世界で一番遠い隣
初めて見た時からずっと、好きだった。
好きだったから、誰よりも近いところで彼のことを見ていたかった。
誰よりも近いところにいたかったから────。
「なまえちゃん、今日の放課後暇〜? 最近駅前にできた新しいカフェ、寄ってかない?」
「放課後は部活でしょ。岩泉に言いつけるよ」
「相変わらず冷たい!」
────今日も、彼を突き放す。
自分はそこそこ神様に愛されて生まれたという自覚があった。
小学校の頃にはもう何人かの女子に告白されてきたし、美醜の感覚を知る前に俺はきっと顔が良いんだろうなということを自覚していた。
加えて小さい頃からバレーもやっていたことも関係していたんだろう。その年頃の子は"スポーツのうまいイケメン"にとにかく弱かった。面倒くさいと思うこともあったけど、女子は基本的にみんな可愛いし、何よりチヤホヤされて良い気がしないわけがない。
女の子は俺が隣に立っているだけで満足するみたいだ。ちょっと甘い言葉を囁いてあげればすぐに顔を真っ赤にして、愛されているという自覚を得る。
人はそれを、自己満足だとか優越感だとか、そんな風に呼ぶんだろうか。
それでも良かった。だってこっちだって年頃だし、彼女のひとりやふたり欲しいと思うのも当たり前だろう。一応お付き合いしてるなら、青春っぽいことだってしたいし、精一杯可愛がってあげたいと思っている。そこに嘘はない。
────でも、決して"女の子"は俺の"一番"にはならなかった。
バレーがある限り、俺の優先順位はどうしたって"バレー"と"それ以外"に分けられてしまう。
"彼女"なら、俺が求める全てを与えてくれる。
でも、"バレー"は俺の求める全てを与えてはくれない。
自分が求めているものを都合良く与えてくれるのならそちらを優先すれば良いものなのに、俺はどうやら、いつまでも手の届かないものを追い続けてしまう性分のようだった。
もっと上へ上がりたい。もっと高みを目指したい。尽きない飢えを、満たしてやりたい。
女の子のことは好きだ。でも────それ以上に、バレーが好きだ。
そんな風に思っていることは、"ファン"の子ならともかく、"彼女"には一発でバレた。
「…なんか徹、バレーばっかでつまんない」
「他の女の子との扱い変わんなくない?」
「思ってたのと違った」
────そんな理由で、どんな女の子と付き合ってもすぐにフラれた。
仕方ないと思う。彼女からすれば、きっと付き合ったら自分を第一優先にしてほしいと思うのは当たり前なのだから。それをわかっていても優先順位を変えられない俺が悪い。
わかってる。わかってるけど────。
「結局女の子って自分が一番かわいいんだよな〜」
そんな嫌味の一つくらいだったら、言っても罰は当たるまい。
高校に入ってからも何人かと付き合ってきたけど、結局誰とも半年ももたなかった。そろそろ3年生にもなるし、将来のことを考えたらいい加減バレーに真剣に打ち込んだ方が良いだろうし(別にこの間フラれたの根に持ってるとかじゃないから!)、しばらく彼女作るのはやめておこうかな、なんて思っていた、そんなある日のこと。
「あの」
放課後、部活に行こうと立ち上がったところを、クラスメイトの女子に呼び止められた。
わ、しかもこの子、うちの学年で一番可愛いって噂の子じゃん。なーんか冷たいっていうか、とっつきにくいところがあったから、今までなかなか声かけようと思えてなかったなかったんだよね。ラッキー。
なんだろ、ファンですとか言われちゃう? 一緒に写真撮っちゃう? そしたら岩ちゃんに自慢しちゃおーっと────「ちょっと、話したいことがあるんだけど、良いかな」
うん、なんかすごい事務的なことっぽい。まあ良いんですけどねー。別に青城ナンバーワン美男美女カップル登場? とか目論んでませーん。
と、思っていたのにだ。
「…その、実は初めて見た時から好きで」
────言われたのは、ちょっと期待していて、でも絶対に出ることはないだろうと諦めていた言葉だった。
「…ほんと?」
別に一目惚れされるのは初めてではないので、驚くことはなかった。
こんな可愛い子が俺のことを好きだって言ってくれるんなら、付き合うのもアリじゃない? さっきなんか彼女はもう良いやみたいなこと言った気がするけど、前言撤回。
「だから…えっと、試合とか、応援に行きたくて、色々教えてほしくて…」
「大歓迎だよ! これからよろしくね。あ、じゃあ早速バレー部来る? みんなに紹介しよっか!」
「いや、今日は予定あるから良い。紹介もしなくて良い」
「ん…?」
今までの子だったら、即座に自分が彼女だってアピールをしたがっていたのに…控えめな子だ。
「じゃあ明日にでも早速デートに────」
「明日も部活でしょ。ちゃんと練習して」
…んん? そりゃまあ部活はあるけど、でも彼女って────特に付き合ったばっかりっていうんなら、尚更自分との時間を取って! って可愛い我儘を言うもんじゃないの?
