただ、今日は────。

今日は、いつもよりずっとずっと、とてつもなく────。

「…改めて、ありがとう。今日…本当に楽しかった。心から、楽しんじゃった」

同じことを、なまえが家の前まで辿り着いた時、まだ手を繋いだままそう言った。

「やっぱり私、彰人といられる時間が好き。彰人のことが、とっても好き。一緒にいるだけで楽しくて、時間を忘れるくらい…むしろ"時間"が来ちゃってから"終わり"に気づいて、とっても寂しくなるくらい…嬉しいんだ」

思わず、抱きしめてしまいそうになる。その小さな体を、大きな心から飛び出した愛を。

でも、俺はそうはせず────ただ、彼女の頭をそっと撫でた。

「…そうだな」

こんな一言しか返せない自分に歯痒さなら感じている。俺は彼女ほど素直にものを言えないし、そもそもこの心の内をどう曝け出せば良いのかもよくわからない。

それなのに彼女は、頭を撫でた俺の手をそっと取って、そのまま自分の頬に当てた。
夏のせいで、触れた頬は温かかった。俺の手もきっとそうなのだろう、彼女は目を閉じて、安心したように目を瞑って俺の手を包み込んでいた。

「今日はありがとう。────また、明日ね」

彼女は知っている。いつも帰り際、俺の方からは手を離すことができず、「早く帰してやんなきゃ」と思っている心とは裏腹になかなか彼女に背を向けられずにいることを。
だから、彼女の方から俺の手を解放した。にっこり笑って小さく手を振ってから、身を翻し家の玄関に手をかけた。

「────なまえ」

その背中を見ていたら、思わず名前を呼んでしまった。
扉を開けかけた彼女はもう一度それを閉め、こちらを振り返って「何?」と訊く。

「………俺も、楽しかった。ありがとな」

簡単なことしか言えなかった。
彼女の察しの良さに、また甘えてしまった。

なまえは少しの間を置いて────それから、更に笑みを深めて大きく頷いてくれた。









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