楽園
講義が全て終わった後、私は全速力で研磨の家に向かっていた。
同じ科目を受けるはずだった最後の授業、彼は姿を現さなかった。
元々昼夜逆転しがちな研磨が授業の優先度を下げることは大して珍しくない。特に、出席を取らず先にレジュメも公開されているような大講堂での授業は。
ただ、私が今急いでいることには理由があった。
『ちよとやはまかも』
授業終了5分前になってようやく入ってきた一通のメッセージ。端的なのはいつものこと…なのだが、"読めない言葉"をわざわざ送ってくるような人じゃない。私はしばらく講義そっちのけで頭を捻り、とにかく何かしら返信しようとしてキーボードを出してみた。
そうしたら、気づいた。
『ちよとやはまかも』…これを仮にフリックの"打ち間違い"だと仮定するなら、彼はこう言いたかったのではないだろうか。
『ちょっとやばいかも』と。
元々"ま"行の下に濁点キーがあるせいで、急いでいると濁点のつもりで余計な"ま"を挟むことなんてよくあることだった。とはいえ、それはあくまで一般的な話。普段から慎重で、端的な代わりにいつだって正確だった研磨のメッセージがこんなにわかりやすい誤字に溢れていることなんて今まで付き合って2年、一度たりともなかった。
これは…本当に"やばい"のかもしれない。
一応返信はした。
『どうしたの?』
ただ、そこから返信は今のところない。私はメッセージを送った直後、講義終わりで混み合う前に講堂をそっと抜け出してそのまままっすぐ研磨の家の方へと向かっていた。
気の早い夏の日差しが容赦なく照り付ける、暑い暑い日だった。
高校卒業と同時に付き合い始めてそろそろ2年。3年間同じクラスに在籍し、その間なんやかんやと世話を焼いている間に懐かれ、そのまま流れるように付き合い始めた。
疑問は特になかった。私としても研磨の隣でゆっくりと流れていく時間が好きだったし、彼も私も自分の時間を大切にしたいタイプの人間だったので、趣味が違っていたってそこに違和感はなかった。日常生活が不規則になりがちな研磨の面倒を見る私と、そこそこ好奇心が強い割にゲームや機械類があまり得意でない私に知識を与えてくれる研磨。我ながらバランスは取れていると思う。そんなに感情を表に出す人ではなかったが、それでも"内"に入れてくれ、精一杯の愛情を注いでいてくれていることならわかっていた。
ただ、そんな研磨も唯一人のことを構っていられなくなる時季がある。
実は今回の"ちょっとやばい"も、それに関係しているのではないかと密かに思っていた。
研磨の天敵────気候。
────いや、本当のことを言えば研磨には天敵だらけだ。知らない人、知らない環境、人間関係、きっちりと分刻みで決められたスケジュール、暗黙の社会ルール、およそ人が人として生きていくために避けては通れない道も、彼にとっては茨だらけの過酷な道だった。
まあその話は今は置いておくとして────切ったり避けたりしながらであれば進める茨の道も、燦燦と照り付ける太陽の前には敵わない。最近雨が降ったり夏の日差しが照り付けたり、安定しない気候の中で研磨がみるみる弱っていっているのは目に見えていた。
ただ、それでも「大丈夫」と頑なに心配の声を拒むので、何もできずにいたら────ちよとやはまかも。何が大丈夫だ。何も大丈夫ではないじゃないか。
通り道のコンビニで、ゼリー飲料と栄養価の高そうな飲み物を数本買っていく。どうせ咀嚼することすら面倒がるだろうから、ここはひとまず栄養を流し込むことが先決だ。実家暮らしならきっと食べられるものはあるのだろうが、あそこで私に連絡を寄越してきたということは、ご両親は今不在なのだろうか。であれば、夜までなんとか凌げれば今日の私の使命はクリアだ。
────別に何かを頼まれたわけじゃない。研磨の性格的に、あのメッセージで何かを求めているというわけでもないのだろう。
私だって夏は苦手だ。夏そのものというより、移ろいやすい季節の変わり目に体が順応しきれていない、この不安定な体内の波が苦手だ。実際今だって、コンビニを出た瞬間あまりの温度差と強い日差しに一瞬頭がくらりとした。瞼の裏がチカリと緑色に光る感覚、嫌な生唾をごくりと飲み、それでも私は足を踏み出す。
だって、好きな人が困っているというのなら、何か少しでも自分にできることをしたいじゃないか。
高校の時から、友人には「なんか恋人っていうより親子みたいだよね。孤爪君がなまえのために何かしてくれてるの、見たことない」と言われてきた。
違う、違うのだ。
他の子みたいに、誕生日に派手なプレゼントを貰ったことはないかもしれない。毎日のようにデートだってしていたわけでもない。