────俺は新しい彼女に、俄然興味が湧いてしまった。
普通の女の子が求めるものを求めない子。俺が与えるものに、とても満足しているように見えない子。
この子は一体、俺の顔とスポーツマンっていうステータス以外に、何を求めているんだろう。
────そんなわけで、俺は毎日毎日時間を作って彼女のところへ行った。
それでも、返ってくるのは「練習行きなよ」「岩泉、待ってるよ」の2種類だけ。
彼女は、俺以上に俺のバレーの環境を整えたがっているようだった。
「じゃあ今日! 月曜はオフだから! ね、付き合ってくれるでしょ?」
「…まあ、オフなら…。でもなんで私にそんなに構おうとするの?」
彼女なのに、変なことを言う子がいたものだ。
「そんなの、俺が君と一緒にいたいからに決まってんじゃん!」
嘘を言ったつもりはないのに、彼女は目をぱちくりとさせて驚いたような顔を見せた。
「ま、まあ…嬉しいから良いけど…どこ行く? シューズとか、摩耗してない?」
「なんでバレー用品買う流れになってるの」
「いや、せっかくのオフならゆっくり買い物したいかなって思って」
「俺はなまえちゃんの行きたいところに行きたい!」
「うーん…じゃあ、ベタだけど映画とか?」
「良いね! 何の映画?」
「なんか最近話題のなんか、アレ、タイトル忘れた」
「うん…? まあ良いや、向こう行ったらポスターとかで思い出せるかもしんないし、とりあえず映画デートしよ!」
こういう時って、もっと「あれしたい」「これしたい」って具体的にズイズイ来るものなんじゃないの? 映画を見たいとは言われたけど、その見たいもののタイトルが思いつかない程度の薄い興味しか持っていないらしい彼女の様子に、俺はちょっとした違和感を覚える。
「…なんかなまえちゃんって、結構淡泊だよね」
「そうかな。まあよく昔から冷たいとはよく言われてるけど…でも、好きなものはちゃんと好きだし。及川のこと見てるの、好きだよ」
そう言った彼女の横顔はまるで恋をしている女の子そのもののようだった。頬を赤らめて、少しはにかんで口元を隠している彼女。不覚にも、普段とまるきり違ったそんな表情にどきっとしてしまった。
可愛い女の子なら今までに何人だって見てきた。でも、だいたいそういう子はもっと恋愛にも慣れているし、俺にあれやこれと自分本位な要求をぶつけてくるものだとばかり思っていた。
なんか、この子は違うかも。
そんなちょっとした違和感のせいで、俺は日を経る毎にどんどん彼女のことが好きになってしまい────。
同時に、彼女が同じ熱量で自分に応えてくれないことを、不安に思うようになった。
「なまえちゃんー、ねえー、俺のことほんとに好き?」
「うん? 好きだよ」
昼休み、一緒にお弁当を食べながら、何度も尋ねられては面倒だなと思ってきていた言葉をついにかけてしまう。彼女はきょとんとした顔で、いつも通り淡泊にそう言うだけだった。
「でもさあ! 全然なまえちゃんの方から会おうとか言ってくれないし、俺がバレーばっかやってても文句ひとつ言わないし、いやありがたいんだけどね? なんかこう、ふと寂しくなるんだよね! ごめんねメンヘラみたいだね!」
「ええ…ごめん」
やめて、謝られると余計に虚しくなってくる。
「及川にはさ」
お弁当の隅についていた小さな米粒ひとつまで丁寧に掬い上げて口に入れてから、彼女はこちらを見ずに言った。
「バレーをやっててほしいんだよね」
「うん…?」
そりゃあ、そんなことを言ったら今だってやってるし。これからも続ける予定だけど。
「女の子にチヤホヤされたいなら…まあ慣れないけど、私がいくらでも褒めるしさ。女の子と遊びたいなら私が行く。応援だって毎回行くつもりだし、私、及川の隣にいても恥ずかしくないくらい頑張って可愛くしてるから。だから、バレー、ちゃんと続けてね」
そう言って俺の顔を覗き込んでくる彼女の顔は、今の言葉に何か深い意図があったのではないかと勘繰りたくなるほど真剣だった。でもその時の俺は馬鹿だったから、「他の女の子に目移りなんてしないよ〜! なまえちゃんが一番!」なんて立ち直った機嫌のまま笑顔でそう返すことしかできなかった。