でも、研磨は大きな愛を伝える代わりに、たくさんの小さな愛を何度も与えてくれた。
彼はいつも、私に歩道側を歩かせてくれた。コンビニで何か買う時、いつだって私にお裾分けしてくれる分も買ってきてくれた。眠れない夜は、どんな時だって徹夜覚悟で電話に付き合ってくれた。
花を見ると、私の笑顔を思い出すらしい。猫を見ると、私の挙動を思い出すらしい。
「おれにはこれしかできないから」と口癖のように言われていたが、私にはそれだけで十分だった。できることを全てやってくれている研磨の小さな愛は、私の心の中に消えることなく積もり続けてすっかり大きな山を成していた。
性分ということだってあるかもしれない。それでも私は、彼のことが大好きだった。大好きだから、傍にいたかったし、いつも手を差し伸べていたいし、世話だって焼きたいと思ってしまう。
全身から溢れ出る汗を拭う間もなく、研磨の家の前に辿り着く。一応インターホンを鳴らす前に本人に連絡しようとダメ元でスマホを鳴らしてみると、予想は裏切られ2コールで声が返ってきた。
『どうしたの?』
「ごめ…今研磨の家…前いて…色々買った…」
走ったわけでもないのに、息が上がっていた。いきなり立ち止まったせいで、頭がくらくらする。朦朧とする脳でなんとか要領を得ない単語を発すると、察しの良い研磨はそれだけでも理解してくれたらしく、窓をガラリと開けて自分の部屋からすぐに顔を覗かせた。
「!」
それから一言も発することなく、顔が引っ込む。遠くの方でバタン、ドタドタ…と何やら慌ただしい音が聞こえたと思ったら、数秒後には玄関のドアが開いていた。
「と、とりあえず部屋上がって」
なぜか焦った様子の研磨に手を引かれながら、重たい足で階段を上る。研磨は大丈夫なのかなあと相変わらず靄がかかったような頭で考えていると、急に体の中に冷たい風が通り抜ける。
「座ってて────それか、しんどかったら横になってて。あ、ちょっと待って…」
研磨の容態を心配させてくれる暇もなく、研磨がバタバタと再び部屋を出る。
あれ、私…ここに何しに来てたんだっけ…。座ってて、横になってて…それ、私が言うはずの言葉じゃなかった…?
冷房の効いた部屋で、ようやく息をまともに吸う。壁に掛けられた鏡を何気なく見ると、そこに映る私の顔は真っ赤だった。
ああ、道理で────頭も痛いし、呼吸が荒いし、体は怠いし、顔は真っ赤。さしずめ軽い熱中症か…喉の渇きもあるのは、脱水症状でも起こしたのだろうか?
コンビニから約20分、バスが着くのも待てずにずっと歩いてきた。先に言った通り、私も決して暑さに強いわけではない。むしろ元の素質としては、ずっと運動部にいた研磨よりも虚弱と言って良いほどだ。
…それで彼は気を遣ってくれたんだろうか。自分だってしんどいはずなのに、私の顔を見てすぐ駆けつけて、今頃もしかしたら冷たいお茶でも────。
「────その、ごめん。まだ干してないからもしかしたらちょっと埃っぽいかもしれないんだけど…」
────予想の斜め上だった。
戻って来た研磨が手にして…というより抱えていたのは、麦茶なんかではない。
布団だ。大きな敷布団を抱えながら、動きづらそうに部屋の中に入ってくる。
「でもベッドよりはマシだと思うから、そこで一回休んでて。あ、あとお茶も…」
「ちょ、研磨?」
「辛い? 病院行く?」
「そうじゃなくて…あれ、研磨は大丈夫なの?」
冷気にあてられてようやくはっきりした意識で尋ねると、研磨は不思議そうな顔で首を傾けた。
「…何の話? 授業休んだこと? 別に珍しいことじゃ────」
「だって研磨、私に誤字だらけのヘルプメッセージ送ってきたじゃん…え、体調は?」
「普通にしんどかったから今日は休んだけど………」
言いながら、自分のスマホを確認する研磨。しばらくたぷたぷと操作したかと思ったら、動きを完全に止め、数秒後に大きな溜息をついた。
「……なまえ、ごめん」
「ごめん…?」
「無意識で送ってたっぽい…」
それから聞いた話によると、こうだった。
研磨は今日、昼過ぎに起きたらしい。その時点で、昨日の夜かけていた冷房のタイマーは切れており、もはや部屋は蒸し風呂と化していた。
起き上がれない。食欲もない。
そこで一度冷房をつけなおし、大学を休むことに決め、ベッドボードの上に置いていたペットボトルの水を半分一気に飲み、体力が戻るまで二度寝をすることにした。
…ということしか、記憶にないそうなのだ。
「確かに今日の熱さは異常だったから起きた時は死ぬかと思ったんだけど、適温にして二度寝したら普通に体調は戻ったから大丈夫。…それより…」
「ああ、それなら良かった…」
布団を敷き終わった研磨が、ぽんぽんと私を誘う。枕がないので研磨の部屋にあるクッションを代わりに使って、と言いたげに、彼はクッションを上の方にちょこんと添えた。
「────じゃあ、そのメッセージを見てあんなに急いで来てくれたってこと…?」
「そりゃあそうだよ、研磨が誤字だなんて珍しいし、返事はない…のは寝てたからだろうけど、何か大変なことになってたんじゃないかって…」
安堵の溜息を吐くと、研磨がクッションを整える姿勢のまま私をこわごわと見上げた。
「…ごめん」
謝られてから、私は今の自分の言葉が取りようによっては責めているように聞こえていたかもしれない、とすぐに反省した。怒ってなんているものか。確かに体が払った代償は大きかったが、それを上回る安堵が私の脳を鎮めている。
「今元気なら良かったよ。あ、出席は隣の人にシート渡して頼んでおいたから、安心してね」
「おれ…ごめん、まさかなまえにそんなこと送ってたなんて思いもしなくて…ひとりだけ快適な部屋で寝てて…なまえにこんな辛い思いさせて…」
「? 何も辛くなんかないよ」
「でも、おれがもっとちゃんとしてたら、なまえがこんな風になることもなかった。なまえが気候の変化とかに弱いのだって、ちゃんと知ってたのに」
まるで死の淵にでもいるのではないかと思わされそうなほど、研磨の声は悲壮感に溢れていた。つい笑いそうになってしまったのだが、思った以上に彼の顔が真剣だったので、それさえ憚られてしまう。
「だっていつもそうじゃん。なまえがそうやって色々やってくれるのに甘えて、おれはなんにもできなくて…彼氏なのに」
絞り出すような声に、思わず胸がきゅっと縮む。
「────なんにもできないなんて、そんなことないよ」
いつにも増して声の小さい研磨に何と返そうか迷っていたのだが、言葉は考えるより先に出ていた。
「私は自分の時間を大事にしてる研磨が好きだし、私のことも自由にさせてくれる研磨が好き。それだけで十分なのに、研磨は私に色んなことをしてくれてる。現に今だってそうじゃん、私がおかしいのに気づいたら、すぐに布団を持ってきてくれて、何よりも心配してくれて」
「だって、それはおれが」
「今回のことだけじゃないよ。日常の些細なことから、いつも感じてる。研磨が私のことを大切に思ってくれてて、私が喜ぶことを考えてくれてるの、わかってる」
「そんなの、たいしたことじゃないじゃん。結局おれは自分のことがいつも第一になってるし────」
「無理をして私を優先されたって、それは私も辛いだけだよ。"できる範囲で"、"お互いが自然にできることを"それぞれの温度でやっていくのが一番好き。だから私は…そうだなあ、研磨が何と比べて自分を卑下してるのか知らないけど、今のままの研磨でいてほしいって思ってるよ。それに今日私が勝手に研磨の家まで来ちゃったのだって、見方を変えれば"ろくに研磨の状況を確認しようともせず押しかけた私が迷惑だ"、ってことにもならない?」
「ならない」
「あはは、ありがと。でもつまり言いたいのはさ、それが研磨にとって迷惑じゃなくて、私も苦痛だって思ってないんなら、私達はこのままの距離感で良いんじゃない? ってこと」
長台詞を喋っていたら頭痛が戻ってきてしまったので、大人しく研磨の持ってきてくれた布団に体を横たえる。それだけで少し楽になったような気がして、自分の浮かべている笑顔が更に緩んだのを感じた。
「にしても、研磨が私にメッセージ送ってくれたの、思ったより嬉しかったなあ…。なんだろう、無意識レベルで私を頼ってくれてる、みたいな? 彼女っぽくない? そういうの」
「…無意識でも意識下でも、一番頼りにしてる」
「黒尾さんより?」
「え…比べるのそこ…? おれからしたら全然土俵が違うんだけど…」
「冗談だよ」
長い溜息をつくと、研磨もようやくそこで冷静な頭に戻ってくれたらしい。「お茶…」と呟いて部屋を出ようとしたところで、私が持ってきていたコンビニの袋に目を向ける。
「これ、おれのために買ってきてくれたの?」
「そうそう」
「ありがとう。…買ってきてもらったのに言うことじゃないけど、もしかしたらこれ、なまえに飲んでもらった方が良いかも。栄養あるし、まだ冷えてるし…」
「あー、それ言おうと思ってたんだよねー…ちょっと分けてもらえないかなーって。半分こしない?」
「全部あげる…っていうか、元々なまえが買ってくれたやつだし」
そう言いながら、彼はどこか気まずげに、横になったままでも口にできるゼリー飲料を手渡してくれた。「起き上がれそうだったら、ちゃんと水分も摂って」と言うので、気怠い身を起こして提案通りにスポーツドリンクを飲む。喉は予想以上に乾いていたようで、満足のいくまで潤していたら一本そのまま飲み切ってしまった。