俺はまだ、彼女の胸に秘められた深い想いに、ちゃんと気づくことができなかったんだ。
月日は流れ、俺達はいよいよ卒業を間近に控えることとなった。
周りのみんなが大学や就職先の話をする中、俺はひとり、アルゼンチンへの渡航を決めていた。
元々考えてはいた道だ。日本のプロリーグに挑戦しても良かったのだが、アルゼンチンには俺のバレー観に大きな影響を与えた人がいる。世界はもっと広いのだから、どうせなら大きなステージにチャレンジしたい。尊敬する人の元で、もっと上を目指したい。
チームメイトはいつも通り雑な反応を見せた後、それでもみんな「応援してる」と言ってくれた。
ただひとり────彼女を除いては。
と言っても、反対的な意見を言われたわけではない。
そもそも俺は卒業後のことを、3月になってもまだ彼女に言い出せていなかった。
いくら淡白な付き合いだとしても、いくら彼女が俺のバレーを大切にしてくれているとしても、さすがにいつ帰ってくるかもわからない状態で国際的な遠距離恋愛を続けさせるのは彼女のためにならない気がする。
ましてや彼女はそのまま大学に進学する予定だ。楽しいことだって、出会いだってたくさんあるだろう。自分よりバレーを選んだ男のことなんて、早々に忘れて自分の人生を謳歌した方が良いんじゃないだろうか。
思えば俺は、いつも彼女に甘えてばかりで、結局彼女に彼氏らしいことをひとつもしてやれなかった。それなら、最後の最後で、好きだから────想っているからこそ繋ぎ止めないという決断を、彼女のためにした方が良いんじゃないだろうか。
「なまえちゃん…ちょっと良いかな」
「良いけど…なんだろう、深刻そうな話だね」
「うん、真面目な話」
そう言って昼休みに彼女を呼び出すと、彼女は何も言わずについてきてくれた。告白された時と同じ、校舎裏の小さなベンチの前。そこに立って、俺はずっと迷っていたことを口にする。
「────あのさ、俺…卒業したら、アルゼンチンに行こうと思うんだ」
彼女は大きな目を更に見開いて、言葉のないまま俺を見つめた。少なからずショックを受けているのは間違いない。愛されていることを実感することは嬉しいはずなのに、なぜか胸がぎゅっと痛くなった。
「今までみたいに連絡を頻繁に取れるわけじゃなくなるし、楽しみにしててくれたバレーを見せることもできなくなる。……だから、別れよう。このまま君を拘束していたくない」
別れようと言い出したのは自分なのに、その言葉を吐いた瞬間意識が宙に浮いたような気がした。自分の声じゃないみたいだ。自分の体じゃないみたいだ。
好きだよ。別れたくないよ。
冷たくて何にも興味がなさそうなのに、みんながくだらないって一蹴する話で笑ってくれる君が好き。
うまくいかない時に気分が落ち込んで、誰にも会いたくないと思っている時にそっと傍で黙っていてくれる君が好き。
君に笑って欲しくて、俺といる時間を楽しんで欲しくて────だから俺は、ずっと君の隣に居続けた。
でも、結局俺はバレーから離れられなかった。彼女のことがこんなにも大切なのに、自分の未来を変えることはできなかった。
君からあれだけたくさんの思い出も、大切な感情ももらっておきながら、こんなに勝手をすることが許されるなんて思ってない。
だから、心置きなく責めてほしい。俺のことを嫌いになって、すっぱり別れて、すぐに新しい素敵な人と出会ってほしい。
好きだと思う気持ちに嘘はないのに、それでもその感情を一番にできないこんな薄情者のことなんて、早く忘れてほしい。
「────及川が私のこと嫌いになったなら仕方ないけど、距離が遠くなるっていうのが理由なら別れたくないな」
彼女は凛とした声で微笑んだ。まだ冬の冷たい空気が身を凍らせにくるのに、彼女の表情も声も、春のひだまりのように暖かかった。
「私、たぶん及川が思ってる以上に及川のこと、好きだよ」
そして、彼女は小さく笑いながらそう言う。