「夜になる前には帰りなよ。泊まっても良いけど、そうまでしなきゃいけないほどしんどいなら病院、付き添うから」
研磨らしくない、力強い言葉だった。
「うん、ありがとう」
「眠れそう?」
「ううん、眠くはないからちょっとだけ休ませてもらえれば平気。ゲームとかしてて…って、私がいたらやりにくい? やっぱり何も確認せずに来るんじゃなかったな、ごめん」
「ここにいる。なまえが眠れないんなら、おれもここで起きてる」
余程今日のことで責任を感じさせてしまったのだろうか。こうなった研磨はてこでも動かない。却って心配をかけてしまったな、と少しだけ反省しながら、それでも自分が先程ああ言った以上厚意は素直に受け取った方が良いのだろうと思い返し、ふうと息をつく。
「…なまえ」
「ん?」
「…ありがとう、心配してくれて」
態度の割には弱々しく名を呼ばれたので何かと思えば、そんなことだった。
「いつも気にかけてくれて、ありがと」
「そうしたいって思ってやってるんだから、気にしないで」
「おれ…気持ち伝えるのとか、誰かに何かをしてあげるのとか、苦手だけど…。でも、なまえのこと、ちゃんと好きだから。いつもなまえのこと考えてるし、それに…それに…」
「伝わってるよ、大丈夫。ありがとう」
「……ずっと一緒にいたいって思ってる、から、おれもちゃんと、行動に移すようにする」
────私からしてみれば、もうその言葉だけで十分だった。
研磨が口下手なことなんてとっくに知ってる。アクションを起こすのが苦手だなんてことも、最初からわかってる。わかった上で好きになったし、全てを知った上で付き合っているのだ。そんなこと、一度だって気にしたことがない。
それでも彼は、一生懸命…それこそ顔を真っ赤にしながら、私にそう伝えてくれた。
自分だってまだ体調が万全というわけではないだろうに、私のことを精一杯気遣ってくれた。
ああ、私、愛されてるなあ。
「…何かしてほしいこととか、ない?」
「今?」
「そう」
「うーん…じゃあ添い寝してほしいなー、なんちゃっ…」
て。
暑いから嫌だ、と言われるつもりでそう言ったのに、研磨は私が言い終わる前にそっと足を床に伸ばして私の隣にころんと寝転んだ。
「…今日はこのまま話、する?」
「…研磨、どしたの」
「え、してほしいことないかって訊いただけなんだけど…」
「いつもなら絶対嫌がるじゃん。ね、私無理してお願い叶えてほしいなんて思ってないよ」
そう言うと、研磨は今日初めて笑った。たまに見せる、照れたような目の細め方で、口角が僅かに持ち上がる、私の大好きな笑顔だった。
「でも、自然とやりたいって思っちゃうことならやって良い、とは言ったじゃん。今日はそういう気分だったから叶えたんだけど…ダメ?」
「だ…め、じゃないけど…」
まずい。せっかく下げていたはずの体温が、また急に上がっていくようだ。
「…おれ、なまえが彼女でいてくれて良かった。なんか今日ならたくさん言えそうだから言っとく。…ありがと」
こちらこそありがとう、そう伝えるつもりでそっと手を差し出してみたら、研磨の優しい手がすぐに私の手を包んでくれた。
外は暑い暑い、気の早すぎる夏日。
それでもここは、涼しい風とたくさんの愛に溢れた、楽園だった。
Twitterのマシュマロにていただいた案です。
元は「黒尾と梅雨のしんどい時期を乗り越える」という話だったのですが、研磨と迷われている…というお話を伺ったので、勝手に書かせていただいたものです。なので厳密にはリクエストというよりただの原案強奪事件……。
そして書き終えるまでにかなり時間も経ってしまったので、少し時季をずらし、夏に寄せた話にしています。
相変わらず気候の変化に弱いヒロインと、それ以上によわよわだった研磨の話。
黒尾の場合はヒロインの状態に合わせて適切な処置をしてくれそうだな、と思ったのですが、相手が研磨の場合はどちらがどちらを頼る、というより持ちつ持たれつで一緒にだらだらする方がイメージとしてしっくりきたので、こんな感じのお話になっています。
案をくださった優しい方のお口に少しでも合いますように。そしてその方と、このお話を読んでくださった全ての方が、少しでも楽に夏を乗り越えられますように。
とはいえ、しんどいのはここからが本番ですね。私も体調をこれ以上崩さないよう、ほどほどに生きていこうと思います。
素敵な機会をいただきありがとうございました!
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