「っていうより、及川のバレーが好き。チャラチャラヘラヘラしてるくせに、バレーにだけはどこまでも献身的で真摯なところ。────私はね、及川。…初めてあなたのバレーを見た時に、そのプレーに恋をしたんだ」
────そう言われて思い出したのは、告白された時のこと。
「初めて見た時から好きで」
よく考えもせずに「俺のことが好きなんだ」と思ってオーケーしたけど、ひょっとしてあれって────。
「え、じゃあなまえちゃんが好きなのって、俺じゃなくて…」
「ん? いや、及川のことも今は普通に好き。バレーが好き、イコール及川に興味はない、ってわけじゃないでしょ? バレーも含めた全部の及川が好き、って言えば良いかな。ただ"一番好きなところはどこ?"って訊かれたら、"バレーやってるとこ"って答えるよっていうくらいのことで」
だからね、と彼女は呼吸を置いて、初めて聞く本音に戸惑う俺のことをまっすぐ見上げた。
「及川がバレーを嫌いにならない限り、いつまでもどこまでもバレーと一緒にいてほしい。私、バレーに捨てられたなんて思いたくないの。バレーのこと大好きな及川がこんなに大好きなんだから、どれだけ距離が離れていても、心だけは一番近いところで応援してたい」
バレーを続けてね、と言われたあの時の会話が蘇る。
そうか、あれは単に物理的に近い距離で俺を見ていたいっていうだけの意味じゃなかったんだ。
彼女は本気で、俺の"バレー"に惚れ込んでいたんだ。
「及川のことは好きだったけど、別に付き合えなくてもそれはそれで良かったんだ。ただ、及川は放っておくとすぐ他の子にばっかり目移りするからさ…もし付き合うことができて、私の言うこと聞いてくれるようになったらもっとバレーに専念してくれるかな、なんてこう…変なこと考えちゃって」
ここにきて、今までずっと突き放され続けてきた本当の理由を知る。
彼女はずっと何を求めているんだろうと思っていた。恋人っぽいことをしようと提案しても、そこまで乗って来ない。我儘も言わないし、何の欲も出してこない。
気づいてみれば、それは当然のことだった。
だって彼女はずっとただ、俺にバレーをしてほしいと思っていただけなのだから。
「私は及川のバレーが好き。及川がバレーのこと大好きなのも知ってたから、むしろ私よりバレーのことを優先させてほしかった。私にとっては、その方が幸せだったの。ねえ、だったらさ、バレーのために日本まで出て行っちゃう及川のその行動って、私にとってはとっても良い報告なんじゃない?」
それでも別れなきゃ駄目かな、と言う彼女は、初めて悲しそうな表情を見せた。
「別れるんじゃなくて…いつか迎えに来てくれるのを待ってたい、って言ったら…重い?」
「っ…」
なぜだかいつもより小さく見えてしまったその肩を、強く抱きしめる。
「重いわけないじゃん…! 俺だって、本当は…本当は、待っててって言いたかったよ…! でも、俺が勝手に日本を出るっていうのに、君の人生まで止めちゃうなんて、そんなこと────」
「止まらないよ」
細い腕が、こわごわと俺の背に回された。抱きしめているので顔が見えなかったが、彼女の声は少し震えていた。
「大丈夫。私には私の目標がちゃんとあるし、私の人生を歩んでいける。ただ、隣にいてほしいっていうだけ。遠くても、なかなか連絡が取れなくても良いから、"及川徹の一番傍"で、あなたのプレーを見ていたいだけ」
「…俺、すっごい活躍して、めちゃくちゃテレビとか映るから」
「うん」
「なまえがどこにいても、俺の名前が聞こえるくらいのデカい選手になるから」
「うん」
「だから……待ってて」
ぎゅ、と掴まれた背中に力がこもる。鼻を啜る彼女は、泣いているようだった。
「────うん」
初めて見た時からずっと、好きだった。
好きだったから、誰よりも近いところで彼のことを見ていたかった。
誰よりも近いところにいたかったから────。
「好きだよ、徹」
────今日私は、初めて彼を引き寄せた。
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